第10話 買いだめ
◇
上官の部屋のドアを開けたデュマ(*1)は、固まった。
ベッドは乱れており、あられもない姿の総司令官夫人が辛うじて毛布で体を覆っている。
彼女は泣いていた。
彼女の傍らには、総司令官が横たわっていた。
「わたくしは、ええと……」
確かに呼び出しのベルを聞いたとデュマは思った。あれは幻聴だったのか。
どこへ目を向けたらいいのかわからない。
「彼女か?」
デュマの目線を追い、ボナパルトが言った。
「ジョゼフィーヌにも困ったものだ。彼女は俺についてエジプトへ行きたがっている。それを止めるのに一苦労しているところだ」
総司令官は、彼はにやにや笑っていた。
それに対し、自分がどう答えたのか、デュマは覚えていない。
這う這うの体で、デュマは逃げ出した。
「デュマのやつ……」
少しして参謀のベルティエが訪れると、ボナパルトはぷんぷん怒っていた。
「ジョゼフィーヌの下着姿を見やがって。怪しからんやつだ」
「デュマ将軍は、貴方の呼び出しに応じたのでしょう? 私もベルの音を聞きました」
「うむ、俺がデュマを呼び出した。なにしろやらなければならないことが山のようにあるからな。おちおち寝てもいられない。だが、後からジョゼフィーヌが嫌がったのだ。俺以外の男に下着を見られることに」
上官の妻に対するさまざまな噂を知っていたベルティエは、下着を見られたくらいで彼女が動転するだろうかと首を傾げた。もちろん、何も言わなかったが。
「なあ、ベルティエ。エジプトへ君は、ジョゼッパを連れて行くのか?」
「ヴィスコンティ夫人とお呼び下さい!」
普段はボナパルトの意のままに動くベルティエが色をなした。
「連れて行くわけがないでしょ。彼女は人妻なんですよ?」
「ああ、そうだったな」
上の空でボナパルトは参謀の抗議を流した。彼の頭は、ジョゼフィーヌのことでいっぱいだった。(*2)
妻を連れて行くか祖国に残すか、未だにボナパルトは決めかねていた。ボナパルトの兄弟姉妹は、しばしば妻の浮気をボナパルトに示唆した。もちろんボナパルトは厳しく妻を問い詰めたが、彼女は泣きながら否定した。
浮気の不安を追い払う為には、エジプトに同行させるのが一番だ。しかし、見知らぬ大陸に連れて行くことは、危険が伴うかもしれない。
ボナパルトの不安に対し、妻は、マルティニャック島育ちの自分には、異国情緒溢れる国の危険は少しも目新しいことではないと、同行を希望した。妻の強い決意の表れに、ボナパルトは、兄弟に騙されて彼女の不貞を信じた自分を恥じ、同時にジョゼフィーヌへの強い愛が募るのを感じた。
妻を連れて行きたい。毎日のようにまぐわいたい。けれど、エジプトへ連れて行くのは危険かもしれない……。
決めかねたまま、ずるずるとトゥーロンまで連れてきてしまった。兵士たちは上官夫妻を歓迎したが、彼らと同じ船に妻を乗せていいものだろうか……。
「ライン軍から来た将軍達はどうするのだろう。彼らは妻を同伴するだろうか」
首にカラーを巻きつけながらボナパルトが尋ねた。
「いえ、皆さん独身ですし、決まった恋人もいないようですよ」
「情婦はどうだ?」
「配下の兵士に女性帯同を禁じている以上、指揮官だけが特別扱いされることに、ライン方面の諸将は慣れていないようです」
言葉を選んでベルティエは告げた。携えていた紙の束をボナパルトに渡す。
「ローマの新聞です」
立ったまま受け取り、ボナパルトはざっと目を走らせた。
そこには、チビタ・ベッキアでの出港準備の様子が綴られていた。ローマからの出向組だ。相変わらず行き先は一切明かされていないとの
記事の最後に、ローマ出向組の指揮官、ドゼ将軍のインタヴューが添えられていた。
「なんだ、これは。『遠征には女性を連れていけないので、みんな、買いだめに走ってる』だと?」
「なかなかエスプリの効いた返しですな。多少下品ですが」
下品どころの話ではない。ボナパルトはむっとした。
記者に対し、遠征には女性を連れて行けないと、ドゼは明言している。こんな記事を乗せられた後で、自分がジョゼフィーヌを連れていったら、いったいなんと書かれることだろう。
「ドゼは、ポーリーヌの誘いも断ったそうだ」
不愉快だった妹からの報告を、ボナパルトは思い出した。
妹のポーリーヌはローマに住んでいる。当地から出港するドゼ師団に対し、歓迎の意味をこめて、彼女はドゼをサロンに呼んだ。
ところが、何度声を掛けても、ドゼは現れない。緊張しきった副官のサヴァリが御追従を言いに来たばかりだ。むっとしたポーリーヌはドゼを子どもだと認定し、子どもには子どもにふさわしい贈り物をと、副官に飴を託したという。
「パリでは、オルタンスに会わせようとしても来やしなかったし、全くあいつは、何を考えているんだ?」
自分の家族と付き合いたくないのかと、ボナパルトはひがんだ。
「ドゼ将軍が尋ねなかったのは貴方の家だけじゃありませんよ。彼はあらゆる貴婦人のサロンからの誘いを断っていたそうです」
苦労人の参謀が、慌てて宥める。
「そういえば、以前、クレベールがそんなようなことを言っていたな。もしかするとドゼは、女に興味がないんだろうか」
「そんなこともないようですよ」
ベルティエは取り合わなかった。
「ドゼ将軍からは、とにかく将校の不足を報告してきています。砲兵隊長と工兵将校がいないそうです」
そういえば、ドゼが連れて来た砲兵隊長をジェノヴァへ回したと、ボナパルトは思い出した。砲兵の不足を訴えてきたディリエ将軍の下に回したのだ。
人材不足はどこも同じだ。イタリア遠征からずっと自分の下にいたディリエを優遇したくなるのは、極めて自然なことではないか。
だが、ドゼに対して負い目を感じていたのは事実だ。それで、同じく彼が連れて来た騎兵(*3)は、自分の下に入れたいのは山々だったが、レイニエ将軍の下に回してやった。レイニエは、ドゼと同じくライン軍の師団長だった。彼もまた、ドゼの口利きで、遠征に参加していた。(*4)
「旧イタリア軍のやつらは、ドゼの言う事を聞いているか?」
意地悪い気持ちでボナパルトは尋ねた。かつて自分の下で戦った将校や兵士たちが、新しい司令官に対してうんと逆らうといい、と願った。なんといっても、彼らはボナパルトの部下なのだから。
「うまくいっているようですよ。見かけはあの通りですが、ひとたび軍務に入ると、人が変わるそうです」
ベルティエは答え、再びボナパルトはむっとした。部下を盗られたようで、腹立たしい。
「ベルナドット将軍は、無事にパリへ戻られたそうです」
ボナパルトの心中を気にもせず、ベルティエは報告を続ける。
イタリアでボナパルトの援軍に来たベルナドットは、オーストリアの大使となってウィーンへ赴いた。
ボナパルトとしては、偏屈なベルナドットが自分の後釜としてイタリアに居座るよりはよほど良かった。ベルナドットは、杓子定規で何かと口うるさい将軍だ。ボナパルト時代の会計の不都合を、あれやこれやと探り出しそうで気がかりだった。
ウィーンでも彼はこの四角四面な性格を発揮したらしく、大使館に掲げた三色旗が市民に焼かれるという事件が起きた。
すわ、オーストリアと開戦かと、軍は色めき立った。そうなったら、エジプト遠征どころではない。
ところがオーストリア皇帝(*5)が謝罪して、なんとか事なきをえたという。もっともベルナドットの方は怒り狂って、そのままパリまで返ってきてしまったようだが。
問題は、だが、ベルナドットだけではなかった。パリのタレイランから、トルコ宮廷との協調を打ち出してきたのだ。彼は、トルコを味方に、イギリス・ロシアと対峙したい考えだった。
タレイランによれば、そもそもエジプトは、トルコの領土だったという。だが今現在、現地の蛮族、マムルークの支配下にあり、エジプトの民は彼らによって虐げられているというのだ。(*6)
ボナパルトとしては、エジプトは無主地、即ち、打ち捨てられた未開の国というイメージだった。スルタンとの協調? なんだかとてつもなく厄介なことになった気がする。出発前にめげそうだった。
ベルティエが何か言っている。
「それに伴い、各港の司令官たちが出航の日時を問い合わせてきました。トゥーロンからの正確な出航日が知りたいそうです」
各港からの船は、イタリアの沖で合流することになっている。トゥーロンからの出航日がわからなければ、自分たちの出航日も決められないというわけだ。
「俺にどうしろというのだ?
ボナパルトは吐き捨てた。
そして、やはりジョゼフィーヌは置いていこうと決意した。郊外の保養所にでも滞在させて、エジプトの政情が安定してから呼び寄せよう……。
________________
*1 デュマ
https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-106.html
なお、将軍デュマは、小説家のデュマ(大デュマ)の父親です。エジプト遠征から帰還後、彼が生まれました
*2 ジョゼフィーヌ
https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-13.html
*4
この騎兵将校が、ダヴーです。ドゼの下にいたダヴーは、彼の紹介でボナパルトの下へ入りました
*3 レイニエ
https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-143.html
フリュクティドールのクーデターで(ドゼと共に)失職したレイニエを、ドゼが遠征に誘ったという流れです。
第6話「西海岸の視察」解説、ご参照ください
*5 オーストリア皇帝
皇帝フランツです。殿下のお祖父様です
*6 マムルーク
https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-291.html
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