第38話 ドゼのハーレム


 「ドゼ将軍!」


 ドゼのテントに、ラサール(*1)が飛び込んできた。

 中にいた数人の女の子達が驚いて、テントの外に散っていく。


「なんだ?」


 ドゼは、クッションに埋もれていた。彼は半裸だった。

 ここはドゼのハーレムだ。


 ギルガで船団フロティラを待つ間、ドゼ師団は停止を余儀なくされていた。

 ファユームを征服したことにより、地元の実力者たちは次々とドゼに貢物を持ってきた。彼は、個人的な贈り物は受け取らなかったが、気に入った女の子がいると喜んで自分のテントに入れた。そして、可愛らしい男の子も。


 今、テントから逃げて行ったのは、3人の少女達だった。ラサールは首を傾げた。


「あれ、一人足りませんね」

「アスティザか?」

「ええ、金髪で物凄い美人の」


 グルジア人の少女で、オアシスの国を征服したことにより、ドゼが継承した少女の奴隷だ。彼女の主人は死んでいる。


「彼女なら、売っちまったよ」

あっさりとドゼは答えた。

「えっ、売った? あんなに若くてきれいだったのに?」


 ラサールは驚いた。マムルークと同じカフカスコーカサス出身のアスティザは、ドゼのお気に入りだったはずだ。


「うん。6000リーブルで売れた」(*2)

「それはまた……」

 砂漠の国では破格の値段だと言えよう。


 まばらに生えてきた髭を、ドゼは撫でた。

「高く買ったのなら、次の主人も彼女を大切にすると思う」

 自分が売り飛ばしておいて何を言うのだと、ラサールは呆れた。

「いつ売ったんです?」

「一週間ほど前」

「一週間前。まさか……」


 ちょうどその頃、軍には大量の酒精スピリットの補充があった。地元の業者が納入してきたのだ。軍医は大喜びだった。薬が少ない折、殺菌にも仕えるスピリットは貴重だ。

 もしやドゼは、大好きだった奴隷の少女を、大量の酒精を得る為に売ったのだろうか……。


 ドゼの顔に、微かな感情が浮かんだ。穏やかな彼に似つかわしくない、高い湿度を秘めた何かだ。だが現れると同時に、それは諦めに似た色に取って代わった。

「彼女のことはもういいだろ。それより君、何の用だ? せっかく東洋の癒しに陶然となっていたのに、邪魔しやがって」


 あまりの言いように、ラサールはむっとした。せっかくドゼに高貴さを見出したような気がしていたのに。彼を尊敬できそうだったのに。

 憤然と、ラサールは噛みついた。


「それどころじゃないです。今すぐマレム・ヤコブを追放して下さい!」

「追放?」


 立ち上がり、ゆるやかな現地のローブに袖を通していたドゼが振り返った。裾を踏み、転びそうになる。

 すかさずラサールは叫んだ。


「そうです! コプト人(*3)のヤコブです! 彼は裏切り者だ!」

 「何を言うんだ。彼はフランスの味方だ。得意の財務方面だけではなく、実際に剣を取って戦ってくれている」

「はん! あんな爺さん!」


ヤコブは50歳を過ぎていた。学者のモンジュと同じくらいの年齢だ。


「いずれ君だって老いるのだよ、ラサール将軍」

達観したようにドゼが言うのにラサールは喰ってかかった。

「その前に俺は死にます。戦場でね!」

「それでは損だ。これだけ給料未払いが続いているのだから、年金を貰うまでは生きていたまえ」

「国は、給料を払わないつもりですか! いや、貴方に言ってもしようがない。とにかく、ですね。マレム・ヤコブの重大な裏切りを見過ごすわけには……、」


「私がどうかしたかね」


 ラサールの言葉の途中で、男が一人、テントの中に入って来た。頭にターバンを巻き、両方のもみあげから顎にかけて、白い髭を蓄えている。目にはどこかひょうきんな光を湛え、唇はぶ厚かった。

 彼の後ろで、女の子が一人、身を翻してさっと逃げていくのが見えた。さっきまでテントにいたアビシニア(エチオピア)人の少女だ。


 ドゼの目尻に笑みが浮かんだ。

「サラが呼びに行ったんですね?」

「その通り」

 男……マレム・ヤコブは答えた。

「彼女には、私の名前だけが聞き取れたそうです。貴方に危険が迫っていると心配して、私を呼びに来たわけです」

「危険?」

「貴方のことですな、ラサール将軍」


 ヤコブに指摘され、ラサールはむっとした。ヤコブは平然としている。


「なにしろサラはドゼ将軍のことが大好きだから。将軍の遠征についていくと言っていますよ」

「全く、あのじゃじゃ馬にも困ったものだ」


 けれどドゼは、少しも困ったようには見えなかった。どちらかというと幼い娘のいたずらを見守る父親の顔に近い。


 「で、私が裏切り者とは?」


 にこにこと微笑みながらヤコブはラサールに問う。彼のフランス語は完璧だった。


 フランス軍がエンババで勝利するまでピラミッドの戦いで、エジプトは、ムラド・ベイとイブラヒム・ベイのマムルーク2大勢力により搾取され続けて来た。その上、トルコ帝国にも税を治めなければならない。

 フランスの革命思想に、ヤコブは、長い間虐げられてきたエジプトの独立の可能性を感じた。彼はためらうことなくドゼ師団に身を投じた。


「今の私の主人は貴方です、ドゼ将軍」


 遥かに年上の異国の男に熱いまなざしを向けられ、ドゼはくすぐったそうな、また、困ったようにも見える顔になった。

「君の上官はボナパルト将軍だよ。そこは間違えたらいけない」


「いやいやいや、何言ってんですか!」

 置いてけぼりをくらったラサールが叫んだ。ヤコブに向き直る。

「俺は知ってる。お前、軍を私物化してるだろう!」

「私物化、ですか?」

穏やかにヤコブが問い返す。

「そうだ。今日訪ねて来た宗教的指導者シャリーフが言っていた。ファユームに駐屯している軍は、全てマレム・ヤコブのものだ、って」

「ほう」

「ヤコブは、フランスの軍を掌握していると、この辺りでは、みんな思っている」


「いいじゃないか」

 ドゼが口を出した。

「かえって好都合というものだ」


「はあ?」

ラサールの顎ががくんと下がった。

「ドゼ将軍はそれでいいんですか! 上エジプトここでの軍の司令官は貴方です! ドゼ師団がマレム・ヤコブのものだと思われて、貴方は平気なんですか?」

「うん、構わない。ヤコブにはコプト人を取りまとめて貰っている。うまくいけば、コプト人部隊ができるぞ? そうじゃなくても、現地の人の信頼を得るには、ヤコブのような人の軍だと思われているのが一番だ」

「しかし!」


「フランス軍を、私は決して裏切らない」

 ラサールを見据えるヤコブの目に力が入った。

「エジプトはエジプト人のものです。マムルークやトルコ人のものでは決してない。ドゼ将軍はそこのところを理解して下さっている。私はこの方を裏切りません。永遠に」


 深く深く頭を下げ、ヤコブは去っていった。


 「ドゼ将軍は、」

 言いかけ、ラサールは何を言ったらいいのかわからない。

「貴方には欲というものがないのですか」


 ようやく口を衝いて出て来た言葉は、随分と俗な言葉だった。だがその分、真実を衝いている気がする。

 だってミルー将軍は、自分の軍を取り上げられただけで死んだ。大事な軍をたった一人で追いかけて砂漠に出、ベドウィンに襲われて殺された。(*4)


 ドゼが口を歪めた。

「欲か? あるぞ。俺は栄光が欲しい」

「栄光……」

「君と同じだ、ラサール将軍」

ふっとドゼは笑った。


「だが思い詰めてばかりいると体に悪い。東洋ではな。体をリラックスさせるのが良いとされている。彼らは我々西洋人が思いもよらない方法で、体を解放させる。またそれが、言いようもなく心地いいのだ。君もマッサージを試してみるか? 足を揉んでもらうだけで、至福の境地だ。簡単に眠ってしまうぞ? 俺の女の子たちを貸してあげようか」


「結構です。カイロに口説いてる女がいるんで」


 脊髄反射でラサールは断った。ドゼの「女の子たち」が、彼を捨て、自分に靡いてしまうことを、ラサールは本気で恐れた。


 ラサールは、イタリア遠征時代から、女にもてもてだった。泊っている宿舎に姉妹がいれば、姉も妹も彼に夢中になった。下手をすると、その母親までが言い寄って来たものだ。

 色恋沙汰において、ドゼなど、到底敵ではない。


「口説いてる女? ポーリーヌ・フーレだろ。フーレ中尉の嫁の」

 気を悪くする風もなくドゼが指摘する。


 フーレ中尉は新婚の妻と一時も別れることができなくて、エジプトにこっそり妻を連れて来ていた。彼女は、騎兵隊の猟騎兵の姿をして、夫についてきたという。ブロンドの髪、小柄な体、そして歯並びのきれいな女性だった。


「な、なぜそれを!」

 ラサールはのけぞって驚いた。


「なぜって……」

ドゼは口を濁らせ答えようとしない。


「まさかドゼ将軍、ポーリーヌに……」

さすがにラサールが詰め寄る。


「いや、俺じゃない。俺よりずっと力のある将軍だ」

「ドゼ将軍より力がある?」


 何のヒントにもなっていない。いったい誰だそいつは、と、ラサールは思った。








 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

*1 ラサール

8話「ラサールはマザコン?」に出て来た戦隊長です

https://kakuyomu.jp/works/16817330655728167040/episodes/16817330656431992251

近況ノートに画像を上げておきました。

https://kakuyomu.jp/my/news/16817330658979154726



*2 6000リーブル

ちょっと古い情報ですが、17世紀初め、男子工場労働者の年収が、400リーブルでした



*3 コプト

エジプトのキリスト教徒。なお「マレム」はキリスト者への尊称



* ミルーの死

15話「ミルー師団の移籍」、参照下さい

https://kakuyomu.jp/works/16817330655728167040/episodes/16817330656678181240

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