第15話 ミルー師団の移籍
軍議で何があったのか、ベリアルにはわからない。ドゼは何も話してくれないし、ミルーは怒り狂っている。
そのうちに、より過激な噂が伝わって来た。
……あの冷静な
俄かには信じがたい。
不審に思っていると、ルクレール将軍(*1)がやってきた。ロゼッタ(アレクサンドリアの東。ナイル河河口)が占領されたので、砂漠に偵察に出かけるという。ベリアルの4つの部隊のほかに、ミルーの軍も連れていくと彼は言った。
「ミルー将軍の?」
それにしては、彼の姿がない。指揮官なしで出発することはできない。ベリアルが問うと、ルクレールは得意げに胸を張った。
「ミルー将軍の軍は、俺の下に入った。今回の偵察は、だから、ドゼ師団から君の部隊、そして、デュギュア師団から俺の部隊の、合同偵察ということになる」
「どういうことだ?」
驚いてベリアルは尋ねた。
ミルー部隊が、デュギュア師団に?
「ミルーは、ボナパルト将軍に逆らったのだ。エジプト遠征は、ただボナパルト将軍の栄誉を求めるだけの行為である、とまで言い切った」
そんなことはあり得ない、と、ベリアルは思った。総司令官に逆らうなど、そんな……。だが、砂漠の行軍中、ミルーが苛立っていたのは事実だ。
ミルーは最初から、行先も知らされない遠征に批判的だった。イタリアへライン河畔から援軍に来たベルナドット師団に属し、ボナパルトへの反感を隠さない師団長に忠実だった。
果たして、エジプトでの行軍は困難を極めた。僅かな水を奪い合って兵士たちは殺し合い、どこまでも続く乾いた砂漠の行軍に絶望した兵士の中には、自死を選ぶ者までいた。
それに対し、ドゼはどうすることもできなかった。足りない水や食料を、
ルクレールが、ミルー軍の前に立った。ロゼッタが占領されたので、偵察に出ると告げた。
「本日ただいまより、君たちの指揮官は俺だ。君たちは、デュギュア師団の所属となる」
「デュギュア師団? 俺たちはドゼ師団じゃなくなるんですか?」
悲鳴のような声がした。藁色の髪の、まだ年若い少年兵だ。彼もまた、ライン軍から援軍に来た兵士だったと、ベリアルは記憶している。ローマ軍に編入されていた彼は、自ら志願してエジプト遠征についてきた。
むっとしたようにルクレールは頷いた。
「俺の上長は、デュギュア将軍だからな」
少年兵は納得しなかった。
「俺たちは、ミルー将軍の指揮でなければ行軍しない」
「黙れ!」
鋭い声でルクレールが叫んだ。
「ミルー将軍から指揮権を取り上げよというのは、
「嫌だ! 俺はドゼ師団を離れたくない!」
言い終わる前に、小柄な少年兵の身体が吹っ飛んだ。ルクレールが張り手を噛ましたのだ。
……やりすぎだ。
砂の上に倒れた少年を起こそうとしたベリアルを、誰かが制した。
ドゼだった。
彼は少年を助け起こし、その耳に何か囁いた。赤く頬を腫らした少年は、不思議そうな顔をした。
砂漠の偵察にきたのだと(それが師団長のやることかとベリアルは思ったが)、ドゼは言った。彼はそのまま、駐屯地へと戻っていった。
すぐにベリアルとミルーの軍は、ダマンフールを出発した。砂漠を、
「さっき、ドゼは君に何と言ったのだ?」
先ほどの少年兵に近づき、ベリアルは尋ねた。
「わかりません。
ベリアルはまじまじと少年兵の顔を見た。ついでその目をドゼが去っていった方角に向けた。
「それは、まあ……海軍の言葉だな」
ようやくのことでベリアルは言った。
嘘ではない。
「海軍?」
「北軍やライン軍の義勇兵の間でも使われていた」
敵があまりに強大であったときに、
少年兵はますますわからないという顔になった。
「そのうちわかるよ」
ベリアルはお茶を濁した。
いったい何から、ドゼはこの少年を逃がしたかったのか。エジプト遠征はまだ始まったばかりだというのに。
結局のところ、ドゼには力がないのだ。だから唯々諾々とボナパルトの命令に従い、自分を慕ってくれる兵士を手放すしかない。
ボナパルトから次々と無理難題を押し付けられ、ラサールや自分たち麾下の諸将から突き上げを喰らって。
……師団長というのも、大変だな。
地味で薄汚れた、両頬に傷のある将軍を、ベリアルは少しだけ、気の毒に思った。
その時、太陽に熱せられた大気を揺るがせ、背後から大声が響き渡った。
「俺の軍を返せ!」
声は乾いた大気に吸収され、けれどすぐに再び、大気が引き裂かれた。
「それは、俺の軍だ!」
「ミルー将軍だ!」
「ミルー将軍が、俺らを迎えに来てくれた!」
兵士たちがどよめいた。あの少年兵も目を輝かせている。
彼らの喜びの声は、すぐに悲鳴に代わった。突如として砂丘の陰から出てきたベドウィン(*2)の一団が、ミルーに襲い掛かったのだ。
軍のいる場所からは、距離がありすぎた。兵士らの銃弾は届かない。
ほんの一瞬のことだった。ミルーには、剣を抜く暇さえなかった。蛮族が過ぎ去った後には、彼の死骸だけが転がっていた。
ベリアルが後から聞いた話では、ミルーは、止める同僚や、せめて護衛を連れていけという連隊長の言葉を振り切り、単身砂漠に出、馬を走らせたという。
軍は引き返し、砂の上に倒れたミルーの亡骸を回収した。早くも血は、砂に吸い取られていた。ミルーは、砂漠と同化しつつあった。
ベリアルが指揮を執り、ヤシの木の下に埋葬した。さらさらとした砂は熱を放ち、スコップを持つ兵士たちの顔を、下からも焼いた。
穴を掘る作業をした兵士の中には、あの藁色の髪の少年兵もいた。
「勇敢な男だった。だが、彼は、ほんのちょっとでも、
死んだ戦友に砂を被せ、ベリアルはつぶやいた。
「砂漠に土地を貰ったってなあ」
スコップを肩に担ぎ、かつて農民だった兵士がぼやいた。そういえば出発前、ボナパルトは全ての兵士に200から300アールの土地をくれてやると豪語していた。憤懣やるかたないと言った風に、兵士は続けた。
「行先を告げないで遠征に出かけたのは卑怯だ。そのくせ、水筒代わりのフラスコさえ、ろくに用意していやがらねえ。砂漠に行くと事前に知っていたら、フラスコくらい、自分で持ってきたのに!」
それは明らかに、ボナパルトへの反感だった。
危険だとベリアルは思った。軍で司令官に逆らったらいけない。けれど、兵士たちの不満ももっともだった。彼らを束ねる将校達もまた、言い知れぬ苛立ちを抱えていた。
軍は、危険な状態にあった。ミルーは、その生贄に供されたのだ。
不幸な戦友に最後の敬意を表し、立ち去ろうとした時だ。砂漠の中を、馬が近づいてきた。
ボナパルトだった。
「さて、将軍。我々をインドにでも連れて行くつもりですか?」
ミルーの下にいた擲弾兵が話しかけた。皮肉な口調だった。彼は、ミルーが、エジプトではなくインドを攻略すべきだと言っていたのを聞きかじっていたのだ。
「そのようなことを口にする兵士と一緒に行軍するわけにはいかない」
刺すように冷たい声が返ってきた。青い目が、怒りに燃えて、兵士を睨みつけている。擲弾兵は震えあがった。
「総司令官殿。俺は……俺たちは、ドゼ将軍の下にいたいんです!」
墓掘りの疲れを忘れたように、藁色髪の少年が叫んだ。血を吐くような声だった。
ルクレールが苦虫を嚙み潰したような顔になった。が、彼は何も言わない。
じろりとボナパルトが少年を睨んだ。
「命令に逆らうことは許さない」
新しくできた墓に見向きもせず、それどころか、馬から下りることもなく、ボナパルトは戻っていった。
「行こうか」
誰にともなく、ベリアルは言った。
ボナパルトが何をしにここまで来たのかは、謎だった。死んだミルーに敬意を表しに来たわけではなさそうだ。
ただ、……。
……「そのようなことを口にする兵士と一緒に行軍するわけにはいかない」
彼の残した言葉は強烈で、そして、役に立った。
反抗的なミルーの兵士たちはめっきりおとなしくなり、新しい指揮官、ルクレールに従った。これにより、過酷な砂漠での偵察を滞りなく行うことができた。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
*1 ルクレール
Pierre Leclerc d'Ostein
よく間違えられますが、ボナパルトの義弟(妹ポーリーヌの夫)とは別人です。義弟のルクレール(遠征から帰ったダヴーは彼の姉妹と結婚します)はエジプト遠征には参加していません
*2 ベドウィン
広く砂漠の住民を指す
*3
法律、規制などの通常の使用に反し、誰かに与える好意。
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