第16話 ラルマニア(ナイル河辺)


 2日間滞在しただけで、軍はダマンフールを出発した。前衛は相変わらずドゼ師団が務めた。レイニエ師団がそれに続く。


 遠くにゆらゆらと、建物の影が見えた。涼し気なヤシの木陰も見える。けれど、行けども行けども、オアシスには辿り着かない。

 蜃気楼だ。ありもしない幻を追いかけて、行路を外れたら、即、死だ。


 どこからともなく馬やラクダに乗ったベドウィンが現れ、軍と並走を始めた。渇きや疲れで行軍から脱落した兵士の首を面白半分で切り落とし、あるいは問答無用でさらっていく。

 悲惨な戦友の末路を嘆き悲しむ体力さえ、兵士達には尽きていた。ただ黙々と、亡霊の一団のように縦軍を組んで歩くだけだ。


 そしてついに、ナイル河の岸辺に出た。

 「水だ!」

 銀色に輝く河に、兵士たちは夢中になった。歓声を上げて走り、河の流れに口をつける。

 次々と、後続の師団が到着する。どの師団の兵士らも一様に、歓声をあげる。腹いっぱい水を飲み、河に飛び込み……、

「鰐だ! 上がれ、上がれーーーっ!」

 気がつくのが遅すぎた。何人かの兵士が手足を食いちぎられ、殺された。



 「疑いもなく、ライン軍とサンブル・エ・ムーズ軍の勝者たちは、蛮族との戦いに勝利するであろう」

 全軍の前で、ボナパルトが演説した。


 ベリアルは耳を疑った。


 ……総司令官が、ライン河畔から来た連中を讃えるのを、初めて聞いた。


 何があるかわからない過酷な砂漠での前衛を押し付けたこと、師団長からの要求を無視して補給は一切行わず、ひたすら行軍を急かしたこと。

 それら無理難題に対し、ドゼ師団、レイニエ師団は立派に応えてきた。

 さしものボナパルトも、元ライン方面軍からの反発を恐れたのかもしれない。これで少しは、両師団に対する扱いがよくなるのではないかと、ベリアルは期待した。



 行軍の途上でベドウィンにさらわれた兵士達が返されてきた。見たところ、手も足も揃っていて、大きな怪我もしていない。

 ところが彼らは、すっかり覇気を失い、呆けたようになっていた。戦友たちが問いかけても、ぼんやりとしている。

 ベドウィンにさらわれて帰還してきた兵士たちは、例外なくそうだった。何をされたのかと問われても、答えようとしない。

 業を煮やしたボナパルトは、自ら彼らを呼び出し、聞き出そうとした。

 その兵士は泣き出した。彼らは、レイプされていた。中には屈辱に耐えきれず、自殺した者もいる。


「こうした心弱い行いを、私は非難する」


 ボナパルトが布告を出した。そうでなくても過酷な砂漠の行軍で、兵士たちは疲れ切っている。自殺が軍に広がることを恐れたのだ。


 実際のところ、ボナパルトには、自殺した兵士らの苦悩がわからなかった。少なくとも彼らは五体満足で生きている。手足どころか、指の欠損さえない。まだ十分に、祖国の為に戦える。どうして自ら命を絶つほど落ち込む必要があろうか。



 たどりついた河辺の町ラルマニアで、軍はナイル河を遡ってきた艦隊と合流した。ここからカイロめがけて行軍を始める。どうやら、雨季による洪水の前に到着できそうだ。


 「マムルークのムラド・ベイの軍隊が、シュブラキイトShubra khitに終結しています」

 ボナパルトの耳に、ドゼが囁いた。

 

 マムルークと言うのは、武器を持って移動する戦闘集団のことだ。(*1)


 1517年、オスマントルコがエジプトのマムルークを破った。だが1年もしないうちに、トルコ皇帝スルタンは、マムルークにエジプトの統治を一任した。爾来、300年近くを、マムルークはエジプトの事実上の支配者として君臨してきた。


 マムルークはまた、スルタンから慣習的にミリを徴収することを許されている。

 やがて彼らは、次第に暴虐に振舞うようになった。


 エジプトをマムルークの手からトルコ皇帝の手に取り戻す。自分達の遠征の口実を、ボナパルトはこのように位置づけていた。同時に、トルコ宮廷を味方につけよという、タレーランの指示でもある。


 フランス軍の遠征当時、エジプトでは、ムラド・ベイ、イブラヒム・ベイの二人が二大勢力として権力を分かち合っていた。ベイというのは、マムルークの頭領の呼称だ。ムラドとイブラヒムは首都カイロの豪華な城で暮らしていたが、アレクサンドリアの陥落を受けて即カイロを出、フランス軍打倒の為の軍を集めているという。


「シュブラキイトに集結している? 一体君はどこから、その情報を得たのだね」

驚いてボナパルトは尋ねた。

「地元の長老シャイフからです」

落ち着き払って、ドゼは答えた。


 ドゼ師団は、ボナパルトの軍より少し早くラルマニアに到着している。それにしても素早い情報収集だと、ボナパルトは舌を巻いた。まして相手は、未開の蛮族だ。言葉さえろくに通じない。ドゼの情報収集能力と、地元住人への影響力は凄まじいと言っていい。


 この力は、ボナパルトには決して獲得できないものだ。

  汚れた水さえ金を出して買おうとしたドゼ。過酷な砂漠においても麾下の兵士に略奪を許さず、軍の誇りと規律を守った。地元住民に対する彼の丁重で敬意ある態度が、自然と情報を齎したのだ。


 ドゼはまた、麾下の軍を完全に掌握していた。彼の軍でなければ、前衛は務まらなかっただろう。


 本心から、ボナパルトは、この男が恐ろしいと思った。ドゼが本気になったら、ボナパルトなど、簡単に追い落とされてしまうだろう。


 ドゼはさらに、数日前にマムルークの一群と遭遇したと付け加えた。300騎ほどの分遣隊だったが、攻撃は殆どなく、自分の軍に損失は出なかったと報告した。

 ドゼの齎した情報が、ボナパルトの背中を押した。シュブラキイトでマムルークと対決することにした。






 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

*1 マムルークについて、解説がございます

https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-291.html ~

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