第8話 ラサールはマザコン?


 ローマの大聖堂へ出かけたドゼに、リヴォルノのドンゼロットからの報告書が届けられた。


 丸めた報告書を、ドゼは大きく振って広げた。重々しい仕草で手に乗せ、目を通していく。


 「ドゼ将軍」

学者のモンジュが声を掛けた。


「先生!」

ドゼが顔を上げ、微笑んだ。

「ローマへようこそ。貴方が同じ船でご出発と聞いてから、お会いできるのを楽しみにしていました」


 去年の夏、モンジュは、ミラノまでボナパルトに会いにいたドゼと顔を合わせている。


「遠征に同行しなければ、小艦隊を向かわせるぞと脅されたんですよ」

苦い顔で、モンジュは微笑んだ。


「それはそれは。ボナパルト将軍はよほど、貴方を慕っておられるのですね。是が非でも遠征へお連れしたいようだ」


 何を言っているのだと、モンジュはむっとした。が、ドゼには含むところはなさそうだ。彼は首を傾げた。


「ところで、どうでしょう。私の様子は、芸術家が手紙を読んでいるように見えますか?」


「芸術家ですと?」


 モンジュは相手の姿を見据えた。確かにボロボロの外套は、金のない芸術家に見えないこともないが……。


「芸術に関心のある私は、ローマの遺跡や神殿を見学して歩いているのです」

そこでドゼは声を潜めた。

「全ては、イギリスのスパイを欺く為です」


 モンジュは呆れた。

「まるでごっこ遊びですね」

「いやいや、史跡めぐりはボナパルト将軍の命令です。どこに敵のスパイがいるかわかりませんからね」

 そういうドゼの声は弾んでいた。


「ドゼ将軍」

モンジュはためらった。

「貴方は怖くないのですか? ボナパルト将軍の下、未知の大陸へ行くことが」


「いいえ」

大きく、ドゼは目を見開いた。

「むしろ光栄です。ボナパルト将軍の遠征は、偽善ある敵を倒し、共和国の栄光を高める為の戦いです」


「けれど、どうしたって侵略でしょ? それに我々学者や技術者がついていく。栄光とあなたはおっしゃるが、私は、エジプトの植民地化の為に、学問芸術が利用されている気がしてならないのです」


 イタリアでモンジュは、たくさんの芸術品を査定し、パリへ送っていた。それは、国家による略奪に他ならない。

 静かにドゼは首を横に振った。


「共和国の栄光は、破壊者のそれではなく、人々に恩恵を授けるものでなければなりません」

「エジプトで、ボナパルト将軍にそれができると?」

「彼を信じています。それに、私は今、嬉しくてなりません。ローマの遺跡のなんと壮麗で偉大なことか。このような荘厳なモニュメントを見ることができただけでも、イタリアまで来た甲斐があったというものです」

「なるほど」


 モンジュは聖堂の円天井を見上げた。そこには息を呑むような彫刻が施されている。


「エジプトはローマの源流です。より古く、より価値のある遺物に出会えるかもしれませんね」

「素晴らしい」

ドゼは躍り上がった。

「楽しみで待ちきれないくらいだ。先生、ボナパルト将軍の遠征に加われて、私は本当に幸運でした」


 そこには、自分が失ってしまったものがあるような気がした。モンジュは、眩しい物を見るような目で、ドゼを眺めた。



 「これから先生はどちらへ?」

大聖堂を出ると、ドゼは尋ねた。

「法王庁へ、活版印刷機を受け取りに行きます。アラビア語の印刷機は、法王庁にしかないものですから」


 早い話が強奪しに行くわけだが。ドゼと言ったら、清廉なことで有名だ。印刷機を接収することに関して何か言いそうだとモンジュは危惧した。


 「素晴らしい!」

 しかし、案に反してドゼの瞳が輝いた。

「民衆の教化に使うわけですね! 是非とも必要なことです。無知蒙昧な民は、革命の理念の下、啓蒙されなければならない。さすがボナパルト将軍だ。このくそ忙しい時に、よくそこまで気が回る。我々も見習わなくちゃいけませんね!」


 はたしてボナパルトの狙いが民衆の啓蒙かというと、危ういものをモンジュは感じる。印刷機はどちらかというと、異民族の扇動や挑発に使われるような気がしてならない。


「法王庁といえば、先だって、私もガレー船を数隻、頂戴してきたばかりですよ」

けろりとして略奪を嫌う男が言う。

「何しろ、船の数が圧倒的に足りませんから。沖を航行する外国の商船なんかも、見つけ次第、船員ごと拿捕しています。いやあ。遠征が楽しみですね」


 ……清廉潔白。

 脱力し、モンジュは考えた。



 モンジュと別れ、司令部へ帰ったドゼの元へ、若い将校が相談に訪れた。

 憂いに瞳を曇らせた彼は、ラサールと名乗った。

 彼は、新しい司令官ドゼの元へ、心配ごとの相談に赴いたという。


「僕は、母のたった一人の息子です」

憂いに瞳を曇らせ、ラサールは訴えた。

「僕は母を大切に思っています。母から離れるなんて、考えられない!」


「ふむ」

ドゼは頷いた。彼にはこの話の行先がわからない。


 ちら、とラサールは、新司令官の色艶の悪い顔を見た。ボナパルトも初めは血色が悪かったが、イタリアへ来てからは、随分と顔色が良くなった。勇敢で美麗な彼の姿を画家が絵に移し取り、彼の人気はますます上がった。


 やはり、人の上に立つ者は美しくなければならないと、ラサールは思う。


「それなのに今回の遠征は、船で遠くへ旅立つという……しかも、行先さえ、母に告げることはできない。もし僕の留守中に、母に何かあったらと思うと、いてもたってもいられません!」


 腕を組んで、ドゼは考え込んだ。同じ部屋には、政府から派遣された議員が同席していた。


 やがてドゼは腕をほどいた。心持ち、前屈みになる。


「君の母上を思う気持ちはよくわかる。たった一人の子を送り出す母上のお気持ちを思うと、自分も胸が痛む」

共感をこめて、7つ年下の部下を見つめる。

「だが君は、自分の名誉を考えるべきだ。また、君の評判、国に対する義務、上長と仲間の信頼に応えなければならない」

「……」


 ラサールはもぞもぞとした。居心地が悪すぎる。


 そもそも彼は、新しい司令官をちょっとからかいに来ただけだ。自分は臆病者では断じてない。むしろ、勇者だ。直属の上や戦友の期待に背くつもりなど、全くない。


「遠征に来たまえ。ぜひ、そうすべきだ」

「はい」


 思わず背筋を伸ばし、敬礼してた。


 ラサールが説得されたのを確認し、派遣議員が退席していく。ドアが閉じられるのを待って、ドゼはラサールに囁いた。


「いいか。何か心配事があったら、直接俺に言うんだ。俺以外の誰かに相談したらいけない」


 それは、部下を掌握しようという、人たらしの戦術なのだろうか。

 そう思い込もうとした。


 だが、ラサールにはできなかった。今、ドゼが警戒しているのは、派遣議員だ。派遣議員は、政府に軍の内情を密告する役割を負うている。恐怖政治時代よりは大分緩和されたとはいえ、未だに彼らの力は絶大だった。

 ドゼは、ラサールの行く末を案じたのだ。







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