第7話 ローマへ


 エジプトへは大船団を擁して向かう。海軍を束ねる提督に、ボナパルトはブリュイを指名した。


 彼と同じく貴族出身のブリュイは、恐怖政治で家族や友人の多くを失ったにも関わらず、国に残った。自分と同じ境遇が、ボナパルトには好ましかった。また、イタリア遠征の折、近海を巡航し、イギリス艦を警戒していたのも、ブリュイだった。


 出航地は、トゥーロンの他、マルセイユ、ジェノヴァなど複数あった。ドゼには、ローマのチビタベッキア港から出航する船団の総指揮を、ライン軍から彼が連れて来た将軍レイニエにはマルセイユからの出航を任せることにした。

 元イタリア軍とライン方面軍、互いの間には根深い対立がある。特に、ライン方面軍の不満を和らげる為、ドゼとレイニエの二将軍に、それぞれ船団の指揮を任せたのだ。


 ただし、クレベールは自分の下においた。実力はあるが、彼は難しい将軍だ。今までにも何度も上官と衝突し、勝手に帰ってしまったことがある。早い所、彼の信用を得なければならない。


 「イギリスのスパイはどこにいるかわからない。だから、君は芸術に興味があるふりをして、ローマへ入るのだ」

 ボナパルトの密命に、ドゼはきまじめな顔をして頷いた。





 3月17日、ドゼはパリを出発した。ローマへは、副官のサヴァリ(*1)と参謀のドンゼロット(*2)を伴った。


「ねえ、ドゼ将軍、我々はどこへ向かっているのですか?」

 好奇心旺盛なサヴァリは、パリを出てからずっと、ドゼに問い続けている。


「内緒」

 目的地がチビタベッキア、ましてエジプトだとは、告げることはおろか匂わせることもできない。ボナパルトの命令だからだ。どこかでイギリスのスパイに聞かれたら困る。


「でも、ねえ、将軍。ヒントくらいいいでしょ?」

「ダメだ」

「お願いです。ドゼ将軍ったら!」


 「おい、将軍が困っていらっしゃるだろ。目的地は秘密だと言うのは、ボナパルト将軍からの命令なのだ」

 サヴァリのしつこさに見かねて、ドンゼロットが口を出した。


「ドンゼロットの言うとおりだ」

 ドゼは馬車の背もたれにもたれかかり、目を閉じた。


 しばらくの間、サヴァリはおとなしくしていた。馬車の揺れが気持ちいいのか、こくりこくりと、ドンゼロットも居眠りを始めた。


「ドゼ将軍、」

小さい声でサヴァリは囁いた。


 彼は両親の年老いてからの子だ。親に行先を告げることができないというのは困る。めっきり老け込んだ親が嘆く……。


「寝ちゃったんですか? ねえ、僕たちはどこへ向かっているんでしょう……」


 ぱちりと目が開いた。濃い色の瞳が覗く。サヴァリの孝行な心が通じたのか。ドゼは、彼に向かって身を屈め、そっと耳打ちした。


「将軍はイタリアを経由して、逃げずにローマに留まった」


 ……ローマか。

 でもそれは、何のヒントにもなっていない。だって、自分たちは船に乗るのだ。


「逃げずに?」


 サヴァリは聞き咎めた。逃げないなんて、当たり前だ。ドゼ将軍は、勇敢で命知らずな上官だ。それとも彼は、何かに不安を感じているのだろうか。


 パリでドゼは疝痛に悩み、入浴治療を受けていた。二年前、太腿を銃撃された傷がまだよくなっていないとか?


 「リヴォルノには、物資は充分にあるだろうか」

不意にドゼがドンゼロットに尋ねた。


「そうであることを願います」


 口元の涎を拭い、ドンゼロットが答える。彼は途中で馬車を下り、物資調達の為、リヴォルノへ向かうことになっていた。


「西海岸の兵站には、充分な人員や海軍専用の軍需品がなかった。ブレストからは十隻出すのが精いっぱいなのに、実際は二十五隻を要請されていた」


 暗い声でドゼがつぶやく。ボナパルトが立ち去った後、彼は遅くまで現地の専門家と話し込んでいたと、サヴァリは思い出した。

 ドゼ将軍は、人や物資の不足を不安に思っているのだろうかと、サヴァリは考えた。が、そんなことがあろうはずはない。


「大丈夫ですよ。全てはボナパルト将軍が采配されているのですから」


 実際、武器弾薬から兵士の靴まで、全ては総司令官の管理下にあった。彼の掌握能力は驚くばかりだ。


「ボナパルト将軍こそ、真の天才です」

 サヴァリは断言した。そしてそれは、大方の将校達も同じ意見だった。


「そうだな。我々の総司令官を信じるべきだ」

 そう言って腕を組み、再びドゼは目を閉じた。





 新しい指揮官を見た将校達、特に、イタリア戦の当初からボナパルトの下にいた兵士達の間に、失望が広がっていった。


 ボナパルト将軍の下、栄光のイタリア戦を戦ってきた彼らは、自分たちがボナパルト直属ではないと知り、がっかりしていた。


 「……」

 現れた師団長の姿を見て、諸将は黙り込んでしまった。


 新師団長の姿は、雄々しくも立派でもなかった。身ぎれいでさえない。髪はぼさぼさで手入れが放棄されており、挨拶の言葉は単純、態度は控えめだった。


 「なんだよ、あれ。ライン軍には、ろくな将軍がいないんだな。だから勝てないんだ」


 ドゼが立ち去ると、デヴェルノワ大尉がつぶやいた。彼のそれは、決して華々しい戦いぶりではなかったが、東寄りのロマーニャ進軍では功績を上げた。


「俺はボナパルト将軍の方が良かったな」


 戦隊長のラサールが不平をこぼす。逃げ去る敵から多くの旗を奪い取った彼は、ボナパルトから、その旗の上で寝るのがふさわしい、とまで激賞された。(*3)


「ああいう人なんじゃないのか。いずれ戦闘になった時に真価を発揮するんだろうよ」

 ベリアルが宥める。彼は沼地に落ちたボナパルトを引き上げたこともあった。(*4)


「それはいつだよ」

デヴェルノワが問う。

「俺たち、どこへ行くのかさえ、聞かされてないんだぜ?」


 集まった諸将はため息をついた。



 「ラトゥールヌリエがいない」

その頃司令官室では、ドゼが歩き回っていた。

 ラトゥールヌリエは、ドゼがライン軍から連れて来た砲兵隊長だ。(*5)


「彼はジェノヴァ出航になったようです」

名簿を確かめ、サヴァリが答える。


「ジェノヴァ?」

「ええ」


 ドゼは深いため息をついた。人員配置は司令本部、即ちボナパルトの采配だ。ドゼに苦情を言う権限はない。


「砲兵将校だけじゃない。ここには、工兵将校もいない。騎兵ばかりじゃないか」

「馬はろくにいませんがね」


 顔を合わせた元イタリア軍の将校らのうろんな眼差しを思い出し、サヴァリは不穏に感じた。とはいえ、自分の上官が、初対面の人に芳しからぬ印象を与えることには慣れっこだ。


「もうすぐモラン中佐がやってきますよ」

慰めるようにサヴァリは言った。


 モランはかつてライン軍に所属しており、怪我による離脱の後、イタリア戦に援軍に出されていた。(*6)


「モランか!」


 ドゼの顔が明るくなった。飄々としている上官も、知らない将校の中でさすがに心細かったのかと、サヴァリは気の毒に思った。


「直接会ったことはないけど、彼はライン軍の仲間だ!」

「向こうはドゼ将軍のことを知ってますよ」

「名前くらいはな」


 うふふ、とドゼは笑い、サヴァリはほっとした。







________________


*1 副官サヴァリ

https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-322.html


ドゼの副官は、他にラップ、クレモンがいます。

ラップ

https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-319.html

クレモン

https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-315.html



*2 参謀長ドンゼロット

https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-300.html



*3 戦隊長ラサール

https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-187.html



*4 ベリアル

https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-301.html



*5 砲兵隊長ラトゥールヌリエ

https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-351.html



*6 モラン

https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-303.html

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る