第63話 エル=アリシュ条約
一部、「オリエント撤退」と内容が被っています(全く同じではありません)
https://kakuyomu.jp/works/16816927860779343494
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……おかしい。
シドニー・スミスは苛立っていた。
フランスの新司令官、クレベールとは、休戦・撤退で話がついているはずだ。すでに、トルコの大宰相にも根回ししている。あとは細部を詰め、書類にサインさせるだけだというのに……。
フランス側の大使が、妙に細かい条件を言い立てるのだ。ただし、将軍の方だ。財務担当の市民は、撤退に賛成している。
イオニア半島の返還とか。マルタ島のイギリス軍封鎖を解除せよとか。フランスとトルコの関係を、戦争前に戻せとか(できるわけがない!)。(*1)
時間を稼ごうとしているのだと、シドニー・スミスは勘づいた。会議を長引かせて、うやむやにしようとしている?
「私は代将です。そのような権限はありません」
頬に傷のある将軍の要求を、スミスは一蹴した。苛立ちを抑えきれなかった。
「クレベール新司令官の真意が聞きたい。ボナパルトと違って、彼は、もっと合理的な思考をする方だと思っていましたがね!」
思い余って、スミスは机を叩いた。覚えず、体が震えてしまう。
彼はこの戦争を終結させたかった。フランスとイギリスの間の、平和の架け橋になりたかったのだ。
それが、シドニー・スミスの野心だった。
講和は、フランスの為でもあるのだ。
トルコ側は、本心では、遠征軍を捕虜にしたいと思っている。今までボナパルトがさんざんやってきた悪逆への仕返しをしたいのだ。
捕虜に対し、トルコがどれだけ残酷になれるか、この将軍はわかっているのだろうか……。
とはいえ、将軍と違い、プシエルグという文官は、話のわかる男だった。彼が出した条件はただひとつ。フランス軍の名誉ある撤退だ。
即ち、武器を持って帰ること、どこへでも好きな港で下船できること、そして、こちらから撤退してやるのだから、費用はトルコ持ちでお願いしたいということ……。
その条件は飲めそうだった。もちろん、トルコの大宰相にも、予め根回ししてある。だから、ティグル号に乗船したトルコ側の大使にも依存はないはずだ。
交渉は主として
「帰国したボナパルトは、クーデターを起こしたようですよ?」
概ね、会議がまとまると、シドニー・スミスは得たばかりの情報を提供した。
案の定、フランス側の大使2人は顔を見合わせた。
「クーデターとは?」
将軍が聞く。
「さあ。クーデターでしょ?」
にべもなく、スミスは答える。情報は錯綜し、詳細はまだ、イギリス側にも伝わっていない。
「コルシカ人が、本性を表したということでしょう」
スミスが言うと、トルコ大使らがくすくす笑った。彼らは、信じがたいほど甘いコーヒーを飲んでいる。
余計なことは口にするまいとでもいう風に、フランスの将軍は黙り込んでしまった。
「ドゼ将軍」
トルコ大使に続いて船室を出て行こうとしているフランスの将軍を、シドニー・スミスは呼び止めた。既に彼の
「嘘ではありませんよ」
「何のことですか?」
フランスの将軍は惚けたが、スミスはその手に乗らなかった。
「ボナパルトのクーデターですよ」
「ほう」
取り付く島もない。
最初に苛ついてしまったのがまずかったか、とスミスは後悔した。この将軍は様々な要求を出し、なかなか講和の話し合いに入れなかったので、つい、大声を出してしまった。
しかし、この将軍は阿呆ではない。講和に前向きなプシエルグの論拠をきちんとフォローしていた。
彼は、講和の必要性を理解している。
ドゼと、もう少し親交を深めたい気持ちが、スミスの中に芽生えていた。
「お疑いなら、ヨーロッパの新聞をお渡ししましょう。
返事はなかった。ドゼはつんと顎を上向けただけで、
無造作に縛った長い髪が垂れる背中に、スミスは大声で問いかけた。
「フランス語の新聞がよいですか? ボナパルト将軍のように」
ぴたりと、ドゼの足が止まった。
「アブキール陸戦の講和の際、ボナパルト将軍にもヨーロッパの新聞を数紙、渡したのです。それを読んで、彼は大急ぎで祖国へ帰っていったとか」
「フランス語でもドイツ語でも構わん」(*2)
怒った肩の向こうから声がした。
「だが、英語だけはお断りだ。あの下品な言語だけは学ぶ機会がなかったのでね」
ドゼの船室へ使いに出した
「ドゼ将軍から、新聞をクレベール将軍に送っていいかと聞かれました!」
直立し、ミッドシップマンは報告した。まだ13歳の少年だ。
「構わないと伝えなさい」
朗らかにスミスは答えた。
◇
シドニー・スミスの船、ティグル号はヤッファに寄港し、一同は下船した。トルコの
到着した大宰相の駐屯地は、棘のついた鎖で囲われていた。大砲を乗せた馬車やラバやラクダがあちこちを走り回っている。
辺りは騒然としていた。
あちこちに、槍が立ててあった。先端に何か突き刺してある。
干からびたフランス兵の首だった。
低く呻くような歌声が、地を這ってきた。駐屯地の女たちが、フランス人を呪う歌を歌っているのだ。
「百通りの呪いをかけられた気分だ」
ドゼがぼやいた。シドニー・スミスは近寄り、囁いた。
「ここでは、西欧の常識は通用しません。このような混沌の中で、青い軍服(青はフランス将校の軍服の色)を着た者の命は保証できません。いかなる衝突や混乱も、我々全員を危険にさらすことになる。肝に銘じておいて下さい」
大宰相のテントには、クレベールの手紙が待ち受けていた。
洋上での会談が行われていた頃、エル=アリシュ要塞に、トルコ軍が攻め入った、というのだ。エル=アリシュ要塞は、ボナパルトのシリア最後の戦いで、最初に占領した要塞だ。それを、今回のトルコ軍の侵入で、再び失ってしまった。(*3)
しかも、トルコ軍を要塞内部へ手引きしたのは、フランスの守備兵だったという。いつ果てることもない砂漠の戦いに、彼らは疲れ切っていた。引き入れられたトルコ兵は、手始めに自分を要塞の上へ引き上げた兵士を惨殺した。
いずれにしても、講和の為の話し合いが、洋上で持たれていた時の侵攻だ。トルコ側がエル=アリシュ要塞に攻め込んだのは、フランス、トルコ両国の大使が、シドニー・スミスのティグル号に乗り組んでからほんの数日後のことだった。
大宰相の元に届いたヨーロッパの新聞から、スミスも、事の重大さを知った。
トルコ軍によるエル=アリシュ要塞占領。これは重大なトルコの背信行為だ。
「フランス軍が撤退するという知らせは、当時はまだ、儂のところまで届いていなかったのでな」
この戦闘は、トルコとの交渉に対する、フランス側の切り札になったはずだった。たとえば、ドゼの出したイオニア半島やマルタ島について、何らかの有利な条件が引き出せたかもしれない。
しかし、クレベールはそれを望まなかった。
……「エル=アリシュ侵攻は、オスマン帝国の法律に反する出来事です。このような進軍には、
クレベールの手紙には、そう書かれていた。彼が希望したのはただ一つ、フランス軍の早期帰国だった。トルコとの間で、話がこじれるのは願い下げだったのだ。
一方、トルコ側の大使たちは、上司である大宰相の言葉に敏感に反応した。イギリスだけではなく、長年の宿敵ロシアまでもが、トルコと同盟を結んだ影響も大きかった。
「ロシアとイギリスはトルコの味方だ。フランス軍は孤立し、敗北した。エジプトのフランス軍は、すべての武器を放棄すべきである」
この侮辱的な言葉に、ドゼの顔が赤らんだ。
「武器を放棄する? あり得ない。フランス軍は、断じてトルコに敗北したわけではない」
「何を言うか。フランス兵は、わがトルコ軍の捕虜である」
「そういう話ではなかったはずだ。スミス代将!」
ドゼはシドニー・スミスを睨みつけた。
「これは、名誉ある撤退ではなかったのか。貴方は、我々を騙したのだな?」
さっとドゼは立ち上がった。呆気に取られているもう一人の大使、プシエルグを残したまま、テントから出て行く。
「待ってくれ、ドゼ将軍! 一人で外へ出たら危険だ!」
慌ててスミスは後を追った。一見おとなしいが、そして、普通にしていれば物静かに息を潜めているが、ドゼという男の裡には熱い血が流れていることを、スミスは理解していた。
恐らく、自分と同じ血だ。
スミスの渇望は、平和の架け橋となることだ。ドゼのそれは、何だろう。ただひとつ言えることは、それは、ボナパルトへの忠誠などではない。ヨーロッパの新聞を読んだ彼は、以後、ぱたりとボナパルトの話をしなくなった。
「侮辱されるくらいなら死を選ぶ!」
振り返ってドゼが叫ぶ。シドニー・スミスも負けてはいない。
「頭を冷やして下さい! 言ったでしょ。君だけの問題じゃない! このような未開の民族の中での単独行動は、君の部下を含め、我々全員が危険に晒される」
「フランス人なら、自分の身くらい自分で守れるさ!」
吐き捨てたドゼの背に向かい、ほぼやけくそで、スミスは叫んだ。
「エル=アリシュ要塞の件は、私だって衝撃です。トルコ側とは、ティグル号の中で、あんなに協調的に話し合ってきたというのに! これは裏切りだ。このままでは、トルコ側に温かい気持ちで接することなどできません。貴方の気持はよくわかる」
ぴたりとドゼの足が止まった。
「スミス代将、貴方はフランスの味方をするのか? 同盟国のトルコではなく?」
「当たり前です」
スミスは言った。
「私は、勇敢なフランス軍の名誉ある撤退を望んでいます」
深いため息をドゼがついた。
「よかろう。テントへ戻ろう」
◇
ドゼが感情的に声を荒げるなど、滅多にないことだ。副官のサヴァリは驚いて、テントの隅に縮こまっていた。
そのサヴァリを、ドゼは、クレベールとの間の連絡役に使った。
サルヘイから戻ったサヴァリは、クレベールから、ともかく一刻も早く交渉を妥結するようとの指令を受け取ってきた。
北海での祖国の戦状は悪化していた。ベルゲン(ノルウェー)やチューリヒで敗北し、さらにマルクマール(オランダ)をイギリスとロシアに併合された。これ以上祖国の海の安全が英露に脅かされたら、自分たちが帰国するには、本当に
受け取った指令を見て、ドゼは眉間に皺を寄せた。
「本当に条約を締結していいのか? もう一度、確認してほしい。クレベール将軍から返事が来るまで、俺はいかなるサインもしない」
そう言って、彼は腕を組んで目を閉じてしまった。
再びサヴァリは大宰相のテントとサルヘイを往復した。
クレベールは、エジプト撤退の責任が、自分一人に降りかかってこないように軍議を開いた。サヴァリは、クレベールを支持するという、3人の師団長と6人の旅団長の署名入りの審議書を持ち帰った。
「私が出発しようとしたら、ダヴー准将が私を物陰に呼んだんです」
ドゼの耳に、ひそひそとサヴァリは囁いた。
「ダヴー准将は撤退に反対です。彼は、トルコと断固戦うという意志を持つ者は自分だけではないと言っています。ドゼ将軍は大勢の味方を見出すだろう、って伝えろ、と言われました」
「ここにダヴーの名前がある」
審議書の一番下の署名欄を指し、ドゼは吐き捨てた。
「あの馬鹿が! あれほどボナパルト将軍には逆らうなと言っておいたのに! こんなとこに名前を書いちゃ、ダメなんだよ!」(*4)
ドゼは、審議書を火中に投じた。
撤退は、ボナパルトの意志に反した行いだ。クレベールが撤退に乗り気なのは仕方がない。だが、彼を支持したことがわかったら、署名した諸将たちにも累が及ぶ。
開かれた軍議では、全員がクレベールを支持していた。ドゼにできることはもはやない。
こうしてドゼは、エル=アリシュの講和条約にフランス全権大使として署名した。
すぐに
両国大使の証明した条約に、大宰相がサインし、これをクレベールが批准した。エル=アリシュ条約は成立した。
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*1 フランス側の大使の要求
イオニア半島は、今現在、ロシア領になっています。
エジプトへ来る途中にドゼ師団らが攻略したマルタ島は(12話「マルタ島攻略)、その後イギリス海軍が包囲しました。今現在、食料や物資の不足に苦しみながら、ヴォーヴォア将軍の守備軍が立て籠っています(降伏はこの約9ヶ月後です)。
*2 フランス語でもドイツ語でも
元貴族のドゼは、士官学校の地方校で、ラテン語の代わりにドイツ語をみっちり仕込まれました。このドイツ語は、オーストリアとの講和の際、役立ちました。
*3 エル=アリシュ要塞
53話「エル=アリシュ要塞、ヤッファ要塞、攻略」、参照ください。
洋上で講話会談が行われていた頃、即ち、1799年12月29日の出来事です
*4 審議書にダヴーの署名を見た時のドゼの言葉
本当は、
「もう遅い。なんてこった。賽は投げられた。悲しみはもう十分すぎるほどだが、それは俺のせいじゃない」
と言っています。ただ、私が思うに、このセリフは、文を飾り過ぎています。一般にドゼの言葉は非常にわかりやすく端的なものが多く、このような修飾的な言葉を口にしたとは、どうしても思えません。
ここの箇所は、サヴァリの証言が元になっています。サヴァリは、ドゼが死ぬまでは彼に忠実であったことは間違いないのですが、それ以降については、いろいろ問題のあるお人です。
彼に関するブログをまとめました。
https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-322.html
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