第64話 苛立つ全能者への対応


 18日間を大宰相のテントで過ごした後、ドゼはサルヘイでクレベールと落ち合った。すっかりシドニー・スミスと意気投合したプシエルグは、もうしばらく、彼と共に過ごすという。


 「俺が送った新聞は読みましたか?」


 クレベールの顔を見るなり、開口一番、ドゼは尋ねた。

 ティグル号からドゼは、ヨーロッパの新聞をクレベールに送っていた。シドニー・スミスから貰った物だ。


「ああ、読んだとも。ボナパルトがクーデターを起こしたそうだな」

落ち着き払ってクレベールが応じる。

「総裁政府を倒し、ボナパルトが執政の一人になった。これから、どうなると思いますか?」

「総裁政府が倒されたのはまずいな。俺の庇護者は、総裁政府にいたんだ。その議員と手を組んでボナパルトを告発し、軍から追い払うつもりだった。シリアでの蛮行、無思慮に事を運んで兵士を大勢死なせたこと、軍に内緒で帰国したこと、軍の金を使い込んだこと……。聞いた話では、ベルナドット(*1)が戦争大臣に就いたというではないか。彼なら絶対、俺の味方になってくれるはずだった。だが、どうやら全ては潰えてしまったようだな」


 その声は、しかしどこか気楽そうだった。


「だから、俺は、エジプト撤退に反対だったんです!」

 吐き捨てるようにドゼが言い放った。クレベールがにやりと笑う。

「条約にサインしたのは君だ」

「なんですって!?」

 ドゼの声が裏返った。わかりやすい戦友の動揺を、クレベールは人の悪そうな笑みを浮かべて見ている。

「ところで、ドゼ。君はなんと、だというではないか」


 ドゼが息を飲んだ。


「初めから、」

やっとのことで彼は言った。

「初めからそのつもりで俺を大使に起用したのか?」


 口元に笑みを浮かべたままクレベールは答えない。激高した感情を、ドゼは息を吸い込むことによって抑えつけた。


スミス代将コモドール・スミスに、通行証を発行してもらった。俺は先に帰らせてもらう。ボナパルト将軍は、11月にはパリへ来るように命じたからな。もう、2ヶ月も遅れている」

「11月にパリへ帰っていたら、君は、それはそれは楽しい時間を過ごせただろうよ」

「引き留めたのは貴方だ、クレベール将軍」

「それなら聞くが、なぜすぐにカイロへ出て来なかった? 君は俺が呼ぶまで、上エジプトに引き籠っていたじゃないか」


 ドゼがボナパルトから手紙を受け取ったのは、9月上旬、テーベの遺跡にいた時だ。アレキサンドリアからフランスまでは概ね2ヶ月弱かかる。11月にパリでボナパルトに会おうと思ったら、すぐさまカイロへ向かわなければならなかった筈だ。それなのにドゼは、10月に入ってクレベールが召喚するまで、上エジプトから出て来なかった。


「ラトゥールヌリエが死んだ」(*2)

ぼそりとドゼがつぶやく。クレベールは目を丸くした。

「ラトゥール……君がライン・モーゼル軍から連れて来た砲兵隊長か? 死んだのか?」

「ああ、赤痢で。9月24日のことだった。だから、俺は……」

何かが喉に引っ掛かったようにドゼの声が途切れた。



 ……。

 アシュートの司令部では、ドゼ師団の砲兵隊長が、死の床についていた。


 「エティエンヌ。わかるか? 俺だ。ドゼだ。カルナック(ルクソール)から戻って来た」


 カルナックでは、2日前に学者たちを交え、共和国8年の祭典が行われていた。上エジプトの統治者として、ドゼもその祭典に出席する義務があった。2日でアシュートに戻って来るのは、大変な強行軍だった。


「……許してくれ。病で死ぬとは」

ベッドからラトゥールヌリエの細い声が上がって来た。苦い自嘲の響きがあった。

「死なない! 君は死んだりしない!」

思わずドゼが大きな声にを出す。ふっ、と、ラトゥールヌリエは笑った。

「……やっと、……」

苦しげに声が途切れる。

「やっと、何だ?」

「あんたはいつも、一番弱い者のところにいる。騎兵より砲兵、砲兵より歩兵……ようやく俺の……」


 再び声が掠れて消えた。

 堪らす、ドゼが身を乗り出す。


「もう一人にしない。ずっとそばにいる」

 わずかに、ラトゥールヌリエが微笑んだ。

「あんたは迎えに来てくれた。マルタで。……嬉しかった」

「当たり前じゃないか! 君は俺の砲兵隊長だ。どこへだって迎えにいくし、誰からだって取り返す!」


 ラトゥールヌリエの干からびた唇から細い息が洩れた。激しい苦痛に身を捩り、あるいは芋虫のように寝床で体を丸める時期は終わっていた。顔色は土気色で、彼の命が長くはないことは、誰の目にも明らかだった。


「もっと……追い払う……あんたの敵を。神に……」

「しっかりしろ! エティエンヌ!」


 ラトゥールヌリエは答えなかった。細かった息が、俄かに荒くなる。


「ドゼ将軍」

背後から誰かが声を掛けた。コプト教徒のマレム・ヤコブだった。

「私が祈りましょう」

「祈る?」

「ええ。貴方がたの革命が宗教を否定したのは知っています。けれど、御覧なさい」


 ヤコブはラトゥールヌリエの手を指さした。彼の両手は、胸の上で、あたかも神に祈りを捧げるがごとく、固く組み合わされていた。

 もはや彼の目は、ドゼもヤコブも見てはいなかった。驚くほど澄んだ瞳が空中の一点に据えられている。ラトゥールヌリエは幻影を見ていた。かさついた唇が動き、祈りの形に開かれた。


「それが彼の心の安寧に繋がるのなら、私の祈りも何らかの意味をもつことでしょう。最後の祈りを許可して下さいますね?」

「お願いします、マレム・ヤコブ(マレムは、コプト教徒の尊称)」


 ドゼが肯うと、静かな声でヤコブは祈り始めた。

 間もなく、ラトゥールヌリエは息を引き取った。


「大丈夫だ、ラトゥールヌリエ隊長。ライン軍の兵士は、赤痢なんかで死にはしない。この俺を見ろ。下痢の病の菌なんかすっかり消化して……」


 部屋に入ってきたダヴーが、一瞬直立した。それから、大声を上げて泣き出した。

 ……。



 「それで君は、彼を看取るまで、上エジプトに籠っていたのか?」

「……」


ドゼは答えなかった。クレベールは深い吐息を吐いた。


「帰国を許そう」

「感謝する、クレベール将軍。上エジプトにおいていく部下や兵士たちをよろしく頼みます」

「彼らはすぐにカイロへ召喚する。なにしろ、我々はトルコと和平を結んだのだからな、君の尽力で。ところで、」


急にいたずらっぽい目になった。


「わかってるだろうな。我々の撤退に先駆け、君にはパリで達成しなければならないタスクが残っている」

「パリ……」


 思わず身震いしたドゼに、クレベールは流し目を送った。


「君のパリでの使命は、今や全能者たるボナパルトの、彼の弱さからくる苛立ちにどう対処するか、という問題だ。よろしく頼むよ、ドゼ。さもないと……」

にわかに暗い声になった。

「俺は斬首、エジプトに残っている仲間達は、永遠に祖国へ帰れない」


 深いため息をドゼが漏らした。諦めのため息だ。


「俺は目立ちたくない。船は自分で調達します。ただ、金がない。今までの未払いの給料があるはずだ。それを支払ってほしい」


「おっと、上エジプトの覇者に、給与未払いがあったとは!」

 再びおどけた目で、クレベールはドゼを見やった。すべてを委ね、信頼している目だ。

「もちろん払うよ。全額耳を揃えてね。期待してくれていい」



 まもなく(3月初旬)、ラトール・モーブール大佐の船がエジプトへ上陸、ブリュメールのクーデターの詳細を知らせた。

 総裁政府を崩壊させ、ボナパルトが権力を掌握したという。3人いる執政のトップに就任したということだ。フランスは秩序を取り戻し、軍は完全に彼の下にあると、モーブール大佐は請け合った。






 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

*1 ベルナドット

物語の冒頭で、ライン河方面のサンブル=エ=ムーズから、イタリアのボナパルト軍へ援軍に来たあの人です。(1話「衝突」)

ブログにご紹介がございます。

https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-96.html ~


同じくイタリアへ派遣されたデルマ将軍との悲しく感動的なエピソードも。

https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-267.html



*2 ラトゥールヌリエ

エティエンヌ・ジョゼフ・ラトゥールヌリエ Étienne-Joseph Latournerie 7 August 1761.8.7 - 1799.9.24

X話f「出港準備」で、彼が違う港へ送られたことをドゼが嘆いています。また、12話「マルタ島攻略」、22話「セディマンの戦い」で活躍しています。




タイトルは、1800.1.27(翌28日、ドゼはエル=アリシュ条約に署名します)、クレベールがドゼに送った手紙からの抜粋です。


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