第65話 パドヴァの聖アンソニーの恩寵の家
エル=アリシュ条約の締結を受けて、上エジプトのドゼ師団はカイロへ召喚された。帰国の準備が始まるのだ。一方、師団長のドゼはアレクサンドリアにいた。
「お仕事中ですか?」
机に向かって熱心に手紙を書いていたドゼは、突然の来客に文字通り飛び上がった。
「なんと、上エジプトの管財人将軍ではありませんか!」
コプト人のマレム・ヤコブ(*2)だった。彼は机の上の描きかけの手紙に目を向けた。
「お国に会いたい方でもいらっしゃるのかな?」
「いえ、大した手紙ではありません」
わずかにドゼの顔色がどす黒くなった。つまり、赤くなった。親しいものでないとわからない程度だった。
すぐにドゼは平静を取り戻した。
「上エジプトのみんなはどうしてます? おとなしく撤退準備に入りましたか?」
「なかなかね。
「それは困ったな」
顎に手を当て伏し目になったドゼに、訳知り顔にヤコブは微笑んだ。
「いくら自給自足を心がけているからとて、地中海をイギリスに封鎖され、フランスからの補給が一切ない状態で、長くもつわけがありません。大丈夫です。彼らの説得は私がしました。私と、ベリアル将軍と」
「ベリアルが?」
「いずれ私は、彼の下で働くことになると思います」
「まさか、」
「ええ、私も
55歳のコプト人は断固として言い張った。
「私たちのフランス人への愛は避けられないものです。なぜなら、貴方がたは、私たちをあらゆる危害や悪から解放してくれたからです」
「止めるなんて。光栄です、ヤコブ将軍」
「私の運命はフランス軍とともにあります」
「フランスで再会しましょう。必ず」
「約束ですよ、ドゼ将軍」
「ええ、約束です」
人種の違う二人、親子ほども年の離れた二人は、固く手を握り合った。
「ところでドゼ将軍。貴方に会わせたい人がいるのですが」
ややあって、ヤコブが申し出た。
「会わせたい人? アレクサンドリアには知り合いはいないはずですが」
合図をし、ヤコブは廊下で待たせていた人物を招じ入れた。
「これは……」
ドゼの顎が、2段くらい下がった。
「ムラド・ベイ……」
ドゼ師団の分遣隊に襲われ、ありとあらゆる持ち物を奪われたマムルークのベイは、もはや脅威ではなくなっていた。おまけに、ドゼ師団が目を光らせているので、砂漠の集落へ略奪に入ることもできない。
だが、ムラド・ベイは泰然としていた。眼光鋭く、ドゼを見返している。
「
マレム・ヤコブが言った。傍らに控えた通訳がムラドに訳して聞かせている。ムラドは大きく頷き、何か言った。ひどくぞんざいな口調だ。
通訳がためらった。
「彼は何と言っているのだ?」
ドゼが問うと、観念したように翻訳した。
「貴方が死んだら、葬式に出てやると言ってます」
「それは……」
ドゼとヤコブは顔を見合わせた。
ムラドは、ドゼより18歳年上だ。砂漠の民なので、太陽に焼かれ、殆ど祖父の年代に見える。
「賞賛の言葉ですよ、多分。マムルークは、滅多に砂漠を出ません。それを、はるばる葬儀に出ると言っているのですから」
通訳が苦しい言い訳をしている。
ドゼが爆笑した。
「ちょうどいい。ムラド・ベイ。貴方に上エジプトの統治をお譲りしますよ。エジプトは、住民によって統治されるべきだ」
「ドゼ将軍!」
ヤコブは驚いた。マムルークにエジプトを? それでは何のために、今まで自分たちは戦ってきたのか。
エジプトは、以前のようにマムルークにいいように搾取されてしまうのか。マムルークとトルコの二重支配に、再び苦しめられるようになってしまうというのか。
「大丈夫ですよ、ヤコブ将軍。彼なら、過不足なく
「トルコからエジプトを守る?」
「マムルークもまた、エジプトの民だから」
ドゼの言葉は、不思議とヤコブの腑に落ちた。確かに力を殺がれたベイは、もはや脅威ではない。そして、フランスから上エジプトの統治権を貰う以上、ムラドはもはや、トルコ大帝の僕ではない。
通訳を聞き、ムラド・ベイが目を丸くしている。
「ただし、おわかりですね?
相変わらずぞんざいに、ムラドは頷いた。(*3)
◇
3月3日。
ラグーザ(シチリアの都市)の商船、「パドヴァの聖アンソニーの恩寵の家」号に乗り、ドゼはエジプトを離れた。
ドゼが連れて来たのは、副官のサヴァリやラップら5人の将校、身の回りの世話をする召使、そして二人の少年、黒人のバキルとマムルークのイスマイルだった。ハーレムの少年たちは、彼の「家族」でもあったらしい。さすがに少女を連れて来なかったのは、彼にしては上出来といえた。
これで祖国へ帰れる。サヴァリはじめ、ドゼの副官たちの心は踊った。
だがそれは、みな、同じことだ。祖国には懐かしい家族が待っている。
「……う……~ん。ド……しょ……」
外海に出て、いくらもしないうちだった。青い水上を、聞き覚えのある音が流れて来た。音は次第に言葉を形づくっていく。
「ドゼ、しょう、ぐ~ん!」
「げっ。ダヴー」
低い呻きが、ドゼの口から洩れた。
「ドゼ将、ぐ~ん! ひどいじゃないですかぁ! 俺に内緒でこっそり帰ろうとするなんてぇ!」
甲板から身を乗り出さんばかりにして、准将の軍服を着用した男が叫んでいる。
「ダヴー、お前……。どうして……」
帰国はまだ、病人など、限られた者にしか許されていないはずだ。
「俺、具合が悪いんですぅ~。例の赤痢が再発して。だから、特別に通行証を発行して貰ったんですぅ~!」(*5)
それにしては、腹に力の入った大きな声だった。
はぁぁぁぁ。
深いため息がドゼの口から洩れた。一方でダヴーのテンションは上がる一方だ。
「そんなチンケな船に乗ってないで、こっちの船に移っていらっしゃいよ。
「俺の方が星になりそうだよ。このまま天に召されて」
「なんですってぇ?」
「いや。目立ちたくないんだ」
「なら、俺がそっちへ……」
「いい! その船に乗ったままでいろ。そして俺の乗った船を護衛するんだ。頼んだぞ、ダヴー」
「はい!」
踵を合わせ、ダヴーは船の甲板で敬礼を返した。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
*1 シドニー・スミスの通行証
通行証に加え、シドニー・スミスは自分の部下をドゼにつけてくれました。何かあった時に、ドゼらフランス人の一行の通行権を保証する為です。
*2 マレム・ヤコブ
21話「ユセフ運河」、38話「ドゼのハーレム」に
なお彼は生前、自分が死んだらドゼと同じ墓に葬ってくれと言っていたそうです。
ブログがございます。(2023/8/18 公開予定)
https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-308.html
*3
この後、クレベールがムラド・ベイを上エジプト総督に任命します(ヘリオポリスの戦いの後 https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-219.html)。
しかし、今までクレベールはムラドと接点がなく、実際に総督に推したのはドゼだと私は信じています。またムラドは、エジプトで行われたドゼの葬儀にも出てきました
最新のムラド・ベイに関する記事です
https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-292.html
*4 ブリック
別の資料では、より小型のアビソ(通報艦)とありました
*5 例の赤痢
ダヴーはエジプト上陸後、すぐに赤痢を発症しています。19話「カイロ入城」ご参照下さい
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