第66話 拿捕
目立ちたくないというドゼの希望は、あえなく裏切られた。
途中、水を補給するために船は、シャッカ港(シチリア。Sciacca港)に寄港した。この後、シチリアの商船「パドヴァの聖アンソニーの恩寵の家」は、積み荷を売りさばく為にフランスへ向かう。
フランス。ドゼら一行の、懐かしいふるさとへ。
「俺の出身は、もう少し内陸寄りのラグーザです。シチリアは良い所ですよ。食い物はうまいし、女はきれいだ。給水の間、皆さんもシチリアを楽しんで下さいよ」
船長がお国自慢をする。
みるみる港に人が集まって来た。
「おや。歓迎の人ですかね」
久しぶりに陸に上がれるので、副官のサヴァリは浮き浮きしている。
「俺たちはどこへ行っても歓迎されるよな。スパルタでも、トルコ宮廷から凄いもてなしを受けたし」
同じく副官のラップが太平楽を述べる。
「オリエンタルなおもてなしって、最高だったぜ! さてと、ここではどんなもてなしをしてもらえるのかな?」
「それにしてはみな、表情が険しいな」
ドゼが首を傾げた時だった。
「あ、痛っ!」
ラップが肩を抑えて悲鳴を上げた。
「石! ひでぇ! あいつら、石、投げてきやがった!」
港に集まった人々が口々に何事か叫びながら、船めがけて石を投げつけ始めた。怒りの声に紛れ、銃声も響き渡った。
「ひぇっ! ここは俺の祖国なのに。おおい、みんな! 俺だよ! いつもここの港を使ってるじゃないか!」
「パドヴァの聖アンソニーの恩寵の家」号の船長が悲鳴を上げる。
「危ない!」
身を乗り出した彼の腕を、ドゼが掴んで引っ張った。今まで彼がいたところを、石のつぶてが音を立てて飛んでいく。
「『エトワール』のせいだな」
ドゼは渋い顔をした。彼らの乗っている商船のすぐ後ろには、フランスの軍艦が悠然と浮かんでいる。どう見ても『エトワール』号は、『パドヴァの聖アンソニーの恩寵の家』号の護衛だ。
ボナパルトがエジプトへ遠征に出掛けた翌年、フランス革命軍は、ナポリに共和国を樹立した。国王はシチリアに逃れるも、民間の
給水を諦め、一行は再び外海へ出た。
そしてとうとう、船上の人達は見た。イエール島の島影を。
2年ぶりの故郷だった。「エトワール」号では、兵士も将校も甲板に鈴なりになり、食い入るように故郷の一部である島を眺めた。エジプトの灼熱の大地から出て来た身には懐かしい故郷を見ることは大変な贅沢であり、故郷の島からは甘い香りが漂ってくるようにさえ感じられた。
やがて、霧が漂い始めた。懐かしい故郷の島影は、あっという間にミルク色の靄に覆い隠されていく。けれど案ずることはない。目指すトゥーロンはすぐそこだ。
深いため息をドゼがついた。
「……」
微かな、ため息にも似た声をそばにいた副官は耳にした。真珠、と言ったような、花の名前のような、そんな優しい響きだった。
その時だった。
霧をつんざき、警笛が鳴り渡った。
フリゲート艦が近づいてくる。ブリックや商船では太刀打ちできない大きさだ。
プロヴァンス海岸付近を巡回中のイギリスの戦艦だった。
◇
「はあ? シドニー・スミスの通行証だぁ?」
イギリスのフリゲート艦ドロセDorothée号の指揮官(*2)は鼻を鳴らした。
「残念ながら、それは無効だ」
「無効? よく見てくれ」
ドゼ食い下がる。エル=アリシュ条約は彼自らが結んだ講和だ。トルコとイギリスの合意の元、正規の手続きを踏んでいることは、間違いはない。
それなのにイギリスの指揮官は譲らない。
「通行証は、地中海における国王陛下の艦隊総司令官であるキース提督だけが発行できる。フランス行きの船は、すべて拿捕するよう命令が出ている」
「なんだって? エル=アリシュ条約で、フランスとトルコの講和は成立したはずだ。フランス遠征軍は今、休戦状態にある」
「知ったことか」
イギリスの指揮官は強情だった。ドゼがどんなにエル=アリシュ条約の正当性を述べ立てても、取り合おうとしない。
シドニー=スミスの付けてくれた部下が取りなそうとしたが、聞く耳まもたない。
交戦は不可能だ。第一、ドゼの乗った船は民間の船だ。戦艦ではない。
「
部下を通じてキース卿が通告してきた。
「通行証が無効である以上、貴方がたの身柄はイギリスが預かる。ラザレット(*3)に入ってもらう。ブリックに乗船している将校・兵士含め、全員に」
「それではまるで捕虜ではないか」
ドゼは憤ったが、キースが差し向けた部下は取り合おうとしない。無表情で彼は続けた。
「ラザレット収容には費用がかかる。貴方は、一日20スーを支払わねばならない。貴方の分だけではない。将校・兵士も同額だ。貴方が連れている……」
そこでキースの部下は視線をドゼの背後に向けた。彼の目には、侮蔑が浮かんでいた。
「召使や奴隷には、さらに別料金がかかる」
視線の先には、ドゼがエジプトから連れて来た二人の少年、黒人のバキルとマムルークのイスマイルがいた。
血色の悪いドゼの顔に血が上った。
「くたばれ! これ以上一刻も貴様の顔を見ていたくない。いいか。キース卿に伝えろ。俺は、マムルーク、トルコ人、アナトリア語族、大砂漠のアラブ人、エチオピア人、ダルフールの黒人、タタール人を相手にしてきたが、彼らはみんな約束を守った。あんたらのように、結んだ条約を破ったりしたことは一度としてなかった! 彼らは、苦境にある人を侮辱しなかった。いいか。俺はイギリスのすべての提督たちと一緒に高級宿舎で寝泊まりするよりも、自分の部下の兵士たちと雑魚寝の方がずっといい」(*4)
冷笑を浮かべ、キース提督の部下は立ち去ろうとした。ドゼが引き留めた。
「『エトワール』号には負傷者も乗船している。彼らにだけは、寝床にする藁を与えてやってくれ」
言い捨ててドゼは甲板に出た。このままでは、
腹立ちが治まらない。
足音荒く歩いていると、イギリスの下士官が『パドヴァの聖アンソニーの恩寵の家』号の船長になにやらいちゃもんをつけている(ようにしか彼には見えなかった)のに気がついた。
「どうしたんだ? またこいつら、何か無礼を働いたのか」
既に怒りが沸点に達していたドゼは、後先考えずに割り込んでいった。
ほっとしたように船長が顔を上げた。
「ああ、ドゼ将軍。この人が何か言ってるんですが、俺は英語はさっぱりで」
「今、船長に確認していたところです」
フランス語に切り替え、イギリスの下士官は言った。
「この船の積み荷は、全て貴方の物ですね?」
「はあ?」
あまりの言いぐさにドゼの頭は真っ白になった。
「高価な品や珍しい品を、いろいろ積んでいるようですが。さぞや高く売れることでしょうな、エジプトからの略奪品は」
「き、き、貴様……」
「それとも投機の対象ですか? いずれにしても羨ましいことです」
「こっ、このっ!」
「違います。積み荷は商品です。船主のものですよ!」
怒りのあまりろくに話すこともできないドゼに代わって、船長が説明した。彼はフランス語なら理解できたのだ。
ドゼの怒りが爆発した。
「くっそ! 持ってけ! 船ごと持って行っちまえ! 俺の荷物も持っていくがいい! そんなものに興味はないからな!」
「いや、船と積み荷は船主の物ですから。持っていかれたら困ります。この将軍の持ち物は、カバンが3つか4つ、それだけです」
小さな声で船長が付け足した。
さらに大きな声でドゼが叫ぶ。
「キース提督に伝えろ! 全部持って行って構わない、だが名誉だけは残していけ、と!」
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
*1 ナポリ;民間の
勝手にナポリに共和国を作ってしまったフランス革命軍に対し、民衆の組織ラザリ(ナポリ王から公共秩序の維持を任されていました)と、聖教軍 Santa Fede が蜂起します。そして、彼らに大砲を渡し、肩入れしていたのは、あのネルソンです。
ちなみに、この時、ナポリから実家のウィーンへ逃れたナポリ王妃マリア・カロリーナは、後に、甥であるオーストリア皇帝に、「ナポレオンの息子(皇帝の孫。ライヒシュタット公です)は、僧侶になるしかないね」と言い放った、あの方です(マリー・アントワネットの姉と言った方がわかりやすいでしょうか)。
そういえば、先にボナパルトに逆らってエジプトを離れたデュマ将軍と、体調を崩して彼に同行した学者のドロミューの乗った船が難破し、流れ着いたのもナポリ近海でした。フランス憎しとばかりの劣悪な監禁生活で、二人とも、すっかり健康を害してしまいます。
(この二人については、32話「ボナパルトの思惑」末尾でちょこっと語ってます)
*2 イギリスの戦艦、ドロセ号の司令官
ジョージ・エルフィンストン George Elphinstone
*3 ラザレット
検疫などの為に収容する、停泊した船や本土の建物
*4
実際のドゼの怒りの言葉です。キース卿へ書き送った手紙のようです
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