第41話 ドゼの趣味

 画家のドノンは、泣きたかった。

 彼の目の前を、雄大なエジプトの遺跡群が現れては消え、現れては消えしている。


 ……描きたい。せめて眼窩に留める時間を!


 どの遺跡にも、十分と立ち寄ることは許されなかった。岩場は、狙撃手の格好の隠れ場となる。いつマムルークやメカンアラブ人の残党が襲ってくるかわからないからだ。


 師団長のドゼには、ほんの少しでいいから立ち止まってくれるようお願いした。だが、普段の柔らかな物腰と違い、彼は頑として、ドノンの願いを聞き入れようとしなかった。


 ついに画家ドノンは、ドゼの耳元で囁いた。

「私だって明日をも知れぬ身です。戦闘のさなかで死ぬようなことがあったら、心残りのあまり、私の魂はこの世に留まり続けるに違いない。そしてドゼ将軍、貴方を追いかけ、耳元で、遺跡の名前を繰り返し囁き続けるでしょう。……せいぜい怯えて暮らすがいい!」


 ドノンの脅しに、ドゼがぶるりと背中を震わせるのを、ベリアルは確かに見た。


 ドノンがほんの少しでいいから時間をくれ、遺跡をスケッチさせてほしいと頼んでいるのを、ベリアルは知っていた。もちろん、それが難しいことも。なにしろ、ここから2日ほど行ったところにムラド・ベイがキャンプしているという情報が入ったばかりなのだ。


 部下だけではなく、民間人、それも芸術家からも突き上げを喰らうなんて。

 人の上に立つということは本当に大変だと、改めてベリアルはドゼが気の毒になった。



 「ベリアル将軍」

 ヤシの木の木陰で、誰かが呼んでいる。画家のドノンだった。上エジプトの素晴らしい遺跡を素通りさせられ、彼は大いに不満そうだった。


「さきほどのあれは、どう思いますか?」

 ベリアルが日かげに入るのを待ちきれないというふうに、ドノンが尋ねた。

「あれ、と申されますと?」

「ほら、少年が裁かれた件ですよ」

「ああ……」


 マムルークの大半が、急湍(*1)を越えてザイード(上エジプト以南。エジプトの外)へ逃げて行った。しかし、ムラド・ベイは逃げなかった。彼はかつての敵ハッサン・ベイを味方につけつつ、シリアへ渡ったイブラヒム・ベイとも連絡を取り合いながら、兵力を蓄えていた。


 砂漠のあちこちには、マムルークのスパイがいた。


 ある日、きつい行軍の後、遅れた砲兵隊を待つ間に、フランス軍の竜騎兵は居眠りをしてしまった。

 小さな影がそっと近づいてくる。現地の少年が、彼の銃を掴んで逃げた。


 騎兵たちはすぐに追いかけたのだが、非常にすばしこい子どもで、捕まえる際には、肩を切りつけねばならなかった。


 「傷を負わせたのはやりすぎです。軍刀で切りつけるなんて」

 ドノンは身を震わせた。


 盗人の少年は早速、師団長のドゼの前へ引っ立てられた。

 「なぜ、鉄砲を盗もうとしたのか」

ドゼが問う。

「知らない」

少年は答えた。髭面の異国の将校の前でも、平然としている。

「誰に命じられたのだ?」


 マムルークの誰かであることは、火を見るより明らかだ。

 すると天を見上げ、少年は答えた。


「神が命じたのだ。だから、将軍は、神を処罰するがよい」


 通訳が訳し終わると、ドゼは苦笑した。彼の顔を見守りつつ、少年は自分の帽子を地面に置いた。


「どのような罰が申し渡されるのか?」


とだけ尋ねる。カイロ蜂起の際、関係者が大量に斬首されたことを知っているようだ。


 少年は落ち着き払っていた。

 ドゼは彼に、むち打ちの刑を命じた。


「むち打ち! あれはひどかったです。あの子はわずか12歳ですよ?」

憤慨するドノンを、穏やかにベリアルが訂正する。

「10歳です」

「ひどい!」

「武器を盗んだのです。通常なら見せしめのためにも、もっともっと重い刑を処します。あれは、ドゼ将軍の温情だったんですよ」

「温情とは! 子どもを鞭打つことが!?」

「むち打ちの兵士も心得ています。あの子どもがあぶみ皮の鞭を受けたのは、ほんの数回でした」

「それにしてもです!」

「ああいう肝の据わった子どもを、なんとかうまく育てられないものかと、ドゼ将軍は思案していました」

「むち打ちをしといてですか? 10歳の子どもに?」

ベリアルはため息をついた。

「あれはまあ……。大方、彼も、鞭で打たれて育てられたんでしょうよ」


 ドノンはなおも納得できないようだった。


 泣きもせず喚きもせず鞭うたれていた少年を、ドゼがじっと見ていたことを思い出し、これはドノンには言わない方がいいなと、ベリアルは思った。


 ドゼがキャラバン隊から奴隷の少年を買い取ったことはドノンも知っている。

 だが、ルイ15世から、愛妾ポンパドゥール夫人の美術品の収集を任せられた経歴を持つ画家ドノンには、ドゼの趣味は理解できないだろう。






 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

*1 急湍

 ナイル河中部に見られる岩の多い浅瀬。ナイル河には6ヶ所の急湍がある。ここの急湍は、一番北で、その向こうはエジプトではない。ムラド・ベイ以外のマムルークたちは、この急湍の向こう、即ち、エジプトの外へ逃げて行った。



武器泥棒の少年については、ベリアルとドノンが記録を残しているのですが、両者には食い違いがあります。たとえば、少年の年齢を、ドノンは12歳、ベリアルは10歳としています。また、ベリアルはドゼは少年をむち打たせたと書いていますが、ドノンの手記には「哀れな子だ」と言って追い払った、とあります。


私は、ベリアルが真実に近いと思います。理由はドゼの性癖です。じゃなくて、ベリアルの誠実な人柄からです。


近況ノートに画像を上げておきました。この場面を彫った、ドノンの版画です。

https://kakuyomu.jp/users/serimomo/news/16817330659182033228




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