第42話 シエネ、フィラエ


 ドノンの哀願もむなしく、テーベ、ルクソールを素通りしたドゼは、エスネにフリアンの部隊を残し、急な山道を、休みなく南へ行軍した。


 ドゼ師団の猛烈な追い上げに、マムルークは、ひたすら南へと向かうしかない。

 ムラド・ベイを、急湍の向こうへ追いやるのが、ドゼの狙いだった。


 2月2日(1799年)。師団はついにシエネ(アスワン)に到着した。ここは、エジプトの最南端だ。ここから先はもう、エジプトではない。


 シエネの先で、ナイルは、大瀑布cataractを形成しているはずだった(*1)。しかし集落から少し進んだところにあったのは、滝というにはほど遠い、岩の多い早瀬に過ぎなかった。


 けれどそれは、マムルーク艦隊の行く手を阻むのに十分だった。


 岩場で立ち往生している敵を、ドゼ師団はついに捕捉した。

 戦いは一瞬だった。

 ほんの数発の砲撃で、ドゼ師団は、マムルーク艦隊を壊滅させた。


 この瞬間、ドゼは、エジプト中・上部をその支配下に置いた。





 シエネからシウトの駐屯軍へ、ドゼは手紙を書いた。

 しかし、送る手段がない。

 現地のガイドが、くっつけた二つのイグサの束に乗った小さな男を連れて来た。

 彼は河に浮かんだイグサの束の上にトルコ式に腰を下ろし、パイプ、数本のナツメ、ワニから身を守るための槍、そして舵を取る為の小さなオールを積み込んでいた。

 ナイルの流れを、ドゼの手紙を乗せた草の束が、ゆったりと下っていく。

 これが、現地の輸送手段だった。





 何を思ったか、ドゼは僅かな部下を連れ、貧弱な筏を仕立てて、フィラエ島(*2)へと向かった。

 島に接岸し、船を下りるなり、神殿の中に入っていく。どうやら、遠目にイシス神の神殿を見て、興味を持ったらしい。

 歴史的な遺物を素通りする悔しさに悶えていたのは、ドノンだけではなかったのだ。


「ドゼ将軍! 一人で行かないで下さい!」

慌ててフリアンが後を追っていく。


「大丈夫。我々の他に舟はない。ここに敵はいないということだ。みんなも好きにするがいい」

振り返ってドゼが言う。


 諸将は、思い思いに散っていった。



 彫刻家のカステは手持ち無沙汰だった。彼は、大神殿の塔門の下にいた。ふと、はるばるエジプトの南端まで来た将校らの名を記し残しておこうと思い立った。立派な門の石の扉が、文字を刻むのにうってつけだ。


 それは、素晴らしい考えに思えた。すぐに行動に移さねばならない。いつ師団長ドゼが戻って来て、出発すると言い出すかわかったものではない。

 大まかな構図を決める始めた。


 無心に作業をするカステの背後に、黒い影が立った。


「ドゼ将軍の名前はそこか。よし。なら次に旅団長の名前を入れろ」

「げ、ダヴー」


 夢中になって石と格闘していたので気がつかなかった。彼の後ろには、いつの間にか、ダヴーが仁王立ちしていた。

 仕事を邪魔されたカステは、ふくれっ面になった。


「ダメだよ。最初はやっぱり参謀長だ」

「ドンゼロット将軍は後でいい」

「そんなこと、」


「旅団長が先でいいよ」


 向こうからドンゼロットが言う。どうやら二人の話を聞いていたようだ。ダヴーが胸を張った。


「ほら。ドンゼロット将軍もあのように言っておられる」


 ダヴーと議論したくないだけでは? と、彫刻家カステは思う。なにしろこの男、ありとあらゆる将校に、議論を吹っかけては、めちゃくちゃな理屈で言い負かして歩いている。

 皆、ダヴーを避けていた。議論を吹っかけられないうちに、早々に逃げ出してしまう。ダグーを庇うのは、師団長のドゼだけだ。


 しかし、彫刻家の意地にかけても逃げ出すわけにはいかない。まして刻む文字は、誇り高きフランス語なのだ。

 ドンゼロットも了承してくれたことだし……。しぶしぶ、カステは折れた。


「わかったよ。最初に旅団長たちの名前を刻もう」


 ドゼの名前の5行下に、「旅団長」の位置を取る。ただし、若干、小さめの文字にした。バランスが悪いので中央に寄せる。


「旅団長の中では、俺が一番だ」


 譲歩したばかりなのに、すかさずダヴーが口を出す。さすがにカステも譲れなかった。諸将に順位をつけるのは、彼の仕事ではない。


「いいや。アルファベの順に彫る。一番最初は、ベリアル将軍だ」

「ダメだ! 俺を最初に刻め」

「君は、その次だ」

「許さん。俺の名前を、ドゼ将軍の一番近くに刻むんだ」


 カステは唖然とした。いくら師団長が彼を庇ってくれるといったって……。

 反対にダヴーは絶好調だ。


「アルファベ順? 何言ってんだ。真っ先に来るのは俺の名だ。ドゼ将軍の信頼が篤い順に刻むのに決まってんだろ」

「君が一番、師団長の信頼が篤いのかよ」

「そうだとも!」

「どこからくるんだ、その自信は?」

「俺は事実を言ってるまでだ」

「だからその事実とやらは……、」


 「どうした?」

 門の向こうを偵察に行っていたベリアルが戻ってきた。


「あ、ベリアル将軍。聞いて下さいよ。ダヴーが無茶ぶりを……」

 カステの訴えを聞いたベリアルは、肩を竦めた。

「ダヴーの名を最初に掘ってやれ。俺の名は、一番最後で構わない」


「ほらみろ! ベリアルは正しい」

 何が正しいのかわからないが、ダヴーはひどく得意げだ。


 この男と言い争ったって、勝ち目はない。どうせ超絶理論で言い負かされるに決まってる。すでに、参謀長より旅団長が先にきてしまった。もう、どうとでもなれ、だ。

 カステは彫刻刀を握りなおした。しぶしぶ、「旅団長」の下に、ダヴーの名前を軽く線で刻み始める。


「スペルを間違言えるなよ」

手中しているところを耳元で囁かれ、カステは飛び上がった。

「うるさい、黙ってろ!」

「Sを入れたらダメだ」(*3)

「ダヴー、気が散る。あっち行け。これはまだ本彫りじゃない。構図を決めてるだけだ!」

「言われた通りやれよ」

「わかったよ!」


 満足げな含み笑いを浮かべ(それはひどく不気味だった)、ダヴーは去っていった。


 ダヴーの位置が決まると(Sは入れなかった)、カステは石から体を離し、出来栄えを確認した。これからベリアルとフリアンの配置を決めるわけだけれど、ダヴーだけ小さい字にすると、また後から文句を言われそうだ。仕方がないから、旅団長全員を、小さめの文字で刻むことにする。


 参謀長のドンゼロットから、文字の大きさは元に戻した。これなら、旅団長が先に来ても、軍の序列を乱すことにはならないだろう。

 ダヴーと違って控えめな彫刻家カステは、最後に自分の名前を小さく記した。


共和国第 6 年 メシドール13日(1798年7月1日) フランス軍はボナパルトに指揮され、アレキサンドリアを陥落させた 20 日後、軍はマムルークをピラミッドで蹴散らした。ドゼ麾下第 1 師団は急湍を越えて彼らマムルークを追跡した ドゼ師団が到着した場所


共和歴7年ヴァントース13日(1799年3月3日日曜日)


 旅団長 ダヴー フリアン ベリアル

 参謀長 ドンゼロット

 砲兵隊司令官 ラトゥールニエーレ(*4)

 第24軽(旅)団指揮官 エプレール

 彫刻家 カステ





 壊滅した船の間に、だがしかし、ムラド・ベイの死骸はなかった。彼は、山岳地帯を行軍していた。その方が近道だからだ。ナイルに浮かぶ船団には、補給物資を受ける為に立ち寄るだけだった。

 2日ほど前に、彼はナイル沿岸を立ち去ったばかりだった。

 間もなく入った情報によると、マムルークの残党は、急湍カタラクト付近の峠を通り抜け、エジプトに再入国したという。

 彼らは、この辺りの地理に精通していた。フランス軍には太刀打ちできないほど。


 マムルークをナイル流域に近寄せてはいけない。

 ドゼ師団はナイルを下ることにした。来る時の対岸の、ナイル右岸を行軍する。


 同時に、シエネにマムルークが戻って来る可能性も捨てきれない。


 「君がシエネの守将だ」

ドゼが任じたのは、ベリアルだった。

「君はここに要塞を建造し、物資を貯蔵する為の倉庫を造らなければならない」


 ……倉庫の中身は送ってもらえるのだろうか。

 物資の不足は続いていた。カイロからの補給は相変わらず期待できない。

 一抹の不安はあったが、敬礼して、ベリアルはドゼの指令を拝命した。


「君の任務は、シエネの守りだ。もし万が一、マムルークが戻って来ても、大砲を一発、どんと撃てば、あっという間に散り散りになって逃げていく。決して深追いするなよ。危なくなったら、シエネを捨てて逃げるのだ」

「……」


 ベリアルは答えなかった。

 革命軍の将校として、逃げると言う選択肢はない。

 だがドゼは、ベリアルから目をそらそうとしない。


「君が勇敢な将校だという事はよくわかっている。だが、間違っても、急湍カタラクトの上までマムルークを追っていこうなどと考えてはいけない。滝の上はもう、エジプトではない。アビシニア(エチオピア)だ。大瀑布から先は、紀元前の昔から、西欧社会とは隔絶された世界なのだ。カエサルとクレオパトラでさえ進むことができなかったほどだ」

「はい」


 そのアビシニアの少女をハーレムに囲っているのは誰だと、ベリアルは思ったが、もちろん口には出さない(*5)。


「だが、実際のところ、急湍カタラクトの上流では、ナイルはすぐに元の川幅に戻り、美しい盆地を形成している。河の中洲には、エレファンティネ島があって、そこには、古代の記念碑がたくさんある」


 ……行ったんかい! 

 ……フィラエ島だけじゃなく、ナイル最果ての島まで!


 ベリアルは心の中で突っ込んだ。急湍の上へ出るまでは、27~28km は歩かなければならないはずだ。そういえばドゼは、サヴァリを連れて、一晩ほど留守をしていたことがあったと、ベリアルは思い出した。若く健康なサヴァリは、ドゼの行くところにはどこでもついていくことができた。


「そこから先は、いったいどうなっているのだろうか。全く興味がつきない。ベリアル、君が、急湍カタラクトの向こうまで馬を飛ばしたい気持ちはよくわかる。エレファンティネ島の碑文は良い状態で残されていて、ギリシャ語やローマの言葉で書かれたそれを読むことができた。他にもきっと……、」

「ドゼ将軍」


滔々と続くドゼの話を、ベリアルは遮った。


「私の使命は、シエナの守備です。急湍カタラクトを遡り、アビシニアへ入ろうなどとは、これっぽっちも考えていません」

「うん。それならいいんだ」

鼻白んだ顔で、ドゼが頷いた。


 急湍カタラクトを遡って、どこまでも馬を走らせたいのは、ドゼ自身なのではないかと、ベリアルは疑った。


 






 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

*1 大瀑布

カタラクト。ここで述べているのは、今まで何度か言及してきた急湍のことです。

なお、このカタラクトが、文字通り大きな滝であったという記述をみました。ですが、ここでの記述は、サヴァリの手記によりました




*2 フィラエ島

アスワン近郊にある遺跡。イシス女神を祀る神殿が中心となる。

アスワン・ダムの建設により、半水没状態となり、その後、さらに上流のアスワン・ハイ・ダムの建設を機に、ユネスコにより、フィラエ島からアギルキア島に移築された。(現在はアギルキア島をフィラエ島と呼んでいます)

サヴァリによると、当時フィラエ島は、(カイロ方面から)シエナに向かう途中にあり、川底からそびえ立つ島であったといいます。また、フィラエには井戸があると言われており、その底には6月21日の真昼に太陽が見えるという伝承があったそうです。




*3 「Sを入れるなよ」

後日、ジュノ夫人は手記で、「Davout」を「Davoust」と誤記しています。もしかしたら、間違えやすいスペルだったのかもしれません。

実際、この門扉には「Daout」と記されています。「ダウー」。もしかしたら彼は、こう呼ばれていたのかもしれません……。




*4 砲兵隊司令官 ラトゥールニエーレ

ドゼがライン・モーゼル軍から連れて来た数少ない将校の一人です。第Ⅹ話f「出港準備」、参照ください。

後にトゥーロンへ到着したドゼは、ライン軍の戦友サン=シルに、ラトゥールニエーレが赤痢で亡くなったことを知らせています



*5 アビシニア人の少女

14歳のアビシニア人の少女、サラ。38話「ドゼのハーレム」、参照。

彼女はこの後、ナイル河に沿って行ったり来たりするドゼの遠征についてきます。




※この後、ベリアルは、物資不足に苦しみながらも、連れて来たフランス人市民たちの力を借り、シエネにちょっとした村を造ります。仕立屋、靴屋、金細工人、床屋、仕出し屋、レストラン、カフェまでがありました。

兵士たちは、村の端に北へ向けて「ルート・ド・パリ n° 1167 340」と書かれた標識を立てました。パリからの方位と距離を表しているそうです。



※シエナの碑文に刻まれた日付(3月3日)ですが、ドゼ師団本体は2月4日にシエナを離れ、ナイル右岸を下り始めたので、3月3日は、彫刻の完成した日付だと思います。

彫刻家カステは、ベリアルと共にシエネに残留した市民でしょう。

写真家の Roger O. De Keersmaecker が当地を訪れて、この彫刻の写真を残してくれています。エジプト、シリアに関する膨大な資料は、彼の死後、オックスフォード大学のグリフィス Griffith 研究所に遺贈されています。

https://archive.griffith.ox.ac.uk/uploads/r/null/c/b/1/cb142ef9153486b61bb2d67b99860de3f2bcdd7caedd19f290ebd173c0498ad2/16_Travellers_Graffiti_-_Additional_Vol_III_Napoleon_in_Egypt.pdf


(p.47 をご覧下さい)



※シエネ(アスワン)、フィラエ、シウトの地図です

https://kakuyomu.jp/users/serimomo/news/16817330659238473091







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