4.カイロ

第27話 デュマ将軍の離反

 カイロで蜂起が起きた後、ベリアルは、ボナパルトの元に召喚された。蜂起はすぐに治まったが、未だ首都は不安定な状態だった。


 「ボナパルト将軍自らの召喚だ。名誉なことじゃないか。だが、すぐ帰って来いよ」

 気楽な調子でドゼはベリアルを送り出したが……。



 指定の時間にベリアルが司令部を訪れると、だん! とひどい音を立てて、司令官室のドアが開いた。


 「誰も彼もが、贈り物で心を売ると考えるなよ!」


 出てきた将校が叫んだ。

 漆黒の偉丈夫……デュマ将軍だった。


 投げつけられた何かが壁にぶつかり、壊れる音がした。


「デュマ将軍。俺は、カイロ蜂起鎮圧の功績を讃えようと思って君を呼んだのだ。全てを水に流してな。だが君は、ちっとも変っていない。ダマンフールでも言った。貴様のようにむだにでかい奴は……」


「俺は辞職する。射撃の的にされたらかなわんのでな」


 部屋からデュマが出てくる気配がする。思わずベリアルは、廊下の壁に張り付いた。

 デュマはちらりとベリアルを見、足音荒く立ち去って行った。


 デュマとボナパルトの対立は、アレクサンドリアからの砂漠の行軍の時からだ。デュマは、無謀な遠征に反対していた。ダマンフールで死んだミルーのように。

 ミルーはベドウィンに殺され、デュマは今、辞職を申し出た。


 ……どうしようか。ボナパルト将軍は機嫌が悪いに違いない。

 デュマの背中を見送り、ベリアルはためらった。機嫌が悪いとわかっている総司令官に会うのは気が重い。


 「そこにいるのは誰だ!」

 逡巡しているうちに、部屋の中からボナパルトが出てきてしまった。

「ベリアル将軍!」


 ボナパルトの表情が和らいだ。デュマでなくて安堵したようだ。けれど口元に浮かんだ笑みは、とってつけたように見えなくもない。


「久しぶりだな。元気そうじゃないか。アルコレで君から受けた恩は、忘れていないぞ」

「恐縮です、総司令官殿!」


 イタリアのアルコレでボナパルトが馬ごと沼に投げ出された時、彼を引き上げたのは、ベリアルだった。

 チャンスとばかり襲い来る敵の銃撃とボナパルトとの間に立ち塞がったのは、一介の兵士だった。また、2名の将校が総司令官の身体の上に身を投げ出して彼をかばった。

 その後にベリアルが駆けつけ、ボナパルトを泥の中から引き揚げたのだ。


 ボナパルトを庇った将校の一人と、最初に敵の前に立ちふさがった兵士は銃撃されて死んだ。兵士はまだ若い、薄い金髪の少年兵だった。ライン軍から来たばかりだった外科医ラレーが彼を看取った。


 ベリアルはこの少年兵が誰だったのか、とうとう知ることはなかった。広報には名前さえ載らなかった。ボナパルトは自分の広報紙を持っているというのに。

 恩人として名前が伝わっているのは、総指令官ボナパルトの体の上に覆いかぶさってかばった将校二人だけだ。


 いずれにしろ、ボナパルトが旗を持って敵の銃弾を掻い潜り、アルコレ橋を渡ったというのは、全くのフィクションだ。


 彼を泥の中から引き揚げたに過ぎない自分を、ボナパルトがまだ覚えていてくれたことは、ベリアルには素直に嬉しかった。けれど、ボナパルトの目がちっとも笑っていないのが気になった。ボナパルトの救済者である少年兵の名が公にされなかったことといい、もしかしたらアルコレでの救助は、ボナパルトにとっては屈辱だったのかもしれない……。そんな考えが、ちらりとベリアルの頭をかすめた。


「そんなところに突っ立ってないで、中へ入るがいい」


 部屋の中に入ると、強い香りのスピリットが供された。こんなものがまだあったとは驚きだ。ドゼを含めファユームにいる戦友たちは、泥を啜り、赤茶けた水でようやくのこと、命を繋いできたというのに。


「ドゼは元気か?」

 傷の開いたような笑みを、ボナパルトは口元に刻んだ。


「はい。ですが、師団長は目をやられてしまって。医者は安静を命じたのですが、なかなかそれもできないでおられました」

「聞いている。カイロでも多くの兵士が眼病を患っている。砂漠の照り返しに目を焼かれてしまうのだろうか」

「水から伝わる感染症の一種ではなかろうかと、軍医は申しておりました」(*)

「そうか……」


 憂わし気な青い目がベリアルを見た。ベニ・スエフの船着き場でベリアルを見送ったドゼの涙で潤んだ瞳と違い、ボナパルトの目は冷たく澄んでいた。


「あやつめ、カイロで療養しろと言ってやったのに、同じ病の兵士達をおいて自分だけが特別扱いをされるわけにはいかないと……」

 にわかに暗い目になった。

「ドゼには、俺の好意が受け容れられないのだろうか」


ベリアルはきょとんとした。


「は? なんと?」

「正直に話してくれたまえ、ベリアル将軍。ドゼは俺のことを、どう思っているね?」


 言っている意味が分からなかった。ドゼほどボナパルトに忠実な将軍はいないからだ。だって二人は、「親友」同士ではないか。

 ドゼはボナパルトの才能を見抜き、イタリアまで彼に会いに行った。そして、新たに提示されたドイツ軍右翼司令官の地位を捨て、ボナパルトの対英軍に下った……。

 少なくともそう、聞いている。


「ドゼ将軍は、総司令官殿に心からの敬意と忠誠を誓っております。もちろん、麾下の諸将兵士らも。それは間違いありません」

「うん、ならよかった。君を信じるぞ、ベリアル将軍。君だけは俺の味方だ」


 妙なことを言うと、ベリアルは思った。遠征軍の兵士はみな、ボナパルトの味方のはずだ。


 ボナパルトの緊張がゆるんだ。

 ムラド・ベイ追跡の苦労話を少ししてから、ベリアルは解放された。





 カイロの広場には、人が集まっていた。現地の人もいたが、殆どがフランス人だ。

 向こうから来た将校が、いやにじろじろベリアルの顔を見る。不意に、その顔が破顔した。


「誰かと思ったら、ベリアルじゃないか! 元気だったか? 確か、ローマからドゼ師団に配属になったんだよな」


 イタリア遠征時代、同じ師団にいた戦友だ。

 ローマの港、チビタ・ベッキアを制圧したのはベリアルだ。そのまま彼はローマに残り、ドゼを迎えた。友人の将校はボナパルト軍についてトゥーロンへ異動した。


「ファユームに行ってたんだ。なかなかにハードな行軍だったよ」


 それ以上に得るものも多かったと、ベリアルは思う。それが何であるかは、一言では口にできないが。

 かつての戦友は、顔を歪めた。


「カイロはいいぜ。こんな薄汚れた町だけど、給料はちゃんと出るし、食べ物も豊富だ」

「給料が出るのか!?」


 思わずベリアルは叫んだ。ドゼ師団では数ヶ月、不払いが続いている。給与どころか、あらゆる物資が不足している。


「出るよ。ドゼ師団では出ないのか?」

「それはまあ……そのうち、出るだろう」


 遠征の間中、食料や医薬さえ、司令部からは送られてこなかった。

 ……ドゼ将軍は、総司令官ボナパルトに嫌われてるんじゃないか?

 そんな疑惑が頭を掠めた。


 さきほどのボナパルトとの会話が脳裏に蘇る。彼はなぜ、ドゼは自分をどう思っているか、などと尋ねたのだろう。それは、ドゼのことを信用していないからではなかろうか。だからドゼ師団の将校であるベリアルにさぐりを入れた?


 ベリアルは疑念を振り払った。泥の中と砂漠を彷徨っていたのだ。司令部から物資の供給がなかったのは、連絡がうまくいっていなかったからだろうと無理矢理、自分を納得させた。

 いずれにしろ、ここで司令部や総司令官ボナパルトの悪口を口にするわけにはいかない。


「ところで、凄い騒ぎだな」


 目の前の群衆を指し示す。

 薄く、友は笑った。


「公開処刑があるのさ」

「公開処刑? カイロ蜂起のか?」

友は鼻で笑った。

「お前、いつの話をしてるんだ。違うよ。遠征軍の兵士のだよ。規律を乱した兵士の銃殺刑が行われるのだ」

「処刑って……、いったい、何をやらかしたってんだ?」


 思わず大声が出てしまった。

 軍規を乱せば、罰せられる。程度がはなはだしければ死刑もあり得る。けれど、今ここにいるのは、過酷な砂漠の行軍を耐え、ようやくカイロに入城できた兵士達ばかりだというのに。


「決闘沙汰だよ。総司令官殿ボナパルト将軍は、そういうのに厳格だからな」


 一人は元イタリア軍の兵士、もう一人は、元ライン方面軍の兵士だと、戦友は言った。あいもかわらず、この二つの軍の仲は悪く、顔を合わせれば喧嘩になるという。


「酒場の喧嘩から決闘に発展したんだ。もっとも、酔っ払ってたせいで、どちらも無傷だったけど」

「両方とも処刑されるのか?」


 恐る恐る、ベリアルは尋ねた。無理な行軍や戦いで、ただでさえ、兵士の数は減少している。それなのに処刑とは。

 戦友は首を横に振った。


「いいや。元ライン方面軍の兵士だけ」

「なんで? 喧嘩両成敗じゃないのか?」

「知らんよ。だが、公正な処分のはずだ。ちゃんと軍事裁判だって開かれた」


 友人はここで、イタリア軍兵士の助命を決めたのは、ボナパルトだと耳打ちした。ライン方面軍の兵士には、助命は適用されなかった。


「やっぱ、元イタリア軍の兵士は特別なのさ」

誇らしげに彼は付け加えた。


 処刑を見物に訪れる人の数は増えるばかりだ。いたたまれなくなってベリアルは、広場を後にした。







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*眼病

オフサルミア(エジプト眼炎トラコーマ)。バクテリアによる痛みを伴う目の感染症。眼球を針で突いたような痛みがあり、膿が出る。一時的、あるいは数週間に亘って失明する






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