第28話 ベリアルの希望
カイロ蜂起で、ボナパルトは初めて、この国の本性を見た気がした。
支配者への恭順は、上辺だけだ。彼らは決して、フランス人を受け容れていない。そもそも、ほんの一握りの人員で、それより遥かに多い民衆を治めるのは不可能に近い。ましてそれが、違う文化、違う宗教、違う肌の人種であるなら、なおさらだ。
カイロの、いわば内憂の他に、海からはさらなる脅威が近づいていた。
地中海に根城を張るイギリス海軍だ。アレクサンドリアやロゼッタなど海岸部からの報告が頻繁に届いた。
……問題は、イギリス軍が上陸するかどうかだ。
ボナパルトは、ロゼッタ、アレクサンドリアの守りを固め、アブキールの偵察にミュラを送った。
アブキールは、ブリュイの大船団がネルソンに壊滅させられた因縁の港だ。
エジプト遠征に出発前、ボナパルトに対し
……海岸部への遠征が必要だ。場合によっては、シリアへの。
実力のある将軍を連れて行くべきだ。真っ先に頭に浮かんだのはドゼだった。彼からは、眼病になったの、兵士が裸で飢えているの、なんだか冴えない手紙が届いた。仕方がないので、ファユームからの税の取り立てを許してやった。その後、どうしているか、ボナパルトは知らない。
セディマンとかいうところで、ムラドの軍を破ったらしいが、肝心のムラドには逃げられたという。マムルークを追って、ドゼは、上エジプト遠征を企てているらしい。
……
なんだか話がどんどん大きくなっている。
だめだ。自分の遠征に、ドゼは連れて行けない。
ランヌやミュラの騎馬隊の他に、クレベールとレイニエを連れて行くことにした。クレベールもレイニエも、思ったことをずけずけ言う(言い過ぎるほどだ)が、それだけの成果は必ず出す。レイニエはイブラヒム・ベイをシリアへ追い払ったし、上陸早々怪我をしたクレベールは、にもかかわらず、アレクサンドリアの陥落を成功させた。
未知の世界へ遠征に行くともなれば、頼りになるのは、やはりどうしても、旧ライン・モーゼル軍のベテラン将軍だ。
そして、次の問題は、
◇
ベリアルがボナパルトに呼ばれた。
「どうだね? カイロでの生活は楽しんでいるか?」
ボナパルトの問いに、曖昧にベリアルは頷いた。ファユームに残してきたドゼ師団が気になって、それどころではなかった。
「もう少ししたら、私もカイロを離れようと思っている。ところでベリアル。君もドゼと同じく、目を患っているのではないか?」
ボナパルトの観察力に、ベリアルは驚いた。実は、カイロに到着してからというもの、どうも目の調子が優れない。眼球がちくちくして、膿が出る。どうやらドゼと同じ眼病に感染したらしかった。
「ドゼ将軍ほどではありません」
ベリアルが答えると、ボナパルトは心配そうに眉根を寄せた。
「その状態で砂漠へ出れば、疲れる一方だろう。休養をしたらどうか。たとえば……」
じっとベリアルを見つめる。
「君は、カイロの指揮を執りたくはないかね?」
「カイロの指揮、ですか?」
ベリアルは面食らった。カイロの司令官はデュピュイ将軍だったが、彼は10月のカイロ蜂起で殺されてしまった。彼の後任は、ボン将軍だ。
「ボン将軍は優秀な指揮官だ。アレクサンドリア攻略でも活躍したし、ピラミッドの戦いでの方陣の采配も素晴らしかった。だから今度の遠征に連れて行こうと思う。彼の後任として、君がカイロの守将になったらどうかと思うのだ」
ベリアルの心臓が、早鐘のように打ち始めた。カイロの守将だって?
近くドゼ師団が、上エジプトへ遠征に出かけることは聞いていた。このままでは自分は、ドゼの遠征についていけなくなるかもしれない!
……落ち着け。
ベリアルは、大きく息を吸った。ここは、冷静に振舞わなければならない。強制から逃れ、自分の行きたい道を行くために。
「親愛なる総司令官殿。寛大にも貴方は、私に選択肢を与えて下さいました。まずはそのことを、深く御礼申し上げます」
深々と頭を下げると、ボナパルトは鼻白んだ顔になった。すかさず、ベリアルは続ける。
「ですが、せっかくこのような遠方までやってきたのです。エジプトは、クッションに埋もれ、水煙管を吸って過ごすには、祖国からあまりにも遠く離れています。それに、私は馬を走らせる方が好きです。カイロでじっとしていることは、性に合いません」
「カイロの指揮は執りたくないというのか?」
「いいえ。ですが、それよりはむしろ、上エジプトの遠征に心を惹かれます」
「なるほど」
ボナパルトはため息をついた。
「よろしい。ほかならぬ君の希望だ。さっそく上エジプトに向けて出発する準備をせよ。ドゼは助けを必要としている。君なら、良きサポート役となるだろう」
「ありがとうございます!」
ブーツの踵をかちりと合わせ、ベリアルは敬礼した。
「ああ、ベリアル将軍」
立ち去りかけたベリアルを、ボナパルトは引き留めた。
「カイロを発つとき、画家を一人、連れて行って欲しい」
ベリアルが振り返った。怪訝な顔をしている。
「画家、ですか?」
「うむ。ドノンだ。上エジプトの学術的な調査も必要かと思ってな。彼は今、カイロ郊外の遺跡にスケッチに出ているはずだから、ドゼ師団へ向かう途中で拾って、連れて行ってやってくれないか」
「了解しました」
再びベリアルは拝命の姿勢を取った。
◇
……ベリアルもか。
アルコレで自分を救ってくれた男は、自分よりドゼを選んだ……。
……「貴方は私に何をしてほしいのですか?」
報告を寄越せと言ってから1ヶ月も経ってからようやく来たドゼからの書簡は、最後にそう結ばれていた。
彼は明らかに、ボナパルトを責めていた。
ドゼ師団への補給は滞っているのだから、無理もないかもしれない。けれど、カイロで蜂起が起きて、それどころではなかったのだ。その上、補給をねだってくるのは、ドゼ師団だけではない。アレクサンドリアのマルモンなど、ずっと昔から下にいた総督から優先的に送られるのは、仕方がないことではないか。
その上、ボナパルト自身だって、遠征を控えている。
ボナパルトは、ドゼに、ファユームから税を取り立てることを命じた。その結果、
……「貴方は私に何をしてほしいのですか?」
決まっている。
自分への忠誠の義務を果たす為に、一刻も早くムラド・ベイを討伐し、カイロへ戻って来ることだ。
それなのに、上エジプトとは……。
ドゼには、監視が必要だ。
ベリアルにこの役を申し付けることはできなかった。彼はボナパルトを信頼している。そして厄介なことに、ベリアルは、ドゼに対してもまた、親愛の情を抱いているからだ。
ボナパルトが選んだのは、画家のドノンだった。
ドノンは、50歳を過ぎている。この遠征には、モンジュと同じく、ボナパルトの要請で特に参加してもらった。彼とは、妻のジョゼフィーヌを通じて知り合った。ボナパルトにとってドノンは「身内」だ。彼なら、万が一、ドゼに叛意があった時、ボナパルトに知らせてくれるだろう。
学術調査という名目に、ベリアルは、何の疑念も抱いていないようだった。彼がもう少し聡かったら、この役目は、ベリアルのものだったかもしれないというのに。
航路で学者のモンジュにドゼの船を探らせたように、上エジプト遠征では、画家のドノンにドゼを探らせるつもりだった。
ドゼ……自分に友情と忠誠を誓った男が、本当に言葉通りの人物なのか。遠い上エジプトで、麾下の兵士や現地の人間を巻き込み、もしや自分に逆らうようなことはあるまいか。
モンジュは完全にドゼに篭絡された。ドノンはどうだろう……。
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