第29話 ボナパルトからの強奪


 12月の声を聴くころ、ドゼがカイロを訪れた。

 ボナパルトは彼に、ダイヤモンドを豊富に使った短剣を与えた。特別ボーナスのつもりだった。政府からではない。彼個人からの贈り物だ。


「これは美しい」

 ドゼは目を輝かせた。だがその後に続いた言葉がいけなかった。

「売れば、大した額になりますな」


「売るのか? これは、ムラド・ベイ討伐に関する、君の苦労と努力への褒章だぞ」


 ボナパルトは唖然とした。自分は、成果を上げた部下には、きちんと報いる主義だ。不遜にもデュマは批判したが、個人的な贈り物も人間関係構築には大切だと信じている。


 今まで、ボナパルトから好意の品を贈られて、売り飛ばすなどと口走った者はいなかった。皆、感激し、彼への忠誠を改めて誓ったものだ。

 しかし、ドゼは勝手が違った。


「私の師団の兵士たちは、数ヶ月間、給料を支払われていません。それどころか、武器弾薬をはじめ、靴、食料、医薬、あらゆるものが不足している。この剣は、ひと財産あります。売れば、なんらかの足しになる。私個人だけが富むわけにはいきません」


「補給なら、後から送る」

悲鳴のようにボナパルトは叫んだ。

「補給物資は必ず送るから。砂漠の奥にいた君の師団とは連絡が取れなかったのだ。だから、補給が遅れた」


 嘘だ。

 彼はわざと、ドゼ師団への補給を後回しにした。それは、最初のカイロへの行軍の時から。

 ただでさえ乏しい物資を、後から麾下に下った者の軍隊に回すつもりはない。その者がいかに友情を誓おうとも。

 友情? それが何だというのだ。ボナパルトには友情というものがよくわからない。


「わかっています。あなたは決して、遠くにいる者を忘れない」

 にっこりとドゼは笑った。その顔は、あきれるほど邪気がなく素朴だった。


「今、フランス軍は微妙な立場に立たされている。8月に君の師団がムラド・ベイ討伐に出発してすぐ、エジプトの宗主国トルコは、フランスに対して、敵対的な態度を取るようになってきた」


ボナパルトが言うと、ドゼは首を傾げた。


「我々がエジプトを、マムルークからトルコ皇帝スルタンの手に取り戻そうとしているのに、ですか?」

「スルタンは、何もわかってはいない」


 実際に政治を牛耳っているのは、大宰相グラン・ビジエユセフだ。

 遠征軍がエジプトに上陸した当初、トルコ宰相ユセフは、英仏、二か国の間で揺れていた。それが、アブキール海戦でフランス軍の敗北を知ると、イギリスに向けて舵を切ったのだ。ボナパルトが得た情報によると、シリアとロードス島に、スルタンの正規軍が集結しつつあるという。


 つまり、エジプトをマムルークから取り戻し、スルタンへお返しする、という、遠征当初の口実が怪しくなってきたわけだ。それどころか、イギリスに加え、トルコまでが敵に回ってしまった。


「近いうちに、シリア遠征もあり得るかもしれない」

ボナパルトが言うと、ドゼは目を丸くした。

「しかし……それは、侵略ではないですか?」

「トルコが敵に回る以上、やむを得ないだろう。シリアを通過し、オーストリアの背後を脅かすことが、君の目標ではなかったか?」

「はい。西からは、私の古巣の軍隊(*1)がウィーンめがけてドイツを東進してくるでしょう。そうすれば、西と東からオーストリアを挟み撃ちにできる」


 これは、自分に会いにイタリアへ来たドゼに、ボナパルトが初めて明かした計画だ。

 エジプトからトルコを経由し、ヨーロッパへ到達する。その昔、トルコが進軍したように。

 そして、祖国フランスからライン河を渡ってドイツを横切ってきたライン方面軍と出会い、ウィーンを陥落させる。


 ドゼは目を輝かせて、ボナパルトの慧眼を讃えた。そしてぜひ、自分も参加させてほしいと申し出たものだ。

 皮肉にもイギリスに艦隊を焼かれ、地中海を封鎖された今、遠征軍が帰国するには、トルコ経由でさらに北上し、陸路を行軍するしかなくなってしまったのかもしれないが。


「その為にも、エジプトは手放すわけにはいかないな」

「もちろんですとも。この国を手放すなど、論外です。なにより……」


ドゼは言葉を途切らせた。目顔でボナパルトに続きを促す。


「アレクサンドロス大王の東方遠征に倣わねばならない」

「現代の英雄は、貴方です」


 ドゼの目は、きらきらと輝いていた。

 悪い気はしなかった。なにより彼は、本心から、古代のロマンに思いを馳せている。


「ムラド・ベイは上エジプトへ向かいました。引き続き奴を追跡し、エジプトから追い出します」


「君は……」

ボナパルトはためらった。

「君はカイロから先へ行くべきではないと思っていたのではないか?」


 ずっとわだかまっていた。ダマンフールのデュマのテントで、ドゼはデュマの意見を否定していない。


「いかなる時でも上官の命令に従う。それが、兵士というものです」


 きっぱりとドゼは言い切った。何の衒いも躊躇いもなかった。長いこと胸

に抱いていた重しが取れたようにボナパルトは感じた。


 少しして彼は気がついた。これではデュマはじめ集まった諸将にスパイをつけていたと告白したようなものだ。けれどドゼは、自分達の会話が盗み聞きされていたことを、ごく当然のように受け止めている。

 イタリアで、マントヴァの安宿に憤慨したスパイが介入して、ボナパルトが尾行をつけたことが露見した時も、彼は一言も苦情を言わなかった。

 ……。


「つきましては、歩兵2000人ほど頂きたい。騎兵は、少なくともその半分。そしてもちろん大砲、武器、弾薬、食料、医薬に兵士たちの靴……」


「ちょっと待て」

溢れ出すほどの要求を、ボナパルトは慌てて冴えぎった。

「さっきも言った。俺は、シリアに遠征を控えている。トルコへ行くともなれば、人も馬も要るだろう」


「わかります」

真摯な目でドゼはボナパルトを見やった。

「けれど、この増援が得られなければ、エジプトの南端、急湍カタラクトへ行くのに2ヶ月以上、かかってしまいます。しかも、一度追い出したマムルークが再び、ナイル中・下流域に戻って来る可能性があります」


 ボナパルトは唸った。

 この男がはるばるカイロまでやってきたのは、これが目的か。

 普段はおとなしいドゼが、この時は、驚く程強硬だった。


「わが軍への補給は、確保されているのでしょ? 我々が砂漠の真ん中にいたから、送れなかっただけで」

言質を取って、問い質してくる。

「もちろんだ。しかし君、歩兵2000というのは、とんでもない数だぞ?」

「現時点で、わが軍の歩兵は約3000います。けれど、病人や怪我人が大半だ。仕方がない、1500」

「無理だ。カイロの守備にも人手がかかる。500がせいいっぱいだ」

「500! 何を申されるやら。1000人下さい」

「800だ! これ以上は一人だって増やせない」

「……わかりました」

みるからにしぶしぶとドゼは引き下がった。

「ですが、騎兵1000は譲れません。もちろん、馬をつけてね。現在わが軍には騎兵がいませんから」

「1000!」


 ボナパルトは絶句した。騎兵はともかく、馬がそんなにいるだろうか。シリアに連れて行くだけでいっぱいいっぱだというのに。

 だが、ドゼは執拗だった。


「カイロから騎兵と馬1000を連れて行きます。これは譲れません!」

「カイロにそれだけの馬がいるというなら許可しないでもないが……」

「心配はご無用です」


 この男がこうまで言い張る以上、何か心当たりがあるのだろう。

 本音のところは、もし余分の馬がいるのなら、シリアへ連れて行きたいところだ。


「騎兵隊長はどうするのだ? ミュラはやれない。シリアへ連れて行くからな。デュマには帰国許可を出してしまったし」


 にやりとドゼが笑った。


「ボナパルト将軍。ダヴーを返してもらいますよ」

「!」


 やられた、と思った。

 ダヴー。あの男がいたか。

 だがあいつは、カイロではろくな働きをしていない……。


「彼の赤痢は、治ったのか?」

「ダヴーに勝てる菌はいませんよ」


 深いため息をボナパルトがついた。

 ドゼには敵わない。長い間、補給を止めていたから、ボナパルトの方にも彼の師団に対する疚しさがある。


「よかろう。物資については、船で運ばせよう」


 ……この男は、

 ドゼに見られぬよう渋面を隠し、ボナパルトは思った。

 ……自分の部下は、確実に取り返す。


 砲兵隊長のラトゥールヌリエがそうだった。


 当初、マルタ島侵攻には、ディリエとヴォーヴォワの2師団を使う予定だった。ところが、ディリエ師団には砲兵隊長がいなかった。そこへちょうどよくドゼがライン・モーゼル軍からラトゥールヌリエを連れて来た。彼は砲兵隊長だと言う。

 ディリエは、イタリア戦でボナパルトの下にいた。その彼の軍に、砲兵将校が不足しているのだ。考えるまでもない。ボナパルトは、ドゼの連れて来た砲兵将校をディリエ師団のいるジェノヴァへ回した。


 これに対しドゼからは、ラトゥールヌリエがジェノヴァへ連れて行かれてしまい、自分の師団チビタベッキアには、砲兵隊長と、ついでの工兵隊長がいないと、苦情の手紙……だとボナパルトは思った……が送られてきた。


 それなのに、マルタ島襲撃のどさくさにまぎれ、ドゼはちゃっかりラトゥールヌリエを自分の船に連れ戻していた。

 おかげで戦利品を積んで祖国へ向かったディリエの船はイギリス海軍に拿捕され、積んでいたマルタ騎士団の宝物は、奪われてしまった。


 ディリエは、満足な砲撃ができなかったせいだと、政府からの知らせを聞いたボナパルトは思っている。


 「時に、ベリアルは君の師団に返すぞ」

さりげなく、ボナパルトは話題を変えた。ここでドゼに恩を売っておくのも悪くない。

「なにせ、彼自身が望んだからな。上エジプト遠征に同行したいと」

「ええ、ベリアル将軍は俺の軍へ戻って来ると信じていました」

 当然、という顔で、ドゼは頷いた。

「画家のドノンも、君の遠征に参加させる」

「画家ですか?」

ドゼの声が変わった。彼は、学者や芸術家に敬意を抱いていた。

「ああ。上エジプトのあれこれのスケッチをしたいのだそうだ」


 その実、ボナパルトは彼に、ドゼ師団の内情を探らせるつもりだった。

 ドゼは、特に疑っている様子はない。彼は、そんなことは、思いもかけなかったのだろう。



 ボナパルトとのせめぎ合いの果て、ドゼは、歩兵の増援800と1000の騎馬隊を手に入れた。

 そしてもちろん、ダヴーも。

 他に、大砲119門、武器、弾薬、食料、医薬品、酒精スピリット、そして大量の兵士たちの靴も、奪い取るようにして勝ち取った。

 物静かな男の手段を選ばぬやり方にボナパルトは呆れ、いっそすがすがしく感じたものだ。


 ボナパルトはまた、物資や病人、怪我人の運搬の為に、6隻の船からなる小型船団フロティラを与えた。特にドゼの為にと、ボナパルトは自分が使っていた「ル・イタリー」を与えた。亡くなったブリュイ提督管理下にあったディジャームdjerms(*2)で、イタリア人が船長の、贅沢で乗り心地のいい船だ。


「この部屋の家具は、君専用だ。部下に使わせてはならない」

 ボナパルトは念を押した。今まで、ドゼからの物資要求を無視してきた、わずかばかりの罪滅ぼしのつもりだった。


 豪華な内装を見て、ドゼはわずかに眉間に皺を寄せたが、何も言わなかった。


 ボナパルトはまた、不要だと言い張るドゼに榴弾砲(*3)を持たせた。砂漠では、軽い大砲の方が使い勝手が良かろうと思ったのだ。百戦錬磨のこの将軍は、榴弾砲にもいい顔をしなかった。

 彼はとにかく威力のある大砲が欲しがった。それでどかんとやれば、マムルークは一発で逃げていくという。


 不要な戦いを避けたかったらしいが、シリア遠征を計画中のボナパルトには、一基でも多い大砲が必要だった。それで、大砲の不足分として榴弾砲を強引にイタリー号ル・イタリーに積み込ませた。





 細かな打ち合わせが終わった。

「ちょっと待て」

立ち去ろうとするドゼを、ボナパルトは引き留めた。

「君、ちょっとそのは、ひどすぎる」


 実際、ドゼは、ひどいありさまだった。髪はぼうぼう、肌は焦げたように日焼けし、なめし皮のように皺が寄っている。視力は取り戻したというが、ともするとその瞳は、あらぬ方向に向けられがちだった。

 戸棚の中から、ボナパルトは自身のアメニティーグッズ一式を取り出し、ドゼに差し出した。


「前にやったやつはどうした?」

「なくしました」

けろりとしてドゼは答えた。


 ドゼに衛生用品を渡すのは、これが初めてではない。カイロに到着してから、すでに2~3回は渡している。だが、彼の身なりは一向に改まらない。櫛や化粧品は使わないのかと問うと、毎回、なくしてしまったと、済まして答えた。

 カイロにいる間、ドゼの身なりが整うことは、ついぞなかった。






 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


*1 古巣の部隊

 ドイツ軍のこと。1797年、サンブル=エ=ムーズ軍とライン・モーゼル軍が合わさってできた

 「負けないダヴーの作り方」終盤の方で触れています

 https://kakuyomu.jp/works/16816452218559266837



*2 ディジャーム

ナイル河を遡る船



*3 榴弾砲

 カノン砲に比べて軽量でコンパクト。高仰角の射撃に用いる





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