第30話 クレベール訪問


 「お前、勇気あるな」


 訪れたドゼをじろりと見やり、クレベールは言った。

 アレクサンドリア侵攻の際、目の上を撃たれたクレベールは、静養を兼ねて、カイロで暮らしていた。


「勇気とは?」

ドゼが首を傾げる。

「だって、俺はボナパルトから睨まれているんだぜ? その俺を訪ねてくるなんざ、信じられないほどの度胸だぜ」

 さすがにドゼは、驚いたようだった。

「総司令官殿から睨まれてるって? クレベール将軍、一体何をやらかしたんです?」


 ライン・モーゼル軍とサンブル=エ=ムーズ軍と、属する軍こそ違ったが、ドゼとクレベールは面識があった。往時の戦争大臣カルノーの作戦の元、共闘してきた仲である。


「大したことはしてねえよ」

ふん、とクレベールは鼻を鳴らした。

「怪我のせいで、俺はしばらくアレクサンドリアにいたんだが、つまり、軍事総督? そんな役目で。ところが、カイロからはひっきりなしにあーせい、こーせい、言ってきやがってよ」


 カイロに入城したボナパルトは、アレクサンドリアのポンペイウスの柱(*1)に、アレクサンドリア戦で犠牲になった兵士の名前を刻ませようと思いたった。


「でも、名簿もないんだぜ? 死んだ兵士らのよ。だから、それは無理って言ってやったの」


 すると、参謀長ベルティエが、犠牲者名が載った新聞を送ってきた。


「でもこれが、ミミズがのたくったみたいな字でよ。読めやしねーの」

「ああ、アラビア語ですね?」

ドゼが頷く。

「アラビア語? エジプト語でねーの? ま、何だっていいけどよ。せめてフランス語で書かれたものがほしいって言ってやったのさ。ついでに、ほら、俺は文官じゃないだろ? 俺は戦士だ。だから、そういうの、苦手なの。だって、ポンペイウスの柱は砂糖やバターじゃないんだから、そう簡単に、刻めやしないだろ?」

「まさか、そう言ったんですか? ボナパルトに?」


 「ボナパルト」になっていた。素知らぬ顔でクレベールは頷いた。


「おおよ。そしたら、ボナパルトの奴、俺ががアレクサンドリアに軍事病院を建てたことを、無駄な出費だとぬかしやがんの」

「いや、病院は大切でしょう。アレクサンドリアには、貴方を含め、最初の侵攻で怪我人が大勢出たはずです」

「その通りだ」

「学者の先生方も、町を造ったら、真っ先に病院を造るべきだと言ってました。疫学的に、統治に病院は絶対必要なんだそうです」

「そうだろ? 学者は正しい。第一、やつらを連れて来たのはボナパルトじゃないか。自分のいいようにばかリ、学者を利用しやがって。その上、だぞ。その上、ボナパルトの奴……」


 クレベールは、ボナパルトが命じた、アレクサンドリアの商人から追加の強制借款徴収を拒否した。二重取りになるというのがその理由だが、ボナパルトは、クレベールの横領を疑った。追加で徴収した分を、彼が着服したと決めつけたのだ。


「くそっ、あいつめ、俺が横領したと決めつけやがって! 誰に対してモノ言ってやがんだ? このクレベールが横領! はっ! 笑わせやがる。つか、腹が立つったらありゃしない。だからもう、アレクサンドリア総督だけでなく、軍の職務全てを辞任して、国へ帰ると言ってやった。デュマのようにな!」(*2)

「ででで、でも、クレベール将軍。貴方は今、ここにいるじゃありませんか」


 そう言うドゼの顔はどす黒かった。従来の色の悪さではなく、彼自身、危機感を抱いている証拠だ。


「俺は、武器や食料、それに援軍を補給しにカイロへ来ているんですよ? ようやく必要最低限の援軍と物資を貰う約束を貰ったところなのに。ボナパルトに逆らった貴方と一緒にいたなんて知れたら、また、何にも送ってもらえなくなるじゃないですか。ベニ・スエフでは、飢えた、目の見えない兵士達が、俺の帰りを待っているんですよ……」

「安心しろ。向こうから仲直りを申し出てきたから。カイロは気候がいいから、しばらく養生しろだと。だから、好きにやらせてもらってるのさ」


 そこでクレベールは深いため息をついた。


「ボナパルトには、決まった計画があるわけじゃない。すべては成り行きまかせで進んでいく。あいつは、全てをやりたがり、自ら組織したり管理したりする。そのくせ、うまくやり遂げることができない。当たり前だ。専門家じゃないんだから。なんであいつは、人の能力を認め、任せるということができないのか……。俺は、アレクサンドリアに流れ着いた大量のフランス水兵達の遺体を忘れることができない。身体の一部を吹き飛ばされ、魚に食い散らかされて……」


クレベールは両手で顔を覆った。


「なあ、ドゼ。俺は思うんだ。アブキールで船団がやられたのは、こうしたボナパルトの行き当たりばったりのせいだったのではないか。ブリュイ提督はベテランだ。帰国かエジプトに留まるか、留まるなら船団の停泊地はどこにするか、そういうことは、彼の判断に任せればよかったんだ。のボナパルトの命令ではなく!」


「しっ、クレベール将軍。声が大きい。何度も言うように、軍への補給の為に、俺は今、彼の不興を買うわけには……」


「心配するな。ここには他に誰もいないさ。船団のことは、ブリュイ提督に一任すればよかったのだ。それを、アレクサンドリアの港の深度や大きささえ知らないくせに適当に停泊地に指定し、きちんとした帰国の許可も与えずに放置して、ピラミッドの戦いだ、カイロ入城だにかまけて、ボナパルトの奴、船団のことなど忘れちまってったんじゃねえの?」

「……」

「イタリアにいたお前んとこチビタベッキアには、とうとう出港命令が出なかったというじゃないか」

「……」


「『私は、といえば、歴史とゲームをしているようなものなのです』」

「……? なんです?」

「ボナパルトが言いやがったのさ。ぞっとしたね、俺は。ゲームで殺されたらかなわねえわ。俺も、兵士らもな」


 無言でドゼは立ち上がった。

 語調を変え、宥めるようにクレベールが言う。


「だが、まあ、せっかくカイロの端まで訪ねて来てくれたんだ。今日はゆっくりしてくといい」

 ドゼは首を横に振った。

「せっかくですけど、あまり時間がないんです。用を済ませて、なるべく早く、駐屯地ベニ・スエフへ帰りたい」

「ははん」


 いかにもピンときた、という風に、クレベールは顎の下を撫でた。


「駐屯地ではハーレムのかわいこちゃんたちがお待ちかねってか?」

「良く知ってますね」

ドゼはけろりとしている。

「げ、本当だったのか」

ドゼの人柄を知っているクレベールは、どうやらカマをかけただけのようだった。

「本当ですとも。女の子だけじゃありませんよ? 少年たちも絶賛募集中です」

「……」

「彼らは、俺の家族みたいなもんです」

「家族って、」

 深いため息を、クレベールはついた。

「ロゼッタのムヌ将軍は、現地の女性と結婚するっていうしな。わざわざイスラムに改宗して。大切なのは、特定の相手を作り、その女と意思疎通をすることだ。だから、ドゼ。お前も一日も早く結婚しろ」

「貴方だけには言われたくないですね、クレベール将軍」(*3)

憮然として、ドゼは答えた。








 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


*1 ポンペイウスの柱

 アレクサンドリアにある柱。ローマのポンペイウスが埋葬されているとされるが、それは誤りで、プトレマイオス朝時代の図書館の柱。




*2 アレクサンドリア総督だけでなく、軍の職務全てを辞任して

「ボナパルト将軍、あなたがその手紙を書いたとき、あなたは彫刻刀でもって、いいように歴史を改竄しようとしたのではありませんか? そして私、クレベールに手紙を書いていることを忘れていましたね?」




*3 貴方にだけは言われたくない

私の調べた限り、現在45歳のクレベールは独身です。とういか、生涯独身でした。


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