第31-1話 ダヴーとミルー師団
一足先にカイロに入っていたベリアルを、ドゼが訪ねて来た。ドゼの目が見えるようになったことに、ベリアルは大いに安堵した。
彼が最後に見たドゼは、副官の肩に捕まって歩き、失明した他の兵士らと十把一絡げになって小舟に積み込まれていたのだ。
「見えるようになったんですね! ドゼ将軍、俺の顔が見えますか?」
「ああ、よく見えるよ。相変わらずいい男だな」
「また、お世辞言って……」
ドゼはにやっと笑った。
「カイロ訪問は大成功だ。総司令官殿から、援軍も、補給物資も、どっさり頂戴した」
引き続き、ムラド・ベイ討伐に従事するという。
「ドゼ将軍、俺も一緒に行きます!」
勢い込んでベリアルは申し出た。
「ああ、ボナパルト将軍から聞いた。俺を選んでくれてありがとう」
うつむき、ぼそぼそとドゼは続けた。
「君は、ライン・モーゼル軍から来た俺を、一番最初に認めてくれた。俺は君になら、なんでも腹蔵なく話すことができる。そういう人は珍しいのだ。俺は友情を育むのに、ちょっとばかり時間が掛かるからな」
あっけにとられてベリアルはドゼを見た。確かにドゼは、こんな風に友情や好意を軽々しく見せる人柄ではない。だからベリアルは、彼とボナパルトの「友情」も、若干割り引いて考えていたくらいだ。案の定、ボナパルトはできたばかりの「親友」の師団を砂漠行軍の前衛部隊に割り当て、すぐさま、湿地と砂漠の遠征に送り出し、その間、補給もろくに送ってこなかった。
頬に傷のある将軍は、きまり悪げに微笑んだ。
「君は、エジプトに来て俺が真っ先に心を許した友人だ」
ドゼの好意は、素直に嬉しかった。自分を買ってくれているのだと、ベリアルにはわかった。彼の下にいたら、大変な行軍ばかり続くこともまた、事実だ。それでもベリアルは、この男についていきたいと思った。だから、カイロの守将ではなく、上エジプト遠征を選んだ。
これから、ダヴーの様子を見に行くとドゼは言った。彼の口利きでボナパルトの軍に入ったが、赤痢に罹り、カイロで療養していた騎兵だ。
「レイニエ将軍にも会いたかったのだが、あいにく、遠征に出かけていて」
「らしいですね。彼は、遠征が多いんです。ボナパルト将軍は、彼をそばにおいておきたくないような……」
「どういうことだ?」
ドゼが足を止めた。彼にしては珍しく、厳しい顔をしている。つられて、ベリアルも立ち止まった。
「なんというか、レイニエ将軍は、ライン軍の将軍なんです」
「俺もそうだが?」
全く心当たりがなさそうに、ドゼが首を傾げる。
「彼はものをずけずけ言い過ぎるんです。間違っていることは間違っている、と」
我ながら奥歯にものが挟まったような言い方だった。だが、ドゼは何かを察したようだった。
「そういう将校を、ボナパルト将軍は嫌っておられるというわけだな」
溜息にも似た声が、風に乗って、僅かにベリアルの耳に届いた。空耳だと、ベリアルは思うことにした。
「デュマ将軍がエジプトを離れるという。彼は、つまりその、総司令官殿の不興を買って」
言いにくそうに、ドゼが言葉を選んでいる。ベリアルには心当たりがあった。カイロに着いてすぐ、ボナパルトとデュマの不仲を見せつけられたからだ。
「ダヴーがなあ。あいつが、余計なくちばしを突っ込んでいなければいいが。とにかく、ボナパルト将軍にだけは忠義を尽くせと口を酸っぱくして言い聞かせておいたんだが」
ベリアルは驚いた。
「ドゼ将軍は、いずれデュマ将軍がボナパルト総司令官殿と袂を分かつと、予測しておられたのですか?」
「うん、なんとなく」
やはりはっきりと言おうとしない。さらにベリアルは突っ込んだ。
「その上でダヴーに、総司令官殿に逆らうなと?」
「身を守る為には、大きい方の樹の下に逃げ込むものだ」
「……」
ドゼの思考回路がなんとなくわかった気がした。彼がライン河畔を離れ、ボナパルト軍に入った理由だ。
ドゼは、元貴族だ。兄弟や親戚で戦える者は悉く、王弟に従い、国を出た。
亡命貴族を身内に持つ、革命軍将校。彼は常に、革命政府の疑惑にさらされ、派遣議員から目をつけられていたに違いない。ましてや、ライン河上流域は、東の国境に当たる。接触しようとする敵方のスパイも多い。
ドゼにとって、
到底英雄の思考とは思えないが、極めて人間臭く、堅実な身の振り方だと、ベリアルは思った。
◇
ダヴーは、厩舎にいた。
「うおぉーーーっ、ドゼ将軍!」
ダヴーの挨拶は激烈だった。
「腹はすっかりよくなったようだな、ダヴー」
ドゼは目を細めて笑ったが、ベリアルは後じさった。相変わらず、凄まじい匂いがしたのだ。厩舎の匂いではない。ダヴーの匂いだ。
この男、ろくに沐浴をしていないのではないか?
「はい! おかげさまで」
「遠征には出れるか? 上エジプトに出かけようと思っている」
「上エジプト! 行きます!」
即座にダヴーが答える。
「君、上エジプトがどこだかわかっているのか?」
若干の不安を感じ、ベリアルは尋ねた。
「さあ。でも、ドゼ将軍が行くのなら、どこへだって俺はついていきます!」
一瞬のためらいもなくダヴーが言ってのける。
そこへ、まぐさを抱えた少年兵が通りかかった。
「ドゼ将軍!」
腕いっぱいの飼料を放り出し、少年は駆けてきた。
亡くなったミルーの部下の少年兵だと、ベリアルは思い出した。
「おお、アンリ! 元気だったか?」
ドゼは名前まで覚えていた。
「はい!」
「他の奴らも?」
「はい!」
「よかった」
深いため息をドゼはついた。よほど、ミルーの軍が心配だったとみえる。
「ドゼ将軍、俺、将軍の命令通り、馬をいっぱい集めて……」
「俺だ!」
横からダヴーが割り込んできた。
「馬を集めたのは俺です! こいつらは手伝っただけだ」
「でも、実際に街の人のところへ行ったのは僕らですよ?」
「通訳をつけてやったのは俺だ。言葉もわからないくせに、何を言いやがる」
ほぼ手柄を争う子ども状態だ。相手が本物の子どもなのが、状況をさらに悪くしている。
ファユーム遠征でカイロを離れる際、ドゼがダヴーに、馬をたくさん買っておくよう指示していたことを、ベリアルは思い出した。
「まさか地元住民を脅して取り上げたりしてないよな?」
不安そうにドゼが尋ねている。
「ちゃんとお金を出して買ってますうぅ~~」
ダヴーが言い、ベリアルは呆れた。
「金って、そんな金、どこから出てくるんだ?」
「それはまあ、いろいろと」
ダヴーが頭を掻いた。なにやら誤魔化している。
これは、デュギュア師団の経費を横流ししているに違いないと、ベリアルは踏んだ。だって司令部からドゼ師団には、兵士達への給与さえ支払われていない。
「おおそうだ、ダヴー。少しばかり金ができた。これでもう少し、馬を買い足せるだろ?」
膨らんだ革袋を、ドゼが取り出した。
「ド、ド、ド、ドゼ将軍、いつの間にそんな金……」
驚きのあまり、ベリアルは思わずどもってしまった。いつだって貧乏で顔色の悪いこの人が……。
「これか? 心配するな。個人的に貰った物を売った金だ」
「個人的に? 貰った?」
「うん。あの宝石のついた短剣を売れば、もっと金になると思うんだが」
宝石のついた短剣。それは、ボナパルト将軍からの褒章品だ。
「それはいけません」
ベリアルとダヴーは同時に諫めた。
◇
ドゼは、歩兵の補充として、ミルー師団を返してもらうつもりだった。ドゼがボナパルトから貰えた80人というのは、ミルー師団の兵士の、ぎりぎりの数だったのだ。
けれど、ふたを開けてみれば、選ばれたのはミルー師団ではなかった。それとなくボナパルトに問うと、ミルー師団は既に、次の任務が決まっているという。
ボナパルトのシリア遠征に同行するのだ。
総司令官の軍に配属となれば、さすがにドゼも、それ以上の要求はできなかった。
その晩、ドゼは元ミルー師団の兵士らと車座になって酒宴を始めた。
「いいか。
肌の厚い椀に汲まれた濁った酒を一息で飲み干し、ドゼが言う。
酸っぱい匂いを放つ酒を、初めは恐る恐る口にしていたダヴーも、今ではすっかりほろ酔い気分だ。
「要は、危なくなったら逃げろということだ。お前らが忠誠を誓うべきは、ドゼ将軍だ。ボナパルトにそこまで尽くす義理は……痛っ!」
足を組んだダヴーの膝の辺りを、ドゼが思いっきり小突いたのだ。
「わかってますぅ。総司令官殿に逆らっちゃだめなんですぅ」
酔いも手伝い、涙目になったダヴーが言う。ドゼが頷いた
「その通り。軍の規律は守られねばならない。けれど、どうしようもなくなったら、
兵士らが頷いている。彼らはこのややこしい言葉を、どこまで理解したのだろう。
「ミルー将軍を、君らの将軍を守ってやれなかったことは、申し訳なかったと思っている」
突然、ぼそりとドゼがつぶやいた。
「だが俺は、軍や政治のトップに逆らうことはできなかった。それは規律を乱すことに繋がる。砂漠の真ん中で規律を失えば、軍は破滅するしかない。今もまた、君たちをボナパルト将軍に託すに当たって、俺に言えることはひとつしかない。
何から逃げるのか、ドゼは言わなかった。けれど、今は亡きミルーの兵士たちは理解していた。
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