第26話 サン=シルの停職 2


 その年は、暑い夏だった。ある日、ジャンが司令部へ行くと、凄まじい怒声が聞こえてきた。


「貴君にそんなことを言う権利はない!」


 フランス軍の派遣議員の声だった。軍のあれこれを革命政府に密告する、政府の犬だ。


「……」

 内容までは聞き取れなかったが、低く落ち着いた声が聞こえた。ローマ軍総司令官サン=シルの声だ。


「なんだ、何があったんだ?」

近くにいた当番兵にジャンは尋ねた。当番兵は肩を竦めた。

「議員様がイタリア貴族から、宝石をくすねたんだ」

「ほう」


 珍しいことでもない、とジャンは思った。将校らが略奪に精を出す一方で、彼らを見張る為に中央政府から派遣されてきた議員たちも、私腹を肥やすことに余念がない。

 ボナパルトがいた頃は、彼自身、地元貴族から、ワインや美術品、邸宅に至るまで、さまざまなものを召し上げていた。


 「ところが、我らが総司令官サン・シル殿は、盗んだ宝石を持ち主へ帰せと命じた」

「へえ」


 サン=シルだけではない。ベルナドットもデルマも、ライン方面軍の将校は清廉で、麾下の将校や兵士に略奪を許さない。

 その流儀をサン=シルはイタリアへ持ち込んだ。今まで好き放題やってきた将校たちの中へ。


「略奪は、ボナパルト総司令官公認だったろ? むしろ奨励されてた気がする。だって、十分な給料が支給されてないからな。まあ、ボナパルト将軍は、エジプト遠征に行っちまったわけだけど」


 暗い顔で、その場の兵士たちが頷いた時だった。


「職権乱用だ! 中央へ言いつけてやる。楽しみにしているがいい!」


 ドアがばんと開き、派遣議員が出てきた。壁に貼り付いたジャンたちをじろりと見て、そのまま歩き去っていった。


 サン=シルが停職になったのは、それからすぐのことだった。無口で無骨なこの将軍は、麾下の軍には一言も弁解しなかった。黙って荷物をまとめ、イタリアを去っていった。





 その晩。件の派遣議員が帰宅したのは、夜半も大分過ぎてからのことだった。


 目の上のたんこぶ、サン=シルを追い出すことができて、彼は満足していた。


 イタリアから財を取り上げてはダメだと? ボナパルト将軍は、大量の美術品や工芸品を、パリへ送ったではないか! 彼や将校たちは、イタリア貴族から搾り取った金で、優雅に暮らしていたではないか。そもそも、ボナパルトが暮らしていたのは、パッセリアーノPasserianoの総督から召し上げた邸宅だ。


 それなのに、あの、ライン河畔から来た将軍は! 地元から富を吸い上げずに、どうやって軍を養えと? 政府の補給は常に遅れ気味で、全くない時だってある。自分たちの力で軍を養わないでどうするというのだ!


 あんな硬直したエセ正義漢が指揮など執っているから、ライン軍は、解体しかけているオーストリアなんぞに勝てなかったに違いないと思い、派遣議員は唾を吐いた。


 イタリア貴族から召し上げた年代物のワインで、彼は気持ちよく酔っていた。彼と同じようにサン=シルを快く思わない仲間たちにちやほやされ、わからず屋の将軍を追い出した祝杯を挙げていたのだ。


 歩くリズムが乱れている。彼は低い声で歌いながら、接収した貴族の家の、広い庭のアプローチを歩いていた。


 その時だった。


 暗がりから、不意に誰かが飛び出してきた。派遣議員の懐に飛び込み、いきなり、強烈なアッパーカットを食らわせた。


「うわっ!」

 声にならぬ悲鳴をあげ、派遣議員は無様にひっくり返った。


 「ドゼの代わりだ」

低い声が落ちてきた。

「なんだと?」

 答えはなく、賊は走り去っていった。



 月明りの下を歩きながら、ジャンは鼻歌を歌っていた。


 ドゼの代わりに、「親友」サン=シルの敵討ちをしてやったことに、彼は、深い満足を覚えていた。


 なんといっても、親友同士だ。サン=シルにかけられた冤罪を知ったら、ドゼは腹を立てただろう。もっとも、「高潔」と噂される将軍ドゼが、民間人相手に実力行使に出るとは考えにくかったけれども。






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