8.エル=アリシュ条約
第61話 遠くにいる人を忘れない
「ドゼ将軍! カイロから荷物が!」
副官のサヴァリが興奮して叫んだ。
わらわらと人が集まって来る。
厳重に梱包され、ボナパルトから送られてきたのは、立派な剣だった。
去年の11月、カイロに物資を強奪に行った折(しぶるボナパルトから手段を選ばずに必要物資を調達したドゼのやり方は、文字通り強奪だった)、ドゼは宝石を鏤めた美しい短剣を贈られた(宝石をあしらった柄は売り払ってしまったが)。その短剣は、ピラミッドの戦い(エンババの戦い)やファユームでの戦いなど、いわばエジプト遠征前半部のボーナスだったのだろう。
今度は、遠征後半部の報償というわけだ。(*1)
剣には手紙がつけられていた。
「市民将軍(ドゼを指す)、あなたに、上エジプト征服の刻印が入った非常に優れた細工の剣を送ります。それは、あなたの不変の良い気質と、献身の賜物です。私の尊敬と、あなたへの友情の証として、受け取ってください」
「へえ! すごい。よかったですね、ドゼ将軍」
「立派な剣だ。ドゼ将軍が頑張ったからですよ」
「貴方は信頼され、頼りにされているのです。素晴らしいことです」
口々に部下たちが集まり、褒めてくれる。
ドゼは顔を赤らめた。
「あれ、これ……」
手紙の後半部を読んでいたサヴァリが声を上げた。
「ボナパルト総司令官は怒ってますよ? 命令を無視したって」
「命令を無視?」
誰かが尋ねる。
「ああ、あれか。カイロに行かなかったことだろ」
あっさりとドゼが言ってのける。(*2)
「あと、権限もないのにファユームから
サヴァリの顔が青ざめる。
「いやいやいや。あれはやむをえない処置ってやつだ。軍が飢え死にするわけにはいかないんだからな」
誰かが言った。
「カイロに行かなかったのだって、仕方がなかった。将軍たちはみんな、遠く離れてばらばらになっていた」
別の兵士が付け加える。
「そうだよ。一番遠いエプラー将軍なんてカイロから750キロも離れてたんだぜ?」
「ドゼ将軍だって、フェーン Fechn にいたんでしょ? カイロから200キロは上流だ。そもそも、ボナパルト将軍から手紙が届くのだって、大幅に遅れたし」
「それでも、ボナパルト将軍から次の催促が来た時には、ドゼ将軍も出陣準備をしてたじゃないか。サヴァリ、君、洗いたてのシーツを探してたよな」
「そういえばそうだった」
サヴァリが遠い目をする。
事情を知る将校らが口々に言い募り始めた。
「その頃にはもう、アブキールの戦争は終わってたじゃん」
「若い現地人奴隷を買って大隊に編入させろ、なんて、無茶言うよなあ」
「金や物資を送れってのもさ。上エジプトにそんな余裕があるわけないじゃないか。こっちが欲しいくらいだよ」
「そもそもボナパルト将軍は、俺らを見捨てたんじゃないか? 補給は送ってこないし、武器や弾薬だって、いつも不足している。軍には、個人の弾薬入れに入っている分しか、もう、弾薬は残っていないよ」
それは確かに、いつだってドゼを恐慌させていた。彼の兵士たちが弾薬不足で戦っていることは。
しかし彼がいかに哀願しようと、カイロからは弾も弾薬も、滅多に送られてこなかった。
「しっ!」
サヴァリが唇に指を充てた。副官である彼は、ドゼのボナパルトへの傾倒ぶりをよく知っている。
恐る恐るドゼの様子を窺う。
「だがまあ、ボナパルト将軍は遠くにいる我々のことを忘れていなかった。この剣が何よりの証だ。そのことがわかっただけでもよしとしよう」
おっとりとドゼが言う。
「至急、釈明の手紙を書いた方がいいですよ」
サヴァリが勧める。
「どうかな。総司令官殿は大分お怒りのようだからな」
サヴァリから手紙を受け取り、ドゼは首を傾げた。
「でも、書いた方が」
「それなら、彼の怒りが冷めた頃に届くように、書いておこうか」
しつこく手紙を書けと勧めるサヴァリに、しぶしぶドゼが応じた時だった。
「ドゼ将軍はそう言いますが、正直俺は、
古参の兵士だった。将校ではない、一介の兵士だ。
彼の一言で、陽気だった一座はしんと静まり返った。
ボナパルトへの不満。
それは、誰しも胸に抱えていたことだからだ。
「上に立つ者を育てるのは、我々だ。下につく者こそが、理想の為政者を作り上げるのだよ」
静かにドゼは兵士を見やった。
「なんとなれば、
年配の兵士には、少し難しいようだった。
「祖国を愛するということですね?」
「うん。自分たちが幸せになるということだ」
ドゼは答えた。
◇
「マムルークはヒドラのようなものだ。頭が一つ切り落とされると、別の頭が生えてくる……。マムルークとの戦いは、通常の戦争ではない。歩兵が
このように記したドゼは、いつの頃からか、宿敵ムラド・パシャのことを「あの愚か者」と呼ぶようになっていた。戦場からマムルークの短剣や槌鉾(*3)を拾って持ち帰ることもある。略奪をしないドゼの、戦闘の記念なのだろう。
その「愚か者」は、ドゼ師団の分遣隊に追い回され、それこそ、兜からスリッパに至るまで奪われ、もうどこへ逃げていいのかわからなくなっていた。
「総司令官には必要なものをたくさん頼んだが、何も得られないのであきらめている」
3月9日(1799)にカイロの守将デュギュアに送ったこの書簡を最後に(ボナパルトはシリア遠征に出ていた)、ドゼはボナパルトに頼ることを止めた。上エジプトにおいてドゼ師団は、できる限りの自給を目指した。軍には、技師ら市民もついてきた。彼らは、不足しているあらゆるものの製造を手掛けた。
今では、ボナパルトの方がドゼの財力、即ち豊かな上エジプトからの収穫ををあてにしている。
武力で他民族を滅ぼすことは野蛮な手段であると、ドゼは考えていた。彼は、住民の文明化を望んでいた。遊牧ではなく、できるだけ定住させ、農耕をさせることが望ましい。
けれど、何世紀もの間、専制支配に慣らされてきた国に、どうやって、自分たちの権利を教え込むことができるだろうか……。
彼はまた、若い、少年と呼ばれる年齢の子ども達を集めていた。黒人、マムルーク、親を亡くした子どもたち、奴隷として売られた少年たち、そして、部族の持て余し者……。
少年たちは訓練され、軍人となるはずだった。
マムルークやトルコに使役されるだけの軍人ではない。自分たちの国、地域、社会を守る為の軍人だ。
コプト人のマレム・ヤコブ(*4)もコプト派の補助兵を集めるのに余念がない。彼は、エジプトの独立を目指すドゼに協力を惜しまなかった。息子ほどの年齢の彼に心酔しているといっていい。
馬の不足は、ラクダで補った。たくさんの子どもとラクダが、上エジプトのドゼの元に集められた……。
……してみると、ハーレムの少年たちは、軍の予備兵だったわけか。
ひそかにベリアルは舌を巻いた。
フランスの将軍が少年を集めていると噂を流し、部族長たちに、売られていた少年たちを連れてきてもらう……。ドゼは随分前から、彼らの境遇に心を痛めていたのだと、思い当たった。
……俗物だと思って悪かったな。
ハーレムの少女たちについては、何ともいえないが。一説には、トルコのハーレムは、行き場のない女性たちの保護も兼ねているという。
しかし、ベリアルは、ドゼのことを、そこまで聖人だとは思っていない。戦場で戦う男の下半身に、何を期待するというのか。ハーレムの少女を遠征に連れて行くような彼に、そんな誤解は抱きようがない。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
*1 剣
59話「元ライン方面軍将軍への不信と不満」で、ボナパルトが発送しようとしています
*2 カイロに行かなかった
52話「ボナパルトからの指令」、ご参照ください
ボナパルトからカイロ近郊へ来いと指令が来た時の、諸将の居場所をあげました
https://kakuyomu.jp/users/serimomo/news/16817330660291376274
*3 槌鉾
メイス、英;mace;殴打用の鈍器。打撃部分の頭部と柄を組み合わせた合成棍棒の一種。
写真でドゼの持ち帰ったマムルークの槌鉾を見ましたが、素人の私の見た限りでも実用性がまさり、芸術性はないように見受けられました。ドゼの持ち帰ったマムルークの武器は、彼の故郷であるクレルモン・フェランにあるロジェ・キュイヨRoger Quilliot美術館に収蔵されているそうです。
*4 マレム=ヤコブ
21話「ユセフ運河」、38話「ドゼのハーレム」に登場しています
※
タイトルは、褒美の剣に添えられたボナパルトの手紙に対する、ドゼからの返事の抜粋です。
ボナパルトの手紙には、ドゼへの賞賛の言葉と同時に、カイロに来なかった、権限もないのにファユームから税を取り立てた、と、非難も記されていました。それに対するドゼの返信です。ボナパルトは既に帰国してしまったので、ドゼからの返信が届くことはありませんでしたが。(幾重にも友達がいのないやつだと思います……)
ちょっと長いですが、ドゼの手紙を引用させてください。
「
(褒美の剣について)あなたは、遠くにいる人を忘れない。使い古しじゃないんだ! だから、思い出して頂いたことは、とても感謝しています。
(中略)
あなたは、私の行動に満足していません。それは申し訳ないと思っています。私は、あなたの願いを叶えることだけを考えています。私は従順の代価を知り、その為にすべてを犠牲にしています。謝罪はしません。あなたは私の話を聞く気がありません。私は過ちを恐れず、それを認める方法を知っています。……。
」
最初のパラグラフの「使い古しじゃないんだ!(Ce n'est pas l'usage !)」に、思わず噴出してしまったドゼの本音を感じたのは、私の読み間違いでしょうか……。
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