第75話 待ち人来たる


 ドゼは、オーストリア軍はジェノヴァへ向かう、というボナパルトの考えには疑問を抱いていた。


 途中、ノヴィ方面に偵察を出した彼は、オーストリア軍は、南へは来ていないと判断した。

 分遣は、軍の弱体化に繋がる。自分たちブデ師団は、軍本体を離れるべきではない。


 しかし、総司令官ボナパルトに対し、そう意見することはできなかった。兵士の本分は、上官に従うことだからだ。


 ノヴィへ向かうには、南北に流れるスクリーヴィア河を渡河しなければならない。ところが折からの雨で、スクリーヴィア河は増水していた。馬の脚を掴んで河を渡ろうとした歩兵が数人、河に流されてしまった。ドゼは渡河を諦め、川岸を、ゆっくりと軍を進めた。

 これなら、命令違反ではない。



 翌14日朝7時。ドゼは聞いた。北から聞こえる大砲の音を。そして、身に馴染んだ地響きを感じた。すぐさま地面に突っ伏し、それが砲撃であることを察知した。


 戦闘が始まっているのだ。


 もちろん、ボナパルトの命令に逆らい、軍に戻るのは論外だった。彼の背には、エジプトに残してきた遠征軍の帰還が掛かっている。万が一にも、ここで第一執政ボナパルトの不興を買うわけにはいかない。


 といって、このまま南西へ下るのは、それは軍の壊滅に繋がるかもしれない。ドゼは、サヴァリ副官に「新たな指令を待つ」とのこと付けを託し、第一執政ボナパルトの元へを送り出した。


 北に向かったサヴァリは、いくらも行かないうちに、ボナパルトの出した急使に出会った。

 使者は、ボナパルトからの手紙を携えていた。彼はドゼの助けを必要としていた。


「私は敵を攻撃していると考えていたが、敵は私に(宣戦の)警告を発してきた。まだできるなら、ええい、くそっ。戻ってきてくれ」(*1)


 手紙を読むと、ドゼは馬で高台へと登った。平原を見下ろし、西から東に向かって大地を踏み荒らしている白い軍服(*2)の大軍を見た。アレッサンドリア方面、ポゲーラ現在のフランス軍司令部のすぐ近くだ。


 即座に彼は丘を駆けおり、師団を集めた。


 ここからアレッサンドリア方面へ向かうには、眼の前を流れるスクリーヴィア河を渡河する必要があった。増水を警戒し、昨日、渡河を諦めた河だ。


 けれど、もはやそんなことは言っていられない。

 地元の司祭の助けを借りて筏を作り、軍は未だに危険なまでに流れの速いスクリーヴィア河の渡河を始めた。



 馬の鞭をぱちりぱちりと弾きながら、ボナパルトは、兵士達の間を行き来していた。


 ……ドゼは帰って来るだろうか。


 自分はさんざん、彼の命令違反を咎めた。召喚を無視してカイロに来なかったこと。上エジプトの福祉の為に使うとして、勝手にミリを取り立てたこと。

 だが、二人は和解したのではなかったか。ボナパルトはドゼを許し、改めてドゼは、ボナパルトへの絶対の服従を誓ったはずだ。


 だが、まだドゼは来ない。

 彼の元へやった使者も戻ってこない。


 ドゼがポゲーラ司令部を出てから、既に一昼夜が経過している。、師団は今頃、スクリーヴィア河を渡り、遥か南を到達しているはずだ。

 ボナパルトは足を止めた。


 ……彼は、間に合わないのか?


 ドゼが、あるいは、……。


「大丈夫だ。もうすぐドゼ将軍が来る。そうしたら、わが軍の勝利だ」


 自分では檄を飛ばしているつもりだったが、彼の姿は、大層心細げに兵士らの目には移った。

 ボナパルトは、退却を思案し始めた。



 ついに、待ち人の姿が見えた。刺繍も徽章もない青いフロックコート姿のドゼが、ボナパルトが貸し与えた二人の補佐官を大きく引き離し、馬を走らせてくる。馬は自前ではない。ベシエール(*3)が貸し与えたものだ。彼の後に、延々と、モニエ師団六千が続く。


 すぐにドゼは、ボナパルトの前に現れた。


 「さて、ドゼ将軍、なんという乱闘だろうね」

 両頬に傷のある顔を見て、ボナパルトは泣きたいほど安堵した。


「さて、将軍」

同じ言葉でドゼは返した。

「私は帰ってまいりました。わが軍は、依然として疲れ知らずで、必要ならば、死をも覚悟しております」


 集まった諸将のうち、誰かが撤退を口にした。ボナパルトの考えであることを知っていたのだ。

 しかしドゼは、浮足立った諸将を押し留めた。


「撤退? とんでもない。それは非常に愚かな行為です」


 ドゼは、撤退は不利になると諭した。昨日の行軍から、河の水が増水して逃げ場がないのを彼は見て来た。ボナパルトが向かおうとしている方面は、ポー河とスクリーヴィア河の合流地点に近い。渡河は不可能だ。河を背に逃げ場を失った状態で、敵に包囲されることになる。

 時計を取り出し、彼は言った。


「3時だ。戦いは失われた。しかし、再び勝利する時間は残されている」


 マルモン(*4)の砲撃で敵の意表をつくことを、ドゼは提案した。その隙に自分が出撃するという。自分とブデ師団が陽動作戦を取っている間に、ボナパルト将軍には軍を再編し、側面から敵を襲撃してほしい……。


 それしか方法はないように思われた。途方に暮れていたボナパルトは、この経験豊富な将軍の作戦に従うことにした。


 ドゼの采配の元、ブデ師団の布陣が始まった。彼らは囮として、最前列に立つのだ。


 ブデ師団突撃の準備が整うまでの間、ボナパルトはひそかに、ルブランとルフェーブルを呼び出した。病気で参戦できなかったドゼの副官ラップの代わりに、ボナパルトがドゼに貸し与えた補佐官たちだ。


 「ドゼを予備軍から離すな」

 ボナパルトは命じた。


 ……「撤退? とんでもない。それは非常に愚かな行為です」


 撤退が頭を過っていたのはボナパルトだ。自分はそれを、部下の前で口にしてしまったろうか。いずれにしろ、ドゼが戻って来るまで、身動き一つとれなかった。

 なんという無様さだ!


 その場の指揮官は、ボナパルトではなく、ドゼだった。そこにいるというだけで、彼は軍を掌握していた。


 エジプトで思い知った通りだ。ドゼには、人を惹きつける力がある。ボナパルトを軽く凌駕し、追い落とす力が!


 ボナパルトの命令に、副官たちは首を傾げた。予備軍は、ブデ師団の第9軽旅団に組み込まれた歩兵部隊だ。そもそも第9軽旅団には騎兵がいない。ドゼ将軍が歩兵部隊に張り付いていることが必要なのだろうか?

 しかしボナパルトは質問を許さない。彼は、部下に絶対服従を求める。


「はい!」

 同時にブーツの踵を鳴らし、二人は拝命した。


 オーストリアの楽団が大音量で演奏を始めた。敵の突撃は近い。






 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


*1 ボナパルトがドゼに助けを求める手紙

”Je croyais attaquer l'ennemi, il m'a prévenu; revenez, au nom de Dieu, si vous le pouvez encore.”

”revenez, au nom de Dieu...” 以下は、直訳すると「戻って来てください。神の御名において、もう一度(言います、戻って来て)」となります。

革命は神を否定しているので、本文では罵倒語のように訳しましたが、究極の土壇場で「Dieu(神、創造主)」を出した点に、ボナパルトの弱さに思いを致すことができ、興味深いです。

なお、ドゼは自分の判断で引き返してきたとする説もありますが、ボナパルトの手紙を運んできた急使の名前もわかっています。ブリュイエルBruyèreです



*2 白い軍服

白は、オーストリア軍の軍服の色



*3 ベシエール

ライン方面のモーゼル軍(後にライン軍と合わさり、ライン・モーゼル軍となる)にいたことがあります。エジプト遠征にも参加し、ボナパルトと一緒に帰国した模様です。後の元帥。



*4 マルモン

トゥーロン包囲戦以来のボナパルトの親衛。後の元帥。エジプトではアレクサンドリア総督を任されていました。ベシエールと同じく、ボナパルトと一緒にエジプトを脱出しています。57話「アブキール陸戦 1」で、アレクサンドリアからカイロへ危機を知らせて来ました。

なおマルモンは後に、殿下(おわかりと思いますが、ライヒシュタット公です)と面会し、ナポレオンについて話す許可をメッテルニヒから与えられます。

「ナポレオン2世 ライヒシュタット公」「裏切り者のラグーザ」

https://kakuyomu.jp/works/1177354054885142129/episodes/1177354054889876052 ~




※マレンゴの戦い概略の地図です

https://kakuyomu.jp/users/serimomo/news/16817330661220974881







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