第74話 分遣

 

 このころまでには、カステッジョの丘モンテベッロで勝利したランヌ軍との合流が完了していた。

 ランヌの軍は白兵戦を経験しており、3000人近くの兵士を減らしていた。それでも、エジプトから連れ帰った腹心ランヌの無事は、ボナパルトを大いに心強くした。


 ランヌに追い払われオットオーストリア軍が逃げ込んだボゲーラには、すでにフランス軍が司令部を置いている。

 メラス元帥オーストリア軍は、すでに撤退に入ったに違いないと、ボナパルトは確信した。


 彼はドゼに南のノヴィ方面へ向かい、オーストリア軍がジェノヴァへ逃げ込まないよう退路を断つよう命じた。



「サヴァリ。俺がエジプトで話したことを覚えてるか?」


 6月13日、出発の朝。

 最後の点検をしているサヴァリに、ドゼが話しかけてきた。


「ええと、なんでしたっけ?」


 トゥーロンの検疫所から直接やってきたドゼは、自分の馬さえ持っていなかった。ドゼの馬は何とかなったが、サヴァリの馬がない。

 サヴァリは忙しかった。率直に言って、上官の繰り言を聞いている暇はない。

 けれど、ドゼはしつこかった。


「俺は、姉さんにふさわしい人を見つけてやりたい。できることなら故郷オーヴェルニュへ行って、彼女の結婚を見届けたいと思っている。しかるべき相手と姉が結婚するのを見届ける日こそが、俺の人生で最も幸せな日なんだよ」


「ああ、その話ですか」


 確かに聞いた覚えがあった。けれど、サヴァリは疑問に思う。姉の結婚の日が、自分の人生で最良の日? 自分の結婚式の日ではなく?

 26歳のサヴァリには理解しがたい感情だった。名誉や富を求めないのは、仕方がないと思う。この人は、そういう人だ。だが、こんなに大変な思いをしてドイツや、あの過酷なエジプトで戦ってきて、自分が幸せになりたいとは思わないのだろうか? 人として求めて当然の幸せを、欲しいと思わないのか。

 彼が、焼け付くほどに栄光を求めているのは知っている。ただ、身近に接していてサヴァリは、栄光の名の下に、上官ドゼが何かを隠しているような気がしてならない。

 それが何かは、全くわからなかったけれども。


「前にラップが思い出させただろう? 全く薄情な奴だな。すぐに忘れてしまうんだから。いいか。もし俺が戦争で死んだら、君は、俺の財産を二等分してほしい。一つは姉さんの為に、もう一つは、母さんの為のものだ。間違えるなよ? 姉さんと母さんに半分ずつだ。エジプトで俺は、確かにそう言った。俺は覚えているが、君は忘れてたろ?」


 そういうドゼは、内省的で、彼らしくもなく物思いにふけっているように見えた。

 まるで遺言のようなことを言うドゼが嫌だった。

 わざと乱暴に、サヴァリは答えた。


「大丈夫ですよ。貴方は死にませんから!」

「あまりにも長くエジプトにいたから、ヨーロッパの砲弾は、俺のことなど覚えていないかもしれん」


 マムルークの軍とオーストリア軍ではまるで違うと、ドゼは言いたいのだ。もし、ボナパルトの言うように、オーストリア軍がジェノヴァに向かった場合、ドゼの率いるブデ師団は、いきなり敵の主力軍と対戦することになる。軍を指揮する立場にありながら、近代戦の勘を忘れているのかもしれないと、上官ドゼは不安を感じているのだろう。けれどもそれは、杞憂というものだ。ライン(・モーゼル)軍時代の苦しい経験が齎した技量は、2年かそこらの不在で容易に消え失せるような代物ではない。


「オーストリア軍の砲弾には、貴方のことなど忘れて貰った方がいいのです。きっと、貴方を避けて通りますよ」

力強く、サヴァリは請け合った。


 出発の時間になった。


さようならオルヴォワール。またすぐにお会いしましょう」


ブデ師団の駐屯していたポンテクローネで宿泊用に屋敷を提供してくれたデュラッゾDurazzo侯爵に挨拶したドゼは、少し考えて付け加えた。


「この世かあの世かどちらかで」



 ドゼは、ブデ師団6千を率いて、スクリーヴィア河右岸(東岸)を南に上り、ノヴィ方面へ向かっていった。ただし、ドゼに配された2師団のうち、モニエ師団は、そのまま司令部ボゲーラに駐留した。


 ドゼのブデ師団と同時に、ボナパルトは、ラポワプ将軍の軍をポー河左岸に送った。ポー河を渡河して、敵を逃がさぬためだ。


 ボナパルトの軍は、大幅に縮小された。


 両軍が出発した日(6月13日)。

 ボナパルトは前衛部隊を送り、オーストリア軍を探させた。彼らが見つけたものは、ただ、オット軍オーストリア軍の残骸だけだった。やはりオーストリア軍は、ここにはいない。

 念のためボナパルトは、ローリストン大佐に、カステルチェリオロに架かる橋を焼くよう命じてから、ボゲーラの司令部に戻った。



 翌14日。

 折からの雨で、辺りは霧に覆われていた。


 「なに! 橋を焼かなかっただと?」

短い眠りから覚めたボナパルトは叫んだ。

「焼き切れなかったのです」

ローリストン大佐は必死で弁明した。


 部下ローリストンの言っていることは、ボナパルトには全く理解できなかった。


「だが俺は命じた。橋は破壊されているはずだ。従って、たとえ前方に敵の大軍がいたとしても、一気に攻め込まれることはない」

「カステルチェリオロには、たくさんの橋が架かっています。そのすべての橋を焼ききることは、時間的に不可能でした!」

 

 ポルミダ川に寸断されたカステルチェリオロの地形を理解せず、橋の数さえ確認せずに命令を下したボナパルトに非がある。

 いずれにしろ、もはや手遅れだった。


 オーストリアのメラス元帥は、退却など考えていなかった

 霧が晴れた。

 少数となったボナパルト軍は、オーストリアの主力軍と対峙していた。



 激しい戦闘が始まった。


 午前中の間に、フランス軍は、多くの死傷者を出した。

 前衛に出したランヌ、ヴィクトルの師団がやられ、ドゼが置いていったモニエ師団もひどい状態だった。今、ボナパルトの手元にいるのは、壊滅した部隊と、親衛隊だけだ。


 ボナパルトは、ドゼに、引き返してくるよう、急使を飛ばした。


 とはいえ、使者がドゼの元へ行きつく保証はない。ドゼ師団は昨日1日を行軍に費やしている。オーストリアは、1日も待ってくれないだろう。次の攻撃は1~2時間後とみて間違いない。たとえ使者がドゼの軍ブデ師団に行きついたとしても、彼が戻ってくる頃には、手遅れになっている可能性が高い。


 ……いいや。あの男は、自分で判断する。


 ドゼは、そう遠くへは行っていないと、なぜだか思った。午前中の大砲の音は、ドゼのところまで届いたはずだ。総司令官が危険にさらされていると気がついたら、彼は命令に逆らってでもボナパルトの元へ帰ってくるに違いない。


 だって彼は、ボナパルトがパリで会おうと伝令を出したにも関わらず、モンテベッロの司令部までやってきた。彼の船団が約束の日時に約束の場所に来なかったおかげで、ボナパルトの遠征軍はイギリス海軍の攻撃を受けることなく、無事にエジプトに上陸できた……。


 ドゼは、誇り高きライン軍の将軍は、ボナパルトからの使者を待ってなどいない。彼は否、すでにこちらへ向かっているかもしれない。


 ドゼに託した6千の兵。あれが、ボナパルトの命運を握っている。

 ……。






 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


※ドゼのブデ師団が向かったノヴィ方面と、ラポワプ将軍が向かったポー河について、地図をあげておきました

https://kakuyomu.jp/users/serimomo/news/16817330661180057364





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