第71話 ドゼの司令部到着


 ジェノヴァ陥落の報が届いた翌日(6月9日)


 敵の残党をストラデッラにおびき寄せようと、ボナパルトは、カステッジョ(南西に下った辺り)へランヌ軍を派遣した。アッコで負った怪我はとうの昔に癒え、ランヌは万全の状態だった。


 ランヌ軍はカステッジョの丘モンテベッロで、オーストリアの予備軍(オット軍)と出会った。白兵戦となり、ランヌ軍はかろうじてオット軍をヴォゲーラ方面へ追い払うことができた。しかし、ランヌ軍の人的損失は3000ともいわれ、甚大なものとなった。

 この後、モンテベッロでの勝利を、しかしランヌはなかなか司令部に報告できない。



 同じ日。

 静かに、ドゼはイタリアに到着した。地味な旅装姿だった。途中、山賊に襲われ、荷物を守ろうとした召使が殺されてしまった。戦場でなければ絶対に剣は出さない。だが使用人が襲われさすがに介入したのだが、間に合わなかった。賊に奪われた荷物の中には、軍服も入っていた。これ以降、ドゼは私服でイタリア戦を戦うことになる。


 上エジプトに遠征に出たドゼと、カイロからシリアに進軍したボナパルトは、遠く離れて活動していた。話すべきことはたくさんあった。ドゼからもボナパルトからも。


 「秋にはパリへ来るよう、俺は命じた。それなのになぜ、こんなに遅くなったのか」


口を開きかけたドゼを、なおも封じるようにボナパルトは続けた。


「2月下旬の日付の、アレクサンドリアからの手紙は受け取った。間もなく会えると書いてあった。それなのにトゥーロンに到着したと知らせて来たのは、5月に入ってからだ。3ヶ月もの間、いったい何をしていたのだ」

「トゥーロンからの手紙に書きました。シチリアでは投石に遭い、船は補給をさせてもらえませんでした。その後、せっかく故郷の島影を見たというのに、霧の中、突如現れたイギリス艦に捕まってしまったのです。そしてリヴォルノへ連れて行かれ、一ヶ月ほど拘留されました」

「それは無聊だったな」


 トゥーロンからの手紙で、ドゼは、「働かない日はないも同じ」と書き添えてきていた。落ち着きがないほど活動的な彼が、一ヶ月もの間、牢に閉じ込められていたら、さぞや辛かったろうと、ボナパルトは思った。

 ドゼが頷いた。


「全くです。元から私はイギリスが嫌いでしたが、今回の件で、大っ嫌いになりました」

「なるほど」

「その後、我々の船はチュニジア海賊に襲われ……」

「なんだと? また、捕まったのか?」


 ボナパルトは呆れた。まるで、海洋小説のようではないか。

 今回は、ドゼは晴れやかだった。


「シドニー・スミス卿が署名した通行証と違い、トルコの大宰相グラン・ビジエ発行の通行証は、絶大な効果を発揮しました。我々は海賊たちに熱烈歓迎され、釈放されたのです」

「……」


 もう何をか言わん、だ。


「ようやくトゥーロンに上陸し……その時の喜びがいかほどだったか! ……、すぐに貴方に手紙を書きました」

「それにしては、イタリアへ来るのが遅かったな。初戦は既に終わっているぞ。全てわが軍の勝利だったが」


 ミラノ、パヴィアをなんなく落とし、ボナパルトの軍は、ストラデッラまで駒を進めた。

 悪びれもせず、ドゼが答える。


「検疫を受けていたのです。愛する祖国に恐ろしいペストを持ち帰ったら大変ですから。30日ほど、トゥーロンに留め置かれました」

「……」


 再びボナパルトは口を噤んだ。コルシカ経由、フレジュス上陸という荒業を使って検疫をスキップ(*1)したことは、生涯、彼には教えられない。一方ドゼは、規則通り、検疫をきっちり受けたという。なんだか、いろいろ負けた気がする。やはりこの男には叶わない。

 ボナパルトは深いため息をついた。


 「君が署名したエル=アリシュ条約は無効になった。イギリスとトルコに、クレベールは騙されたのだよ。トルコは、フランスに対して戦いを挑んだのだ。だが、眠れる獅子クレベールは目覚めた」


 ドゼが出航してからすぐ、トルコは、フランス軍を襲う計画を立てた。帰国の為、船に荷物を積み、兵士たちが乗船しているところを襲うのだ。

 トルコにしてみれば、フランス軍の名誉ある撤退など許せるはずがなかった。ヤッファでの、ボナパルトによる残虐な捕虜殺害(*2)を、彼らは決して忘れていない。


 このトルコ側の計略を、シドニー・スミスがクレベールに伝えた。彼は、本国がエル=アリシュ条約を破棄したことに憤りを感じていた。


 フランス軍はすでに、首都カイロを出て、ロゼッタとアレクサンドリアに入っていた。シドニー・スミスの通告を受け、クレベールは即座に撤退を中止した。そして、ヘリオポリスにおいてトルコ軍を撃破、蜂起したカイロを鎮圧して入城し、再びエジプトを掌握した。(*3)


「たとえ10倍、20倍の敵であっても、フランス軍は勝てるのだ。クレベールはエジプトに留まる選択をすべきだった。それなのになぜ君は、講和条約を結んだりしたのか」


 そもそもの主眼だった。

 自分の後任にクレベールを指名するにあたり、ボナパルトは、よほどのことがない限り、エジプトを手放すことのないよう、命じた。しかしクレベールはあっさりとトルコと講和を結び、エジプトから撤退しようとした。しかも、彼の大使が、他ならぬドゼだったのだ。いうなれば、ドゼ自身、ボナパルトを裏切ったも同じだ。


 エジプトは、二人の夢ではなかったか。


 イタリアまで自分を訪ねて来たドゼに、ボナパルトはエジプト遠征の計画を語った。するとドゼは、自分もその偉大なる事業に参加したいと、目を輝かせたものだ。また、出航地のチビタ・ベッキアからトゥーロンのボナパルトの元へ、夢と希望に満ちた手紙を書き送って来た。(*4)


 そもそもエジプト遠征は、総裁政府と距離を起きたいが為の立案だった。ボナパルトにとって、イギリス牽制は後付けだ。

 違う大陸(インドでさえなかった)への遠征には、学者のモンジュや外務大臣のタレーラン、ボナパルトの参謀でさえ渋い顔をした。最初から手放しで賛成してくれたのは、ドゼただ一人だった。(*5)


 ドゼは目を伏せた。

「おっしゃる通りです。あなたがエジプトを離れた時点で、軍は、確かに十分な規模を保っていました。トルコの騎兵相手に負けるわけがない。現に軍の中には、撤退に反対する者もいました」


 講和条約に署名する直前、ダヴーがドゼに、自分だけではなく他に多くの将校らが撤退に反対していると伝えてきている。上エジプトのドゼ師団は言わずもがなだ。


「それならなぜ、君は、講和条約に署名したのだ!?」


 ボナパルトの怒りが炸裂した。が、ドゼは彼の激情に引きずられなかった。静謐を保ったままだ。


「軍における総司令官クレベールの権限を考えて下さい。軍議で決を取る際、彼の権限は、単純に一人分ではない。半分、3/4、5/6にさえ充当する。もはや多数決ではありません。総司令官の意志が全てなのです」


 それは、ボナパルトにも心当たりのあることだった。ブリュメール以降、彼はそうやって、軍だけではなく政府をも掌握してきた……。


「総司令官の独裁は阻止すべきです」


 ドゼが言い、ボナパルトはぎょっとした。この男をクーデターに参画させなくて良かったと、心から思った。エジプトに置き去りにしてきて正解だった。


 ボナパルトの心情を知ってか知らずか、あくまで落ち着き払ってドゼは続けた。


「軍がエジプトに残る為には、私が総司令官クレベールを追い出すしかないのですが、果たして成功するかどうかは疑問でした。なによりそれは、犯罪であったでしょう」


 再び、ボナパルトは息を飲んだ。勝手にエジプトを離れた自分を、クレベールは軍法会議にかけると息巻いていた。クーデターの際、逃げ出した議員の書類箱から、ボナパルトはクレベールの手紙を見つけた。それには、ボナパルトへの批判が激しい言葉で書き連ねられていた。

 なにより、クーデターを起こしたことは、犯罪そのものだといえる……それが、失敗した場合。






 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

*1 検疫をスキップ

ボナパルトの使ったズルは、58話「アブキール陸戦2」にございます



*2 ボナパルトによる残虐な捕虜殺害

53話「エル=アリシュ要塞、ヤッファ要塞、攻略」にございます




*3 トルコがフランス軍を襲う計画

ブログで解説しています。

「スミスを犠牲に」~

https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-217.html




*4 夢と希望に満ちた手紙

ドゼがチビタベッキアからボナパルトに宛てた手紙を、11話「出航」末尾*5に抜粋しています。

また、イタリアのボナパルトを訪ねた帰り、ドイツからドゼは、以下のような手紙をボナパルトに書き送っています


私があなたに加わり、あなたの有用で素晴らしいプロジェクトの実行に貢献することができる日は、なんて素晴らしい日になるでしょう!ここにいて私は、ゴルフGorfouの艦隊(エジプトへ向かうボナパルトの艦隊を、かつてオスマン・トルコ軍を破ったヨーロッパ軍の艦隊になぞらえている)を非常に興味深く思い返しています。 この艦隊が、あなたが瞑想している偉大な事業に向けられることがあれば、どうか私のことを忘れないでください。



*5 ドゼただ一人

11話「出港」、参照下さい




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