第72話 和解


 ドゼが何か言っている。

「総司令官が命じた場合、兵士は従うしかないからです。私はそうしました」


 それが、自分が、クレベールの大使として、エル=アリシュ条約に署名した理由だという。

 一気に言ってから、ドゼは深いため息をついた。


「エジプトを離れる際、貴方は、クレベールを連れていくべきだったのです。彼は有能な将軍です。クレベールは貴方の為に満足すべき働きをしたでしょう」


 ボナパルトは身を固くした。続けて、ドゼを置いて帰国してしまったことをなじられると思ったのだ。

 しかし、違った。


「そして、私にエジプトの総指揮を任せるべきだったのです。そうであったなら、私は貴方の為にエジプトを守り続けたでしょうし、貴方は撤退という言葉を聞くこともなかったでしょう」


 ドゼには、上エジプト統治で得た知見があった。現地の宗教的指導者シャリーフたちとの付き合いもある。

 彼は、住民による自治を考えていた。ミリを、自分たちの為に使うのだ。水路・陸路の整備、安心してどこへでも行ける環境、そして、定住。その為に、帯同してきた民間フランス人による、農業指導も視野に入れていた。


 ボナパルトがシリアで狼藉を尽くしてきた今、トルコはフランスの味方ではありえない。むしろ、エジプトが、フランスの庇護のもとにトルコの支配を離れるのに、好都合だったといえる。


 最初からそうあるべきだった。

 エジプトをマムルークの手から取り戻し、トルコ皇帝スルタンの手にお返しする……。

 上陸直後のボナパルトの訓示は、欺瞞と矛盾以外のなにものでもない。


 ドゼは、上エジプトは、マムルークのムラド・ベイに任せてきた。マムルークもまた、エジプトの住人だと言うのが、ドゼの言い分だ。(*1)


 もちろん、カイロには依然として、フランス占領軍への憎悪と反感が強いことも彼は理解していた。上陸当時と比べ、軍は、大幅に縮小してしまった。

 それに対する対策も、ドゼは考えていた。行き場のない少年たちによる軍、ラクダ部隊……。砲弾の代わりにフランス市民の科学者たちは、光と音に特化した新型兵器の開発も行っている。(*2)


 ドゼの話は、ボナパルトの耳を素通りしていった。エジプトの統治? それは、あまりに遠い話だった。

 自分が置き去りにしたことを、この男は怒っていないのか? それだけが、彼の気がかりだった。クレベールを連れて帰るべきだったと言い切ったドゼの真意を、ボナパルトは疑った。


 今、ジェノヴァは陥落し、マッセナ軍との合流は望めない。援軍は集まっているが、統制が取れているかというと、いまひとつ、心もとない。エジプトから連れて来たランヌは、カステッジョへ向かったまま、音沙汰がない。


 経験豊富な指揮官ドゼが必要だ。

 友情を再確認する必要がある。


 「もちろん君を連れて帰ることを考えた。俺には信頼できる部下が必要だった。祖国は危機に陥っていた。イギリスのシドニー・スミスが新聞を渡してきたのだ。アブキール陸戦の休戦協定の時に」


「スミス代将が!」

 ドゼは目を丸くした。

「彼は私にも新聞をくれました。彼の発行した通行証は、大宰相のそれと違って、無効でしたけど」


「アッコ占領を諦めたのは、あの男が原因だ」


 ボナパルトは唇を噛み締めた。

 エジプトからの補給艦を襲い、トルコ兵の味方をして、海から砲撃を繰り返しやがって。おまけに、現地人の反感を買うようなビラをばら蒔きやがった。


「シドニー・スミスと……フランスの亡命貴族フェリポー(*3)が」


 士官学校の同級生が、アッコの要塞を強化し、イギリス水兵を使って攻撃を仕掛けて来たのだと、ボナパルトは語った。


「亡命貴族の?」


 ドゼの目が光る。

 彼の親族もまた、王族について亡命し、革命政府軍と戦っていることを、ボナパルトは思い出した。彼の一族の戦える男の中で、国に残ったのは、ドゼただ一人だったと聞いた。

 ライン(・モーゼル)軍としてドゼが戦ってきた相手の中には、まさにこの亡命貴族軍も含まれていた。


 ボナパルトはフェリポーに対して、いい感情を持っていない。士官学校時代、二人はともに、王の奨学生だった。ボナパルトは学費を給付されたことが屈辱だったが、フェリポーは素直に王に感謝していた。彼の成績はいつも、ボナパルトのすぐ上だった。大らかで明るく、決して負かすことのできない相手だった。


 しかし、今、フェリポー亡命貴族を悪く言ったらダメだ。


「大きな戦闘が終わる度に、俺はフェリポーの遺骸を求めて戦場を彷徨った。フェリポーを、フランスへ連れて帰りたかったのだ。彼は優秀な士官だった。そして、誰にも負けないほど祖国を愛していた。不幸なことに、誤った陣営についてしまったわけだけれども。……同じ民族が敵味方に別れて戦うことは何と無益で、残酷なことか!」


「それで貴方は、クーデターを起こしたわけですね?」


 不意に出たクーデターという言葉に、ボナパルトはぎょっとした。軍の力を借り、政府を転覆させたことについて、清廉な男ドゼがどういう反応を見せるか、見当もつかなかったのだ。

 ドゼは真剣な眼差しでボナパルトを見守っている。濃い色の瞳がぎらぎらと光っていた。強い圧に圧されるように、ボナパルトは頷いた。


「ヴァンデの反乱や王党派のキブロン遠征はむごいものだった。また、列強諸国の気まぐれな援助に頼った亡命貴族軍のみじめなゲリラ戦は、悲惨の一言に尽きる」(*4)


 ドゼの身体が前へ傾いだ。物静かなこの男にしては珍しく、感情を押し殺しかねている。この路線で押して間違いはないと、ボナパルトは悟った。


今の戦いイタリア戦が終わったら、第一執政として俺は、亡命貴族への恩赦を出すつもりだ。武器を捨て投降するなら、元の地位を保証する。財産領土に関しても、残っているなら、そのすべてを、返却する」


「やはり私は間違っていなかった。モロー将軍の下を離れ、ボナパルト将軍、貴方の下にくだって正解でした。改めてここに、貴方への献身を誓います」


 彼はボナパルトの前に跪いた。

 初めて会った時もそうだが、今なぜドゼが、自分へ献身を誓ってくれるのか、ボナパルトには全く分からなかった。


 ドゼは再び、自分の手の内に戻ってきたのだろうか? 否、召喚してもカイロへ来なかった男だ。その上、自分には権限のないファユームのミリを勝手に取り立てた。口では何と言おうが、彼は、クレベールの言いなりになって、エジプト撤退を決めた。ボナパルトが保持せよと命じたエジプトを捨てた。そして今も、ボナパルトの指令を無視して、ここストラデッラまでやってきた。


 遠回しにクレベールを庇い、彼を連れて帰るべきだったなどと口走っているドゼは、ボナパルトにとって、不穏な存在だった。いずれ帰国すれば、クレベールは間違いなく、ボナパルトの脅威となる。国内には他にも、かつてのドゼの上官モロー、再びかつての上官モローの下へ繰り入れられたデルマ、それに一時は戦争大臣を務めたベルナドットなど、ボナパルトへの反抗勢力が根強くはびこっている。(*5)


 いずれも、ドゼにとっては、ライン方面軍の戦友たちだ。今の上官ボナパルトか、かつての仲間ライン方面軍の戦友たちか。どっちへ転んでもおかしくなかった。というか、ボナパルトの起こしたクーデターブリュメールのクーデターの真相を知れば知るほど、彼がモローに靡く可能性は高い。

 ドゼの真意がわからぬ以上、無条件で身近に置くことはできない。



 モンテベッロに出陣したランヌは、司令部に、なかなか勝利を知らせることができないでいた。彼からの知らせは途絶えたままだ。

 司令部の不安が募る中、第一執政ボナパルトは、エジプトから来たドゼと明け方まで話し込み、側近たちを苛立たせた。


 彼の連れて来た従者達も問題だった。副官の一人は病気で、その上ドゼは、黒い肌とコーヒー色の肌の二人の少年を同行してきたのだ。ドゼと離れ、言葉も通じない南国の少年たちは、諸将の目に、ひどく不快に映った。


 とはいえ、話し合いが終わる頃には、ドゼとボナパルトの間は、すっかり修復されたかのように見えた。


 ボナパルトはドゼにブデ師団とモニエ師団を与えた。ブデはオランダ遠征から帰ったばかりだったので、実質この軍は、ベルティエの管理していた予備軍だった。


 ドゼは、連れて来た5人の将校のうち、3人にモニエ師団を任せ、自分と、ラップ、サヴァリの副官2名がブデ師団を引き受けると言った。

 だが、ラップは病で、戦場に出れる状況ではない。


 すかさずボナパルトは、新しい自分の副官、ルブランとルフェーブルを補佐官として貸し与えた。(*6)


 ボナパルトとの和解にほっとしたのか。ドゼは足取りも軽く部屋から出て行った。


 夜がしらじらと明け始めていた。


 すかさずボナパルトは、ルブランとルフェーブルを呼んだ。早朝にたたき起こされ、二人はひどく眠そうだ。その副官たちに、ボナパルトは命じた。


「君達にはドゼ将軍の補佐官を務めてもらう。彼は、エジプトから帰ったばかりでお疲れだ。将軍がご無理をなさらないように、くれぐれも彼から目を離さないように」


 ドゼが無理をしないように、は修辞だ。彼らの任務は、ドゼの監視だ。

 二人は、即座に敬礼をした。


 この二人は、ボナパルトがエジプトから帰り、まだパリにいた時に副官になった若者達だ。一人はライン方面軍の出身、そしてもう一人は第三執政の息子だ。


 今のところ二人とも、申し分ない献身をボナパルトに捧げてくれている。しかしボナパルトにしてみれば、政府から押し付けられた副官だ。今一つ、信用できない。

 ドゼの監視は、二人にとってはいい試金石になるだろう。






 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


*1 上エジプトをムラド・ベイに

65話「パドヴァの聖アンソニーの恩寵の家」に。


なお、ムラド・ベイがフランス側についたのは、彼の妻の説得によるとする資料を読みました。彼の妻のナフィサは、カイロ経済界の実力者であり、フランス軍の、特に学者と懇意にしていました。その伝手で、夫ムラドにフランス側(クレベール側)につくよう説得したというものです。

今まで上エジプトでさんざんフランス軍(ドゼ師団)に叩かれてきたムラドがなぜフランス側についたか、私の考えをブログにまとめました。

https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-292.html




*2 光と音に特化した新型兵器

イギリスのシドニー・スミスにより、トルコ軍の襲撃計画を知らされたクレベールは、ヘリオポリスでトルコ軍を破りました。この後、蜂起した首都カイロを鎮圧し、再入城を果たします。カイロ入城の際(1800.4.14)、激しい雨と雷の嵐が住民を怯えさせましたが、これはフランスの科学者たちの発明による武器ではないかといわれています。




*3 フェリポー

「オリエント撤退」で主役を張ってます

https://kakuyomu.jp/works/16816927860779343494


ブログに解説がございます

https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-165.html




*4

・ヴァンデは、たびたびご紹介した、フランス南西部の農民と王党派の蜂起です。共和国の鎮圧軍として、クレベールも駆り出されています。

https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-275.html ~


・キブロン遠征は、イギリス海軍の援助の元、1795年、王党派がフランス西海岸のキブロン島に上陸、共和国軍(革命軍)との間に展開された戦闘です。イギリスに亡命中のアルトワ伯(後のシャルル10世)も王党派を鼓舞するために参戦するはずでしたが、結局姿を現さず、王党派軍の惨敗に終わりました。


・亡命貴族軍のみじめなゲリラ戦

亡命した貴族たちは、ブルボン家のコンデ大公の元、東の国境で、オーストリア軍やロシア軍に援助を頼み、共和国軍と戦っていました。フェリポーもこの中にいました。

亡命貴族は、着の身着のまま亡命してきたので、武器や食料までを、諸外国に恃んでいましたが、次第に援助が得られなくなっていきます。

彼らが直接戦っていたのは、ライン(・モーゼル)軍やサンブル=エ=ムーズ軍で、ドゼやクレベール、サン=シル、モロー、デルマ、ベルナドットと言った将校たちが指揮を執っていました。




*5 デルマ、ベルナドット

二人の師団は、97年、イタリア遠征中のボナパルトの軍へ援軍に出されました

1話「衝突」、参照ください




*6 ボナパルトがドゼに貸し与えた副官

・ルブラン General Anne Charles Lebrun

 3人いる執政のうちの一人Charles-François Lebrunの息子(ボナパルトが第一執政、第二執政はカンバセレス)。前の年の12月に少尉になり、すぐにボナパルトに副官に任命された。


・ルフェーブル=デスヌエッテCharles Lefebvre-Desnouettes

 革命戦争が始まると、北方軍、サンブル=エ=ムーズ軍、ライン・モーゼル軍に所属。年齢はドゼより5歳下だが、ライン・モーゼル軍時代は、ドゼと被る。97年、ボナパルトのイタリア軍へ。恐らくデルマ師団だったと思われる。


なお、ドゼがエジプトから連れて来た将校は5人でした。が、3人の副官、ラップ、サヴァリ、クレマンClémentの他は名前がわかりませんでした。ラップは病気でマレンゴには参戦しておらず、クレマンがどうしていたかは調べられませんでした。従って、ドゼの部下3名をモニエ師団に、というのは、私の推測です。

詳細はブログに(2023.8.25 公開予定)

https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-315.html

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