第2話 ドゼの来訪
イタリアでは、兵士達は好きな所に住むことを許されていた。ジャンは泉のある静かな森に家を借りていた。ある日、汗みずくで水を運んでいるアンリをみかけた。彼は一人だった。ジャンは彼に、自分の家で休んだらどうかと声を掛けた。疲れ果てていたのか、アンリは素直にジャンについてきた。
話してみると、ライン河流域から援軍に来た兵士らの生活は悲惨なものだった。特に食事がひどく、油を塗っただけの粗末なパン、或いは僅かな豆だけを食べ、肉はごく薄い脂身が数日に一度出されるきりだった。
「な。住民の家に盗みに入らなきゃ、やってられないだろ?」
ジャンが言うと、アンリは俯き、もう反論しなかった。
「さあ、食え」
にもかかわらず、ジャンの差し出す黄金色のパンをアンリは横目でにらんだ。
「盗んで来たのか?」
前と同じことを尋ねる。
「貰って来たんだ」
明らかな嘘とわかっているのに、今回アンリはひったくるようにしてそれを受け取った。がつがつとむさぼり始める。水も飲まずに、あっというまに全部平らげてしまった。
それから、アンリは頻繁にジャンの住居を訪れるようになった。どうやら御立派なことを口走っていたわりに、上官の厳しさに耐えかねることもあったらしい。
満足の吐息を漏らしたアンリは、満足の吐息を漏らした。
「そういや聞いたか? ドゼ将軍が来るんだと!」
「ドゼ将軍?」
そんな布告が流れた気がする。確か、ライン軍から来る将軍に、イタリア軍の凄さを思い知らせてやれ、とでもいうような……。
「ライン・モーゼル軍の英雄だ。知らないのか?」
「英雄ねえ」
要は人殺しの親玉だと、ジャンは思った。イタリア軍には「英雄」がたくさんいる……。
だが、アンリの話は少し違った。
「ドゼ将軍は、兵士の食べ残しを食べ、将校用のワインや白パンは病気や怪我をした兵士らに回しちまうんだ。乏しい食料を、地元の住民に分け与えることもある。元貴族だというのに、ちっとも奢ったところがない」
「貴族だったのか?」
ジャンは聞き咎めた。イタリア軍の英雄は、その大半が、手工業者や工場労働者などの平民だ。
「ボナパルトだって元貴族だろ」
遠慮容赦なくアンリが指摘する。
「まあ、そうだけど……」
「身分なんて、関係ない。軍におけるドゼ将軍の昇進は、彼の勇気によるものだ。それどころか逮捕されたことさえある。二度目に逮捕されそうになった時には、麾下の兵士たちが盾となって自分達の将軍ドゼ将軍を守ったものさ」
「そうなのか?」
「派遣議員に向かって銃を構え、ドゼ将軍を連れて行ったら、お前たちに風穴が空くと脅したそうだ」
ライン軍の結束の固さに、ジャンは驚いた。ボナパルトを拘束しに来る奴がいても、自分は知らんぷりをしているに違いない。
イタリア遠征では身を挺して総司令官ボナパルトを守ろうとした者もいた。けれどそれは、戦争という非日常の場での一時的な熱狂に過ぎないと、ジャンは思っている。熱狂……現状に不満を持った人々のそれが集まると、思いがけない結果を招きかねない。熱意が、制御不能になるのだ。
他人の為に、ましてや一時の熱狂で、自分の命を捨てるなんて、大馬鹿だ。
アンリの賞賛は続く。
「停戦になる前の最後の戦いで、ドゼ将軍は太腿を撃たれた。もちろん、撃った奴はその場で麾下の兵士らが捕まえた。怒り狂った兵隊たちがそいつの頭をかち割ろうとした時、彼が何と言ったか知ってるか?」
「傷めつけてから殺せ! か?」
自分が言いそうなことをあてずっぽうに答えると、アンリは勝ち誇ったようにジャンを見おろした。
「『殺すな! そいつは俺の捕虜だ!』」
うさんくさい、とジャンは思った。脚が死ぬほど痛いのに、人を、それも自分を撃った敵兵を庇うなんて。
「ドゼって将軍は、人間じゃねえな」
「誰が人間じゃないって?」
その時、ジャンの陋屋に入り込んできた男がいた。青色の袖の短いコートを着ている。ほぼつんつるてんだ。僅かに癖のある濃い色の髪を後ろで束ねているが、使っているのはリボンや紐ではなく藁だ。そして、両頬の引き攣れ。銃弾が貫通した痕だ。
「ドゼ将軍!」
アンリが飛び上がった。次の瞬間、仔犬のように、ドゼと呼んだ男の周りを跳ねまわり始めた。こんなアンリは始めて見た。
「イタリアへはいつ? 脚の傷は大丈夫ですか? いつまでこちらにいるんです?」
「まだ着いたばかりだよ。脚の傷はすっかり治った。イタリアには暫くいるつもりだよ」
律義にドゼは、ひとつずつ、アンリの質問に答えている。
「ライン軍から派遣された兵士だな。見覚えがある。君の名は?」
「アンリです」
頬を紅潮させ、アンリは姿勢を正した。両足の踵をぴしりと合わせ、敬礼する。
「顔を覚えていて頂いて光栄です! ベルナドット将軍には会われましたか? デルマ将軍*には?」
「うん、会った」
時間を見て、ライン河方面から援軍に来た兵士達を訪ねているのだとドゼは言った。
「へえ。御大層なことで」
思わずジャンはつぶやいた。ライン・モーゼル軍の指揮官は暇なのか。
ドゼは、気を悪くしたふうもなかった。きっと聞こえなかったのだろう。戦場で大砲の発射音を聞き続けていると、耳が悪くなるものだ。
気楽そうに続ける。
「それから、イタリアの戦場も見て回っているよ」
「敵情視察ですか? 何かわかりましたか?」
ジャンの皮肉に、さすがにドゼは首を傾げた。
「君は元からボナパルト将軍の下にいたのだな。我々は、同じフランス軍の兵士じゃないか」
「俺達は顔を見合わせれば争いになる。イタリア軍とライン河から来たやつらは」
「仲良くしなくちゃダメじゃないか」
ドゼは、ジャンとアンリも争ってばかりいると思ったようだ。にっこりと笑う。血色の悪い顔に、白い丈夫そうな歯が覗いた。顔色が悪く見えるが、それはきっと生まれつきなのだろうとジャンは思った。
「イタリアの戦場は、沼や川に挟まれた随分狭い地形だった。これでは縦隊で小競り合いをするのがせいぜいだ。陣形を組んで戦うことはできなかったろう」
小競り合い? ジャンはむっとした。ロディは、カスティリオーネは、リヴォリの勝利はなんだったというのか。我知らず、怒りが口から零れた。
「ライン・モーゼル軍の勝利は常に限定的で、最終的な勝利を掴んだことはありませんでしたものね」
「ジャン! なんてこと言うんだ! オーストリア軍は押されていたんだ。イタリアでの勝利が伝わるのがあと半日遅ければ、ドイツでの勝利は確定したんだぞ!」
アンリが悲鳴のような声を上げた。
「その時すでに貴方は……ドゼ将軍は、太腿を撃たれて戦場離脱していたわけですけどね」
つるり口から出てしまい、ジャンは焦った。だが、その時の活躍と怪我のお陰で、国内におけるドゼの人気が急上昇したのは事実だ。
「このっ!」
殴りかかろうとするアンリを、ドゼが諫めた。
「いいんだ。その通りだよ。イタリア軍の君、君の名は?」
「ジャンです」
固い口調でジャンは名乗った。ドゼの目が細くなる。しかし穏やかな光は変わらなかった。
「ジャン、君はなかなか賢い。過去の戦争を研究することは大切なことだ」
「俺は戦争が嫌いです」
「そうか」
とだけ言い、ドゼはアンリに向き直った。アンリはまだむくれている。
「どうだ、アンリ。ライン河畔からイタリアへやってきて、生活に不満はないか?」
話をそらされたとジャンは感じた。この男は、自分を隠している。
ジャンを横目でにらみ、アンリが椅子を持ってきた。一番いい椅子だ。
律義に礼を言ってドゼは椅子に腰を下ろした。僅かに足をかばっている。もしかしたら、太腿の傷は完治していないのかもしれない。
「不満ばかりですよ、イタリアでの生活は」
自分も座りながら、アンリはそんなことを言う。俄かにドゼの顔が曇った。
「なぜ? 給料が支払われていないのか?」
「いいえ。けれど、支払われないこともあります」
「貰える時もあるのか。なら、ライン河にいた時よりましじゃないか」
ジャンは呆れた。ライン河流域に駐屯してた兵士らは、金も貰わずに奉仕していたというのか。報酬もなしで、人殺しをしてきたのか。
「食べる物はろくにないし、気候も肌に合わない。僕は、ライン河畔を出てきたことを後悔していますよ。あそこには、ベーコン、ジャガイモ、あらゆる種類の野菜があって、住民たちが分けてくれたというのに」
なんと、ドイツの住民たちは、敵の軍隊に食料を融通してくれたという。イタリア駐屯軍の兵士らと住民達は、互いに睨み合っているというのに。
「俺の師団では、兵士の半分が病気です。なのに病気になっても、トウモロコシの粥くらいしか、食べる物がないんです」
「気の毒な兵士達!」
ドゼがつぶやいた。
彼は、ボナパルト総司令官を始め、イタリア軍の将校達が、優雅で豊かな生活をしていることを知っているようだった。
もっとも、その件について、ジャンには不満はない。上官達も、兵士らと同じことをしているだけだから。即ち、略奪だ。それをしようとしないライン河畔から来た兵士らが、困窮しているだけだ。
高潔で略奪を許さないライン軍将校ドゼは、ボナパルト含めイタリア軍将校達の横暴を諫めるだろうか。
……それはないな。
みすぼらしい身なりをちらりとみて、ジャンは考えた。髪を藁で束ねているような男に、イタリアの勝者ボナパルトを諫める力など、あるわけがない。
「だが、アンリ。君は顔色もよく、元気そうだ」
「ジャンのおかげです」不承不承、アンリは答えた。「彼が、パンや肉を分けてくれるから」
……その食料は強奪してきたのか?
ドゼの質問を予想し、ジャンは身を固くした。
だが傷のある頬に微笑みを湛えながら、ドゼはジャンを見つめただけだった。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
*1 デルマ将軍
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