第3話 ライン軍の勇者



 1796年、オーストリアとの戦いにおける戦争大臣カルノーの計画は、挟み撃ち作戦だった。ドイツからライン河方面に駐屯する軍が東進し、南からはイタリア軍が北上、ウィーンを陥落させるというものだ。


 オーストリアはライン方面軍を警戒し、兵力を集中させた。ドイツでは苦戦が続いた。一方、手薄になったイタリアを、ボナパルトのイタリア軍が快進撃していった。そして、ドイツからやってくる軍を待たず、単独でオーストリアと和平を結んだ。(*1)



 97年、講和が成り立ってすぐの夏、ライン軍からドゼ将軍がイタリアへ来ることになった。


 ボナパルトのイタリア軍に比べ、ライン軍は歴史のある軍だ。そのライン軍に、ドゼは革命戦争の最初から属していた。昇進も、ボナパルトより遥かに早い。(*2)


 ボナパルトと同じく、ドゼもまた、元貴族だ。96年のオーストリア戦では、連絡が途絶え死んだと思われていたが、ぼろぼろになった軍を率いて黒い森シュアヴァルツヴァルトの死闘から生還した。すぐにライン河の対岸へ出撃、自身は太腿に重傷を負ったが、軍は再び東進を始めた。


 これにより、彼は国中の人気を集めた。その熱狂は、勝利に湧くイタリアまで届いた。


 ドゼは、ライン軍の誇りのような将軍だ。いつも、軍の先頭で戦っているという。両頬を銃弾が貫通しても戦場に残ったというエピソードは有名だ。兵士らの信頼は厚く、総司令官のモローでさえ、彼のサジェストがなければ進攻も撤退もできない。


 そのドゼが、イタリア軍を訪ねて来ると知り、ボナパルトは軽い恐慌に襲われた。是が非でも、イタリア軍の地位の高さを認めさせ、さらにボナパルト自身、ドゼより格上であることを認めさせなければならない。


 ボナパルトには自信がなかった。彼には、故郷コルシカに肩入れし、フランスと敵対しようとした過去や、ロベスピエールの弟の援助を受けていた時期がある。兵士たちからの人望はドゼに負けない自信があるが、しょせんは、報償や、略奪による豊かな生活の保証に負っているにすぎない。今の地位から転がり落ちたら……即ち、戦争に負けたら、転落する一方だろう。悪くすると、殺されてしまう可能性もある。ボナパルトには敵が多い。


 密かに義弟(*3)に探らせたところ、ドゼの人望は本物だった。麾下の兵士はおろか、敵地ドイツの住民すら彼に協力し、怪我をしたドゼをオーストリアの元帥が見舞いにきたことすらあったという。戦友も多く、この点において、ライン軍将校の結びつきは非常に堅固だった。低い身分から取り立てた者ばかりを身近に侍らせている自分とは、何もかもあまりに違い過ぎる。


 緊張し、ドゼとの会見に臨んだボナパルトは、しかし拍子抜けした。


 頑丈そうな黒っぽい髪を背中で無造作に束ね(しかもそれは、藁だった)、青いつんつるてんの外套を着た彼は、ボナパルトの顔を見て、嬉しそうに微笑んだ。


「ようやくお会いできました。貴方に会いたくて、モロー将軍に頼んで、イタリア行きの用事を作ってもらったのです」


 血色の悪い頬には、銃弾が貫通したという傷があった。


「イタリアは良い所だ。気候は穏やかで食い物は新鮮でうまい。俺には妻がいるが、女もきれいだぞ。仕事なぞなくとも、いつでも来ればいい」


 ドゼは独身だと聞いていたが、彼は女の話に喰いついてこなかった。それで、妻のジョゼフィーヌを紹介してもよかろうと、ボナパルトは考えた。ドゼの人気が気がかりだったのだ。パリの女性たちは彼に夢中だという。

 だが、いくら勇敢であろうと、このような冴えない将軍に妻を盗られる気遣いはない。


「私は貧乏ですから」


 なんと、栄光あるライン軍の将軍、民衆ばかりか政府ですら賞賛する身でありながら、ドゼには金がないという。ボナパルトは唖然とした。豊かなドイツを転戦しながら、この男は、何も懐に入れなかったというのか。


 ライン軍の規律が厳しいというのは、聞き及んでいた。略奪は一切許さないという。けれどまさか、兵士らを束ねる指揮官までが、袖の下の一つも要求しないなんて。


「イタリア軍は豊かですね。馬も兵器も行き渡っているようだ」

「ライン方面からは援軍を貰った」


 鷹揚にドゼは頷いただけだった。


 しかし、ボナパルトは知っている。ミラノへ降り立ったドゼには、密かに尾行をつけていた。密偵は、ドゼがライン軍から来た兵士らに会いに行き、彼らはドゼに、イタリアでの待遇の悪さをこぼしたという。


「君は、イタリアでは何をしている?」

「戦場を見て回っています。貴方が栄光を築いた戦争の跡地を」


 そう言われると、悪い気がしない。


「仕事ばかりではつまらなかろう。イタリアには珍しい物や建造物がたくさんある。ローマの遺跡は素晴らしいぞ」

「モロー将軍(*4)から頂いた路銀では、ローマは遠すぎますね。ですが、北イタリア(ロンバルディア)のあちこちは見て歩きたいと思っています」

「誰か案内をつけようか?」


 頭の中に副官達の顔を思い浮かべながらボナパルトは言った。副官達はみな、ボナパルト自身が取り立てた信用できる若者ばかりだ。実際アルコレで命がけで彼を庇った者もおり(*5)、他の者もボナパルトの為なら、死をも厭わないだろう。


 ボナパルトの申し出に、ドゼはひどく恐縮した素振りを見せた。


「そこまでお手間頂くわけには……。私には幸い、イタリアに知り合いがおります」

「知り合い?」


 中央政府からの派遣委員クラークだろうか。イタリアへ来る前、彼はライン軍にいた。自分の身辺を探る役目のクラークをドゼに近づけるのは危険だ。


「ラレー医師です。イタリア軍へ来る前、彼はライン軍にいたのです。ラレーには随分、世話になりました。この傷も、彼に縫ってもらったのです」


 そう言って臆面もなく頬の傷を指さした。


「なるほど」


 ラレーなら心配はなかろう。しかし二人には尾行をつけねばなるまいと、ボナパルトは思った。







________________


*1 講和

レオーベンの和約。後にカンポ・フォルミオ条約で承認された



*2 昇進もボナパルトより早い

https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-262.html



*3 義弟

妹ポーリーヌの夫ルクレール

https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-305.html ~



*4 モロー将軍

ライン(・モーゼル)軍の総司令官。ドゼの直属の上官

https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-101.html



*5 アルコレでボナパルトを庇った副官

スルコウスキー

https://note.com/serimomo/n/n97cb02430ab7


ミュイロン

https://note.com/serimomo/n/nd39696a55f45








  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る