2.エジプト、デルタ地帯

砂漠の行軍

第13話 赤茶けた水を買う


 アレクサンドリアを陥落させたボナパルトの次の目標は、エジプトの首都カイロだ。

 カイロへは、2つのルートが考えられた。

 ダミエッタへ回って、ナイル河の右側の支流沿いに行くか、それとも、このままアレクサンドリアから遡るか。

 前者は、オアシスが点在するルートで、後者は砂漠の行軍となる。

 ボナパルトが選んだのは、砂漠ルートだった。理由は、ダミエッタ経由の場合は、軍はカイロに入る手前で川を渡らなくてはならないから。また、ダミエッタまで行くのは、時間がかかりすぎる。


 ボナパルトは時間短縮と効率を優先させた。何よりも……兵士たちの命よりも。





 砂漠で露営ビバークしているドゼの元へ、麾下の将軍、ベリアルがやってきた。


 ベリアルは、イタリア遠征の初期からボナパルトの下にいた将軍だ。ローマのチビタベッキア港を占領した縁で、エジプトへの遠征はドゼの下に組み込まれた。

 いわば、お互い、腹の読めない相手、ということになる。特に、元からイタリアにいた将校には、ドゼに対する風当たりが強い。


「君の言いたいことはわかっている」

ベリアルの顔を見るなり、ドゼは言った。

「食料がない! 靴もない! 兵士達は死にかけている。おお、かわいそうな兵士達! でも、俺だって何もしなかったわけじゃない」

手に持った紙片を振った。

「これは、俺が総司令官殿ボナパルト将軍に書く、3通目の手紙だ。先の2通には、返事が来なかった」


 アレクサンドリアの郊外に野営していたドゼ師団は、前衛を務めていた。次に、レイニエ師団が続く。いずれも、元ライン・モーゼル軍の司令官だ。ボナパルトの遠征にレイニエを誘ったのは、ドゼだという。二人は、同じ軍で戦ってきた戦友だ。


 上陸の遅れたドゼ師団は、大砲を全部上陸させることができぬままの出発だった。ドゼはボナパルトに大砲の追加を送ってくれるよう何度も頼んだが、大砲は来なかった。ただ、上陸の際ボナパルトが読んだ兵士達への訓示のコピーが送られてきただけだ。それには、現地の文化・宗教を尊重せよと書かれていた。

 そういえばドゼは、遅れて上陸して、ボナパルトの訓告を聞けなかったことを残念に思い、コピーを送ってくれと頼んでいた。


 行けども行けども、砂の海。焼けた砂は兵士たちの足を焼き、靴はすぐにボロボロになった。それなのにボナパルトからは、靴はおろか、食料、水、飼い葉、馬、ありとあらゆる補給が来ない。ドゼが最初に要求した追加の大砲も、とうとう、届かずじまいだった。


 ドゼは、指揮官に与えられた馬車を、わずかな大砲を運ぶ為に譲った。兵士たちと一緒に、歩いて砂漠を移動する。


 地図は、正確ではなかった。町だと思ったところには泥づくりの家が数軒しかなく、おまけに、逃げ出した住民たちの手で、井戸は埋められていた。兵士たちは、つるはしや銃剣を使って土を掘って、湧き出る黒っぽい水を、争って飲んだ。

 汚い水を奪い合い、殺し合う者達さえいた。


 「その水には毒が入っているぞ!」

 叫んだ兵士がいた。

「嘘だ!」

「嘘なもんか。ほら、さっきその水を飲んでこいつは死んだ」

 足元の死骸を指さす。殺到する戦友に圧されて圧死した兵士だ。

 

 争っていた兵士らはためらい、立ち去っていった。

 件の兵士はにやりと笑った。

 跪き、彼は瓦礫の間からわずかに染み出た水を飲んだ。



 「水。水は要らんかね」

軍の渇きを見越したように、少数民族の民が水を売りに来た。

 ベリアルが覗き込むと、赤茶けた水だった。


「買おう」

ドゼが言う。

「買うんですか?」

ベリアルは呆れた。到底、飲めそうにない。

「物を贖うのに、対価を支払うのは常識だからな」

平然とドゼは答えた。


 その時、歩哨が発砲した。

「アラブ人の襲撃だ!」

疲れ果てていた全員が立ち上がり、軍はパニックになった。


 最も怯えたのは馬たちだった。馬は散り散りになり、砂漠に逃げていった。ドゼ師団の砲兵馬は20頭ほどになってしまった。

 すでに師団長ドゼは徒歩で移動している。ここへきて、先遣隊の騎兵たちさえも馬から下りて歩く羽目になった。


 昼は暑さで動けないので、行軍は夜に行われた。絶望的な暑さと喉の渇きの中、先も見えず、軍は砂漠を進んでいった。



 4日目の夜。遠くから明かりが見えた。


「なんだ、あれは」

ドゼが目を眇める。


 松明の明かりだった。地元のムフティ(宗教的指導者)率いる視察団だった。彼らは、軍に、松明、パン、ハチミツ、チーズなどを持ってきてくれた。

「寝るところを提供しよう」

 ムフティが申し出た。

 ところがドゼは首を横に振った。

「私たちはイスラム教徒ではありません。貴方がたの家を汚してしまう」

 とにもかくにも、兵士達には、マットレスがあてがわれた。


 地元の人の姿が見えなくなると、ドゼは、モスクの扉を壊し、そこを寝所とした。

「ちょっと。神聖な場所にそれは、まずいんじゃ……」

ベリアルが言うと、ドゼは肩を竦めた。

「神聖な場所だからこそさ。敵はどこにいるかわからない。住民たちはここを、異教徒の血で汚したくはなかろう」


 先ほどドゼが言った、住民の家を汚すとは、そういう意味だったのかと、初めてベリアルには合点がいった。確かに、神聖なモスクを異教徒の血で汚すくらいなら、敵は、今宵の攻撃を諦めるだろう。


 上陸してすぐ、ボナパルトは、地元宗教の尊重を謳った。ドゼは、モスクの扉を壊し、それは、イスラム教への敬意だという。


 この男ドゼは、物事の本質を、建前で隠す名人なのだな、と、ベリアルは思った。



 夜が、白々と明け始めた。かすかな光が辺りを照らし、懐かしい緑の葉影が見えた。木が見え、村が見え、ここはもう、砂漠ではない。

 ダマンフールの町に着いたのだ。


 少し遅れて、レイニエ師団も到着した。そして、後続の師団(*1)と、ボナパルトの親衛隊も。


 最前衛のドゼ師団が4日間かけて行軍した工程を、ボナパルトは一晩で駆け抜けてきた。ただし、こちらは馬だ。しかも、前衛が通過した行程だ。危険はないとわかっている。



「これはこれは。お強い異国の将軍様」

馬から下りた黒い肌の将校の前に、地元の人々が集まってきた。


「……?」


 囲まれて、共和国の三色の羽飾りをつけた帽子を被った将軍デュマ(*1)はきょとんとしている。サン=ドマングで生まれ、フランス本国で教育を受けたデュマには、エジプトの言葉はわからない。


「そのご立派な佇まい、堂々とした騎馬姿。貴方様こそ、総司令官殿に間違いございません」


 言葉がわからないながらも、自分に敬意を捧げられたことだけは、デュマにもわかったらしい。


「いや、違うよ。俺は……」


「皆の者。何をしておる。総司令官殿はこちらだ」

 宗教的指導者ムフティの声がした。彼の傍らには、痩せて顔色の悪い、貧相な男が佇んでいる。ボナパルトだ、彼は、デュマを睨んでいた。

「この方が、フランスの総司令官殿だ」


 ボナパルトが到着した時には、ドゼはすっかり、地元有力者と打ち解けていた。フランス軍の総司令官が肌の色の黒い偉丈夫デュマではなく、ボナパルトだとムフティに教えたのは、ドゼだった。


 すかさずボナパルトは、小奇麗な家に招かれた。建物の中は涼しく、地獄の暑さが嘘のようだ。


 歓迎の宴が催された。

 はちみつやパン、酒など、珍しい食べ物がぎっしりと並んでいる。特に水気たっぷりのスイカは、兵士たちに歓迎された。


 久しぶりの御馳走を楽しみながら、しかしボナパルトは湧き上がる畏怖を抑えきれなかった。言葉もわからぬ異国の酋長をも味方につけたドゼに対する恐れだ。








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*1 後続の師団

ボン師団、ヴィアル(アレッサンドリアで怪我をしたムヌー将軍の代理)師団。

デュギュア(デュギュアは、ムヌーと同じくアレクサンドリアで怪我をしたクレベールの代理)師団は、ペレ提督の15隻の船団フロティーユとともにロゼッタを攻略後、でナイルを遡っており、この後、ラルマニアで合流します



※アレクサンドリア近辺の地図です

https://kakuyomu.jp/users/serimomo/news/16817330658883138638





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