第5話 エジプト?
イタリアの支配者として暮らし始めたボナパルトに、パリの総裁政府は、次の任務を打診してきた。ブリテン島侵攻だ。オーストリアを打倒した今、目下の目触りは、古くからの馴染みの敵、イギリスだった。
だが、七年戦争の昔から、フランス海軍はイギリス海軍に対し劣勢にある。その上、革命で海軍将校の多くが国外へ亡命し、かつ、国庫が空の状態では、新しい船の建造もままならない。
ボナパルトは、イギリスとの海戦は避けたかった。本土襲撃など、もってのほかだ。
苦し紛れに提案したのが、エジプト侵攻だ。2年ほど前に、在エジプトのフランス領事から、インドへの進出の足掛かりとしてエジプトを利用する案が出ていた。航海から荷揚げしてナイルを下り、地中海へ出るというルートだ。イギリスもまた、一部、このルートを利用していた。
イタリアにいたボナパルトにとって、エジプトは、地中海を挟んで対岸にあった。それで、イギリス本土決戦よりも、エジプト侵攻を推したのだ。
ところがこれにタレイラン(*1)が興味を示した。外務大臣にまでのし上がった彼のバックには、地中海、特にレヴァントの輸入業者や、マルセイユの商人が控えていた。
もう、後には引けない気がする。
タレイランからの返信を受け、ボナパルトは軍議を開いた。
「エジプトですと?」
素っ頓狂な声を上げたのは、参謀のベルティエ(*2)だ。
「そうだ」
ボナパルトは頷いた。
「ヨーロッパとは違う大陸に出向くというのですか? 我々が? イタリアの覇者、長く続いた革命戦争を勝利に導いた勇者が、ですか?」
「勇者」より、「我々」の方に力が籠っていた。ベルティエには、イタリアに愛人がいる。彼は彼女を女神のごとく崇めていた。
「ヨーロッパは俺には狭すぎるからな」
傲岸にボナパルトは胸をそらせた。精一杯の虚勢だった。
「しかし、エジプトとはちと、遠すぎはしませんか?」
渋い顔で学者のモンジュ(*3)が腕を組む。彼は、ボナパルトの古くからの知り合いだった。軍が地元イタリアから接収した美術品を査定、パリへ送る仕事をしている。
「何をおっしゃる、先生。貴方も一緒にくるんですよ」
すかさずボナパルトは言い放った。
学者や技術者を伴う案は、一部の議員から出された。エジプトへの進軍は、まごうことなき侵略だ。その負のイメージを、啓蒙的な知のイメージを利用して払拭しようというのだ。
モンジュの顔が青ざめた。
「しかし私も50歳を越えました。今更海を越えるなどと……妻が何と言いますやら」
ただ己の頭脳でのみのし上がってきた学者は、貴族出身の妻に頭が上がらなかった。
集まった者達がざわめき始めた。ここにいるのは、ボナパルトの子飼いの部下たち、靴もろくになく、ぼろきれのような衣服で共にイタリア戦を戦い、ボナパルトにより今の地位を与えられた将校ばかりだ。
その彼らでさえ、見知らぬ大陸への遠征に難色を示している。
実はボナパルトには、懸念があった。
総裁バラスが、しきりとクーデターを唆してくる。政府には今、王党派がはびこっていた。彼らを一網打尽にせよ、というのだ。
このまま勝者としてイタリアに君臨し続けることは困難だ。バラスに就くかタレーランに就くか。
ボナパルトは二番手はまっぴらだった。パリで困窮していた彼を取り立ててくれたバラスには、頭が上がらない(*4)。ならば、エジプトへ行くしかないというのに。
当初、バラスが己の剣として選んだのは、オッシュ(*5)だった。馬丁の息子から戦争大臣までのし上がった彼は、政敵からほんの些細な瑕疵を衝かれ、失脚した。バラスは彼を庇おうとしなかった。
だめだ。バラスは信頼できない。そして、ドーヴァー海峡での海戦には勝ち目がない。部下の賛同が得られなければ、ボナパルトは絶体絶命だった。
「素晴らしい。偉大な評価は、東洋でのみ築かれる、というわけですね」
その時、部下たちの不満を破り、深みのある温かい声が響き渡った。
「貴方は、現代のアレキサンダー大王になるのです」
聞き慣れないオーヴェルニュなまりは、ドゼだった。半月ほど前、イタリアへやってきたライン軍の将軍だ。
その彼を、ボナパルトは軍議に招いていた。エジプト遠征はまだ本決まりではない。わざわざ友軍の将軍に隠す必要は感じなかった。
「その通りだ」
ボナパルトは頷いた。百万の敵陣で頼もしい援軍を得た気分だ。
マントヴァの戦場へ向かったドゼに付けた密偵は、彼がひどい部屋を宛がわれ、そのあまりのみすぼらしさに思わず介入してしまったと報告してきた。なにしろドゼは、ラインの勇者だ。その勇者を粗末な部屋に宿泊させるなぞ、イタリア軍が無礼を働いたよう気分になったのだという。
おかげでドゼは極上の部屋に移されたが、ボナパルトが尾行をつけたことが露見してしまった。
けれど、ドゼはボナパルトに対し、何の抗議もしなかった。嬉しそうに、また、少し気恥ずかしそうにして、豪華な部屋を享受したという。
他にも似たような報告があり、ボナパルトはドゼが素朴な性格を持つことを受け容れる気になった。この男に野心はない。富や地位などには、全く執着していない。
ライン方面軍での評判は、間違いのない事実に思われた。
この男が欲しい、とボナパルトは思った。野心のない男の有用性、もっといえば、身近に彼がいることの心強さは、いかばかりだろう。
イタリア軍には、野心のない部下などいない。騎兵も砲兵も、歩兵でさえも、ぎらぎらとした目で富を追い求めていた。豊かさへの飽くことなき焦燥感が、イタリア戦を勝利に誘ったといえなくもない。
ボナパルトはドゼを見つめ返した。この男の意を迎えたいと思った。
「エジプトからトルコを通れば、ウィーンへ到達できる。オーストリアの背後を脅かすことができるぞ」
「なるほど!」
ドゼが膝を打った。目を輝かせている。
「遠征軍が東から迫り、西からはライン軍が東進してくる。ウィーンを挟み撃ちにするわけですね!」
「エジプトには豊富な農産物がある。地中海における位置の重要性は言わずもがなだ。エジプトを拠点に、フランスがイギリスを牽制する。これこそが、ヨーロッパに恒久的な和平を齎すのだ」
全てタレイランの受け売りだ。
「なんて有用なプロジェクトなんだ! 是非とも加わりたいです。貴方のその偉大な事業が動き出す時には、どうか忘れずに、私を誘ってください」
唖然とする人々の中で、ドゼの熱気は明らかに異質なものだった。
けれど、自分より1歳年上で、軍での経験も昇進速度も遥かに格上の将校から熱いまなざしを向けられ、ボナパルトの胸を安堵が満たしていった。エジプト遠征は間違っていない……初めてそれを、確信できた。
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*1 タレイラン
https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-92.html
*2 ベルティエ
https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-8.html
*3 モンジュ
https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-281.html
*4 パリで困窮していた頃、取り立てた
ヴァンデミエールの蜂起鎮圧の際、バラスはボナパルトを副官に指名します
https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-157.html
*オッシュ
https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-140.html
現在、サンブル=エ=ムーズ軍の総司令官。
なお、直接彼を攻撃したのが、かつてライン軍総司令官として彼と共に戦う立場にありながら馬の合わなかったピシュグリュ(現在、下院である五百人会議長)。
https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-235.html
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