第54話 アッコ包囲


 アッコの要塞は、古くはプトレマイオスと呼ばれた、古い要塞だ。


 十字軍の時代に、聖ヨハネ騎士団に占領され、サンジャン・ダクルSaint-Jean-d'AcreアッコAcreの聖ヨハネ)と呼ばれるようになった。

 その後、聖都エルサレムがサラセン中欧のイスラム教徒の手に落ちた際、ヨハネ騎士団はこの砦に立て籠り、さらに1世紀の間もちこたえた歴史を持つ。


 今ではトルコの牙城だ。(*1)


 アッコの要塞は、海に面した崖の上にある。砦は強い赤身のかった黄色をした石灰岩の外壁でぐるっと四角く囲まれており、うち二辺は海に面している。残り二辺は、東北の角で交わっているが、そこには、「呪いの塔」と言われる古い塔が聳え立っている。この塔は、ユダがキリストを売った銀貨30枚で贖ったと言い伝えられる。


 陸側の外壁には、「呪いの塔」の他にも、小さな塔が埋め込まれるように等間隔で建ち、侵入者を監視している。


 つまり、陸路を行軍すれば、必ずこれら塔の上から狙撃される仕組みになっている。かといって、少しでも海へ寄れば、停泊しているイギリス艦隊が砲撃してくる。


 難攻不落に見える黄色い壁に向けて、フランス軍は、密かに塹壕を掘り進めていった。

 アッコの要塞は古い要塞だ。周囲には、長年の堆積物が層をなしている。それらが目隠しとなり、フランス軍の進軍は、トルコ側に見つかることはなかった。


 3月20日、ついに戦闘が始まった。


 ところが、すぐに崩れそうに見えた古い外壁がなかなか壊れない。この部分の外壁は、「呪いの塔」はじめ、等間隔に並ぶ小さな塔によって、厚く守られている。

 その上、海からは、シドニー・スミスのティグル号と彼の友人ミラー大尉のテセウス号がひっきりなしに砲撃してくる。(*2)


 海からの砲撃を避け、掘ったばかりの塹壕の中を、梯子が運ばれてきた。ところが、外壁の下に溝があることを、ボナパルトは見落としていた。運ばれてきた梯子は、外壁の上まで届かない。


 何人かの兵士が梯子の上まで登り、外壁のてっぺんに手をかけて体を持ち上げ、なんとか壁を乗り越えようと試みた。それを、塔の上から、トルコ兵が狙撃する。梯子を上っていった兵士らは、次々と撃ち落されていった。


 にもかかわらず、別の兵士が上っていく。

 止めたくても止められないのだ。下では彼らの上官が外壁を上るように命令している。

 外壁の下の溝は、あっという間に、フランス兵の死体で埋まった。



 「ほら、次、お前行け!」


 司令官が藁色の髪の少年兵に命じた。体の軽い子どもなら、梯子のてっぺんから、外壁の上へ飛び移れるかもしれない。

 言い終わらないうちに、上の方から、血まみれの兵士の身体が落ちて来た。塔からの狙撃で顔半分が吹っ飛んでいる。

 さすがに少年はためらった。


「ひるむな。行け!」

 指揮官が命じる。

 塔の上からトルコ兵が撃った銃が、足元の地面に穴を空けた。細かい砂が飛び散る。反射的に後じさり、殆どやけっぱちのように指揮官は叫んだ。

「行け! 栄光の為に!」


「……栄光」


 少年の目が泳いだ。砂と汗で汚れた手が、ゆっくりと泳いでいく。その手が、ついに梯子にかかった。


 「汝、救えるものを救えソーヴ・キ・プー (Sauve qui peut)!」

 その時、どこからともなく声が沸き上がった。はっと少年は顔を上げた。


「行け! 行くんだ!」

指揮官が叱咤する。


生きられる者は生きるのだ!Sauve qui peut

「そうだ。全力で生き延びよ!Sauve qui peut

声は瞬く間に広がっていく。


逃げろーっ!Sauve qui peut


 そして軍隊は、巨大な生き物のように、狭い塹壕の中を後戻りし始めた。

 後退する仲間の後を追いかけようと、少年は梯子から手を離した。


「こらぁっ!」


 指揮官が襟首に手を伸ばす。それをすり抜け、少年は塹壕の中へ駈け込んだ。

 その時だった。

 先に逃げた兵士たちが、ゆっくりゆっくりと、押し戻されてきた。塔の下の溝は、あっという間に兵士でいっぱいになった。


 「何をしている」


 最後に塹壕の中から出て来た将校が言った。ぴしっとした染みひとつない軍服を着ている。

 総司令官、ナポレオン・ボナパルトだった。


「時間を無駄にするな。スルタンの正規軍が上陸する前に、要塞を落とすのだ。梯子を上れ。早く!」


 いつの間にか、塔からの砲撃は止んでいた。窓から見下ろす敵兵の姿もない。


「塔に登れ。窓から侵入するのだ」


 ボナパルトが命じた。さっきまで場を取り仕切っていた指揮官が、塔の真下に梯子を移した。両手で掴み、しっかりと固定した。

 兵士たちは息を飲んでそれを見守っている。恐ろしいまでの圧が、少年を押しやった。


 ボナパルトは少年を見下ろした。

「待て。君の名は?」


「アンリ」

かすれた声が答えた。


「よし、アンリ。行くのだ。自由と平等の為に。祖国の栄光の為に」


 少年の目から光が消えた。何かに操られるように梯子に足を乗せた。

 ゆっくりと登っていく。

 あんなに激しかった銃撃が、奇跡のように静まっている。


 息詰まるような戦友たちの視線の中、やがて少年は梯子のてっぺんに上り詰めた。背伸びをして、開いた窓に両手をかける。

 細身の体が、ぐっと持ち上がった。しばらくもぞもぞ動いていたが、やがて窓の向こうの暗がりに消えた。


 下では、彼の戦友達が、固唾を呑んで見守っている。


 アンリが窓から顔を出した。上がってこいという風に、手で合図する。

 歓声が上がった。


 次々と兵士たちは梯子を上り始めた。最初の一人の手を、アンリが掴んで窓の内側に引き入れた。

 その次の男は小太りだった。先に入った二人がかりで引き上げた。

 隣の窓に向けても、梯子が立てかけられた。大勢の兵士たちは塔の中へ入っていく。


 40人~50人ほども入ったであろうか。

 不意に上階から、どおんという大きな音が響いた。

 地面が揺れた。下にいた兵士らはよろめき、両手で頭や顔を庇った。


 それでも、塔は崩れなかった。味方の兵らは阿鼻叫喚し、仲間を救うために、なりふり構わず、塔の地層階から駆け上った。


 塔の中は空っぽだった。敵の姿はどこにもない。


 最上階に上り着いた兵士たちが見たのは、恐ろしい光景だった。

 塔の床に仕掛けられていた地雷が爆発したのだ。梯子で上っていった兵士らは全滅していた。恐らく、いや、間違いなく、あの藁色の髪の少年兵、アンリも。

 もはや、誰が誰かもわからない。塔の上層階は、血と肉塊だらけの、さながら地獄絵図だった。


 さらに絶望的なことに、塔の向こうには外壁が張り巡らしてあった。壁は二重になっており、塔は、要塞内部とは通じていなかった。

 上層階でバラバラになって死んだ兵士たちは、全くの無駄死にだった。



 「戦友が死んだ!」

 下の溝では、兵士の一人が、ボナパルトに喰ってかかっていた。

「こんな無謀な攻撃は、すべきではなかったのだ。百歩譲っても、ヤッファで引き返すべきだった!」


 他の兵士らは見て見ぬふりをした。けれど、彼らの目も、怒りで燃えていた。明らかに、泣きわめく兵士の味方だった。


「ボナパルト将軍、あんたはいつだって、行き当たりばったりだ。ろくに計画も立てず、自分の栄光だけを追い求めている。物資はいつだって不足し、俺たちはいつも空腹と渇きに苦しめられてきた。あんたにとって、麾下の兵士は、虫けらと同じなんだ。俺の戦友は死んだ。あんたが殺した!」


「それ以上言うな!」

甲高い声で、ボナパルトは叫んだ。

「これ以上、もし一言でも口をきいたら、俺はお前を殺す!」

その手は、腰に下げた銃の台尻を掴んでいた。


 親友を殺された兵士の、獣のような雄叫びが、塹壕の籠った空気の中を、砂漠の向こうまで轟いていった。





 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

*1 今ではトルコの牙城だ

 アッコ要塞の歴史について、ブログにまとめました

  「マルタ騎士団」

 https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-282.html



*2 シドニー・スミスのティグル号と彼の友人ミラー大尉のテセウス号

 ブログに肖像画等がございます。私は、変人シドニー・スミスに最後までつきあったミラー大尉が好きです。

  「ティグル号とテセウス号の仲間たち」

 https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-192.html




※アッコ包囲戦について、敵のトルコ・イギリス側からまとめてあります。

  「アッコ包囲戦1~9」

 https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-195.html ~


この要塞都市に関しましては、日本語では「アクル」「アクレ」をよく見かけますが、「アッコ」が現地の発音に近いそうです。ので、あえて「アッコ」で統一しました。







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