第59話 元ライン方面軍将軍への不信と不満


 ……ドゼは来なかったのか。


 カイロに、ドゼの姿はなかった。アブキール陸戦に出かける前、ボナパルトはドゼをカイロに召喚した。総司令官である自分の援護の為、エジプト東部の防御を命じたのだ。しかしドゼは、上エジプトから出てさえもいなかった。


 彼は、公然と命令を無視したことになる。金も物資も黒人部隊も、一切送られていない。


 手紙が間に合わず、また、移動部隊を使った作戦を展開していたドゼには、全軍招集が不可能だったのだが(*1)、彼の参謀ドンゼロットから届いた手紙は、言い訳としかボナパルトには思えなかった。


 聞けばドゼは、上エジプトにハーレムを作り、優雅にやっているというではないか。


 その上、ドゼ師団が、ファユームから勝手にミリを取り立てたと、苦情が来ていた。ファユームは、ボナパルトの親衛隊の領地だ。ドゼにその権利はない。

 司令部カイロからの補給が一切ない中での苦肉の策だったというが、そんな理由は通用しない。


 ボナパルトには、ドゼの参謀ドンゼロットからの手紙は、ボナパルトを非難しているように受け取れた。なぜなら、上エジプトへ補給を送らなかったのは、ボナパルトの意志だからだ。


 だってドゼは、兵士たちに人気がある。今では彼らは、ボナパルトに向けてはっきりと、怒りの眼差しを向けてくる。

 そしてまた、敵国の住民さえ、ドゼを慕っている。だからあんなに易々と(とボナパルトは思った)、上エジプトを征服できたのだ。

 ドゼは、ボナパルトの権力を奪いかねない。彼の存在は、ボナパルトの野心にとって、非常に危険だった。



 ……そしてクレベールは、俺への憤りを隠さない。


 ほんの些細な指摘をしただけなのに、彼は辞職をほのめかし、勝手に帰国しようとした。面と向かって抗議されたのは、ボナパルトには初めての経験だった。(*2)

 またアッコでは、麾下の兵士らの犠牲に対し、ボナパルトへの怒りを隠そうとしなかった。そしてあの、アブキールでの言葉……。


 ……「ボナパルト将軍、貴方は世界と同じくらい大きい。そして世界は貴方を包み込むのに十分なほど大きくはない」


 あれに悪意がないと、どうして信じられようか。

 クレベールは、強烈な共和主義者だ。断固として不正を嫌う。

 ボナパルトには全く理解できない男だ。



 だが、ボナパルトは自分を公平な人間だと思っていた。能力のある人間には、それなりに報いてきたつもりだ。


 上エジプトにいるドゼには、今までの彼の働きを称え、昨年(1798年)の年末に短剣を贈ったのに続き、今回は、名誉の剣を送った(*3)。もちろんボナパルトからの個人的な贈り物で、臨時ボーナスの意味もあった。ドゼは、勇敢な将軍だ。自分へ友情と忠誠を誓ってくれてもいる。彼を敵に回すべきではない。好意を示すことを忘れてはいけない。


 褒美の剣につけた手紙には、もちろん、叱責の言葉も忘れなかった。カイロに来なかったことと、金や物資を送らなかったこと、ファユームから勝手にミリを取り立てたこと。


 ドゼには充分に報いたと思う。 

 クレベールに関しては、もう少し、慎重を要した。彼は、贈り物で人の心は買えないと思っている。


 アレクサンドリア侵攻で、早々に怪我をしてリタイアしていたクレベールだが、シリアでの働きは目を瞠るものがあった。エル=アリシュとヤッファは、ほぼ彼とレイニエの前衛軍が、陥落させたようなものだ。


 クレベールが有能な将軍であることは疑いを入れない。


 そのクレベールに、ボナパルトは、エジプトの総司令権を譲った。自分の後任に任命したのだ。

 ただ、直接、クレベールに伝えるのはためらわれた。遠征に出た頃と比べて、兵力は大幅に減少している。少ない人数で多くの民を治めるのは至難の業だ。また、当初の敵であるイギリスに加え、今ではトルコも敵に回ってしまった。地中海は封鎖され、本国からの補給も絶たれたままだ。


 クレベールの不満の爆発は、手に取るようにわかる。後任人事を拒否され、デュマのように勝手に帰国されたら、目も当てられない。


 それで、手紙でエジプト遠征軍総司令官に任命した。後は勝手にやってくれればいい。ただ、よほどのことがない限り、エジプトを手放さないように、それだけは釘を刺しておいた。なんといってもエジプトはかのアレクサンドロス大王の東方遠征の地、西洋と東洋の融合の象徴なのだ。


 それをクレベールは野心と呼ぶが、ドゼならきっとわかってくれる。

 せっかく手に入れたエジプトを手放すつもりはなかった。自分が統治するのでなければ、なおさらだ。


 ただ怖いのは、帰国してからクレベールがあの調子で、シリア遠征でのあれこれを民衆の面前で暴露することだった。特に、ペスト患者を置き去りにしたことと、彼らに自決用のアヘンを渡したことが問題だった。ヤッファにおけるトルコ軍の捕虜を皆殺しにしたことも、仕方がないとはいえ、褒められたことではない。常々クレベールは、ボナパルトには計画性がなく、行き当たりばったりで前準備をしない、為に多くの兵士が犠牲になった、と非難しているという。こんなことをぶちまけられたら、せっかく築き上げたヒーロー像が台無しだ。


 とりあえず、シリア遠征に従軍した医師に、カルテを書き換えさせようとした。カイロ撤退はペストのせいだということにしたかったのだ。ところが彼は医療記録の改ざんを拒否した。この医師は、ヤッファ近郊の病院に収容していたペスト患者に致死量のアヘンを飲ませることも拒絶した。貴族出身の、鼻持ちならない内科医だ。(*4)

  

 クレベールには、味方になってくれる者がいるということだ。しかもそれは、医師から末端の兵士にまで至り、全軍がボナパルトに向かって牙を剥きかねない。

 帰国が叶えば当然、クレベールは祖国の民衆の面前でボナパルトを罵倒するだろう。

 彼に帰国されたら困るのだ。


 もちろん、保険はかけてある。

 ムスタファ・パシャの息子に渡した、あの紙片……。だがこれは、蓋然性の問題だ。今はこれしかできない。


 ……とにかく、軍に先駆けて帰国し、フランス国内において一刻も早く権力を掌握することだ。



 深夜、ボナパルトはこっそりとカイロを出、アレクサンドリアへついた。そこでクレベールを自分の後任、エジプト遠征軍総司令官に任命した。ただし、手紙で。

 それからロゼッタのムヌーとジュノにも手紙を書いた。エジプト人の妻を娶り、エジプト遠征に前向きなムヌーには、直接会ってこれから帰国すると伝えた。お気に入りの幕僚ジュノーには、じきに帰れるよう手配しておくと書き送った。

 最後にドゼに手紙を書き、秋にはパリへ帰ってくるよう命じた。彼には、帰国の手配をしてやるつもりはない。デュマのように勝手に船を確保し、帰って来るだろう。

 ドゼにとっては、これが最後のチャンスのはずだ。彼は本当に、ボナパルトに忠実であるのか……。



 全てを灼熱の大陸に置き去りにし、ボナパルトは祖国へと向かった。






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*1 全軍招集は不可能

ドゼ師団からの視点は、52話「ボナパルトからの叱責」、ご参照下さい



*2 クレベールの憤り

第32話「ボナパルトの思惑 2」にございます



*3 名誉の剣

ボナパルトがドゼに与えた、2本目の剣。

この剣は、ドゼの死後、彼の母親が、とある女性とその夫に託しました。今どこにあるかはわかりませんが、1900年の時点では、個人蔵となっていました。この女性夫妻の子孫が所蔵していたと思われます。

なお、ボナパルトがドゼに渡した1本目の剣は、宝石付きの短刀です。28話「贈り物」、及び、50話「ドゼの上エジプト統治」末尾をご覧ください。



*4 鼻持ちならない内科医

デジュネット医師。致死量のアヘンの件は、57話「アブキール陸戦1」、ご参照下さい。

彼と外科医のラレー(5話「ラレー医師、ドゼを語る」に出てきます)は、常に公正を期し、自分を病気と診断してほしがる将校らからの(そうすれば帰国ができました)、いかなる賄賂も受け取りませんでした。

なお、デジュネットは旧貴族出身ですが、ドゼと親しかったラレーは、市民階級の出身です





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