第20話 ナイル河の戦い(アブキール海戦)
イブラヒム・ベイを追ってトルコ方面へ向かっていたボナパルトは、8月中旬、急報を受けた。
アブキール沖合で、ブリュイ提督指揮下のフランス艦隊が、ネルソン提督率いるイギリス艦隊に襲撃されたのだ。
「アブキールだと? アレクサンドリアからカイロへの行軍中、俺はブリュイに、アレクサンドリアに入港するように指令を送った。二度もだ」
生き残った海軍参謀長からの報告を伝えられ、ボナパルトは補佐官を睨みすえた。
「アレクサンドリアの港は水深が浅すぎるとブリュイ提督は判断されたそうです」
ベドウィンを振り切り、命からがらたどり着いた補佐官が、おずおずと答える。
憤懣やるかたないと言った風に、さらにボナパルトは言い募る。
「それから俺は、カイロを発つ前、コルフ島(ギリシャの島)へ向けて出立するよう副官を送った。ナイルを下る船に乗せて(*1)。艦隊はとっくにアレクサンドリアへ移動していると思ったからな!
「行方不明です」(*2)。
ボナパルトはぎりぎりと奥歯を噛み締めた。
たとえ無事であったとしても、
◇
ボナパルトが入港を命じたアレキサンドリア港は水深が浅く入港が困難だったので、ブリュイ提督は、次の選択肢アブキールへ向かった。しかし、最終指示が届かない(*2 前述)。
一方、地中海にいた
船の数ではフランスに劣ったが、人員と士気では遥かに勝っていた。ネルソンは、攻撃対象をフランス艦隊の北寄りの半分に絞った。そして、縦一列に並んで停泊しているフランス艦隊に対し、垂直に突っ込む作戦に出た。
南北に2分の1に分けたフランス艦列の、一番後ろがロリアン号だった。
フランス艦と岸辺との間に割り込んだイギリス船の一隻が、フランス艦は、左舷(陸地側)に錨を下ろしていることを発見した。すぐさま、数隻の船が陸と北半分に停泊していたフランス艦の間に割り込んだ。ネルソンの旗艦テセウス号を含む戦艦たちは、座礁を全く恐れなかった(*3)。
フランス艦の右舷(沖側)と左舷(陸側)から、イギリス軍による激しい砲撃が始まった。
フランスのブリュイ提督は頭と手を負傷し、ハンカチで血を拭った。30分後、左大腿部から下を砲弾に吹き飛ばされた。その後も彼は指揮を執り続け、甲板で亡くなった。ロリアン号は、船内の火の手が火薬庫まで達し、1時間後に爆発した。その炎は、遠くからも見えたという。
イギリスの攻撃は、フランス艦隊の北寄りに集中した。南側に並んだ戦艦は、なすすべもなく、戦友の船が撃沈されていくのを見守るしかなった。そのうちの数隻が深夜、突如として戦線を離脱、夜の闇に紛れて姿を消した。彼らはほぼ無傷でマルタ島へ到着した。(*4)
◇
イブラヒム・ベイ掃討をレイニエに任せ、カイロを離れて12日後に、ボナパルトは首都に戻って来た。
「これで、私のカイロ守将の大役も終わりですね」
さっそくドゼがやってきた。カイロから紅海に向かったところにある要塞へピクニックに出かけたり、ピラミッドへ登ったり、ボナパルトの留守中、彼は部下を募り、楽しい時間を過ごしていた。
それでも、カイロ守将の任は、彼には重荷だったのかもしれない。ドゼはじっとしていることの苦手な男だ。
ボナパルトの陰鬱な雰囲気に、陽気な彼の眉が曇った。
「おや。どうしました?」
「軍にはもう艦隊はない」
ぼんやりとボナパルトは答えた。
「ネルソンにブリュイの艦隊がやられた。全滅だ」
「それは……」
さすがに驚きが両頬に傷のある顔に浮かんだ。この男の感情を動かすことができたことに、こんな時だが、ボナパルトは満足を覚えた。
自分は平静であることを示す必要があった。
「我々はこの国に留まるか、古代人のように偉大な脱出を遂げるかする必要がある」
アレクサンドロス大王の遠征のことを言っているのだ。彼は陸路で、エジプトからギリシャまでの広範な領土を征服した。ドゼがイタリアへボナパルトに会いに来た頃、二人で興じた話題だ。
にやりとドゼが笑った。
しばらくの間、ボナパルトは帰国の足を失ったことを兵士たちに秘密にしていた。
◇
祭りが終わった翌日、ボナパルトは、各師団にマムルーク討伐を指図した。特にドゼ師団には、ムラド・ベイ討伐を命じた。
フランス軍上陸時のエジプトにおける二大勢力は、マムルークのイブラヒム・ベイとムラド・ベイだった。
エンババの戦い(ボナパルトはそれを「ピラミッドの戦い」と呼んだ)の後、
だが、
◇
ドゼ師団のムラド・ベイ討伐の旅に、あのダヴーという騎兵将校は同行しなかった。赤痢を発症してしまったのだ。お陰でドゼ師団はまた、騎馬隊不足のままの遠征となってしまった。
出発間際、嘆き悲しむダヴーの耳にドゼが口を寄せた。何事か囁いている。打ちしおれていたダヴーの顔が、少しだけ、明るくなった。
「くれぐれも、ミュラ将軍やデュギュア師団長に喧嘩をふっかけるんじゃないぞ」
別れ際、ドゼが念を押すのが聞こえた。
「わかってますぅ~。そんなことはしませんって」
すかさず、ダヴーが応じた。
「ダヴー準将に何を言われたのですか?」
戻ってきたドゼに、ベリアルは尋ねた。
「馬をたくさん集めておくように頼んでおいた。部下も使って」
うまいやり方だと、ベリアルは思った。いわば、予防線を張るのだ。
今回の遠征にも、ボナパルトからの補給は期待できないかもしれない。いや、おそらく補給などなかろう。特に馬は、絶対に手が入らないと覚悟しておいた方がいい。けれど、カイロでなら、馬を集めることができる。赤痢が治ったら、ダヴーは馬集めに奔走するだろう。それを、ごっそりと頂く。ついでに、自分の師団から連れ去られたミルーの兵士たちも取り戻す。
「けれど、
ベリアルは案じると、喉の奥で、ドゼは笑った。
「エジプトに上陸したらダヴーは返してくれるように、最初から総司令官殿にはお願いしておいたのだ」
ベリアルは舌を巻いた。ドゼは絡め手からの交渉がうまいのだ。
ふと、あること気がついた。
「
「え?」
「あなたがミルーの少年兵に言った言葉です。あの藁色の髪の」
「ああ、彼なら元気だったよ。他の兵士らも恙なく、だ」
ベリアルは呆れた。いつの間にかこの将軍は、かつて麾下にいた兵士たちの様子を見にいっていたらしい。
「ムラド・ベイを追って砂漠を彷徨うより、カイロにいた方が安全でしょ? 一般的な話ですよ?」
最後を強調する。
「貴方は一体、誰から逃げろと、あの子に言ったんですか?」
「さあ。そんなこと、言ったっけかなあ」
ドゼはとぼけた。
けれどベリアルは、なんとなくわかった気がした。
自分を危険な場所に送り込む男の言いなりになるな、ということだ。それはボナパルト……恐らく。いいや、間違いなく。
ダヴー、一本気でまっすぐなあの男なら、本人が意識するとしないとに関わらず、ミルーの兵士たちを守ってくれるだろう。
ベリアルはそっとドゼの顔を窺った。両頬に傷のある男は、相変わらずすっとぼけたような顔をしていた。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
*1
アレクサンドリアは、カイロからナイルを下った下流、地中海に面したところにあります
*2
ボナパルトの副官ジュリアンの一行は、食料を探しに上陸したところをベドウィンに襲われ、殺されました
*3
挫折を恐れず陸側に回り込んだ勇敢な4隻の船のひとつがネルソンの旗艦テセウス号で、艦長はミラー大尉です。ミラー大尉はこの戦いで顔に傷を負い、ジブラルタルで静養中のところを、シドニー・スミスの要請で、再びシリア海域へ戻ります。
ミラー大尉は私の推しです!
https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-192.html
*4
後にボナパルトは、フランスの戦艦を守ったとして、この行いを褒めています(が、セント・ヘレナでは罵倒しています)。逃亡した船には、デニス・デクレ(後の海軍大臣)やヴェルヌーヴも乗っていました。ヴェルヌーヴは後にボナパルトの命令を無視して作戦を壊滅させ、ネルソンの戦死を招きはしましたが、トラファルガーの海戦で大敗を喫しました。
※アレクサンドリア、アブキール、カイロの位置関係です
https://kakuyomu.jp/users/serimomo/news/16817330658883138638
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