第10話 沼田の忍

 上野国・沼田城。

 関ヶ原の戦い以前から真田信之はこの城を居城としていた。

 関ヶ原の戦いで徳川方についた信之は、戦後に父昌幸の領土を受け継いだのであるが、それ以降も依然として沼田を拠点としていた。

 真田信之はこの年で51歳。元々病弱であったことから最近は沼田城の中で過ごしていることが多かった。夏の陣にも自身は参加しておらず、息子の信吉と信政を参戦させていた。

 この日、信之は体調もよく庭を歩いていた。

 まだまだ寒い上州の冬であり、空っ風が吹いてきては信之の細身の体を打つが、それが信之の身を引き締め、内なる強さを作っていた。

「殿! 殿はおりますか!?」

 そこに甲高い声が響いた。

「ここにおるぞ」

 信之が返事すると、程なく城の廊下から正室の小松が現れた。

「わしが庭を歩くくらいで一大事のように取られてしまっては困る」

 信之はそう言って苦笑したが、小松は夫の軽口には応じない。

「そうではございません。殿…」

「…どうかしたか?」

 25年近く連れ添っている妻のことであるから、その表情から大体のことは分かる。少なくとも自分が庭を歩いていることの驚きでないことは確かであった。

「殿、源二郎様が…」

 茫然とした様子で出た言葉に信之も仰天する。

「何!? 源二郎? 弟がどうしたのだ?」

「この沼田の、城に訪ねておいででございます」

「何と!」

 信之は走ろうとして、思わず蹴躓いてしまった。それでも何とか転倒は避ける。

「す、すぐに通してくれ…」


 天守閣の大広間に、程なく真田幸村が通された。

「兄上、お久しゅうございまする」

「おお、源二郎…、久しいのう…。老けたのう…」

 信之の言葉に幸村は苦笑した。

「はい。九度山での長き幽閉生活ですっかりくたびれてしまいました」

「ははは。わしも最近は病ばかりじゃ。いつ何時、父のところから迎えが来るか知れたものではない」

「とんでもありません。九度山で父が兄上の寿命を占ったことがありましたが、80はおろか90まで生きるだろうと言われました」

「冗談ではない。今の段階で一日良ければ一日病気じゃ。90まで生きようものなら、正月から晦日まで寝たきりじゃわい。どれだけの者に迷惑をかけるか。適当な歳…あと10年くらいで楽に逝きたいわい」

「殿、そんなあっさりと逝かれてしまっては私達が困ります」

 信之の横に座っている小松が表情を険しくするが、信之は気にする素振りも見せない。が、少ししてから一転して媚びるような視線を向けた。

「今宵は酒も良いであろう?」

「…仕方ありませんね」

「源二郎、今日は酔うまで吞め。わしも最近はほとんど呑んでおらぬが、今日は呑むぞ」

「はい。私もそのつもりで参りましたので」

「但馬(矢沢頼康)にも伝えておけ。明日の昼までには沼田に来るようにと」

「兄上。そこまでしなくても…」


 その夜。沼田城の広間は大宴会となっていた。

 家臣達も幸村という願ってもない来客と共にいるということで、いつも以上に大はしゃぎである。

「しかし、見事にしてのけたのう、源二郎よ」

 信之も顔が真っ赤になっており上機嫌である。

「お主のおかげで、時代が30年くらい舞い戻ることになってしまったよのう」

「全くもって、不心得でございました」

「いやあ、しかし、豊臣家とともに進むのかと思いきや、いつのまにか越前様と共に九州で活躍していたという話を聞いた時には驚いたわい。わしも今後どうなるかということは色々考えていたが、まさか徳川と豊臣が再び手を取る日が来るとはのう」

「全くでございます」

「して、今日もそのこともあって来たのであろう?」

 信之の言葉に幸村が「おっ」と声をあげる。顔は赤らんでいるが、信之の表情にはどこかしら余裕めいた笑みが浮かんでいた。

「…兄上にはかないませぬな。実は、地元の草の者を使いたいということがございまして」

「大坂の陣の折に、それなりに連れていったのではないのか?」

「その通りではございますが、あれらの者は完全に西方の生活に慣れてしまいましたので、奥羽で働くには適しませぬ」

「…最上の件か。すまぬ、水をくれい」

 信之は家臣から水を受け取ると、それを飲み干す。それで酔いを醒ますと肴を一品口にして、弟と向き合う。

「どう思っているのだ?」

「はい。上杉家などからもらっている情報によりますと、幕府の方では山野辺義忠が主導していたのではないかと考えているようです。ただ、山野辺がうまいこと家中の者をまとめて、抵抗するそぶりを見せているのだとか」

「お主もそう思っているのか?」

「ひとまず、その前提で考えております。と申しますのも、大坂にいたそれがしにも伝わってくるくらいに最上家では家督紛争が酷いという話でございました。それが、まがりなりにも今はまとまっているというのが不思議でございます」

「確かに徳川家からの詮議が入るとなると、普通はより混乱するはずであるが、最上家は予想していたようにまとまっていたからのう」

「ということは、今のところ、最上家内部において予想通りに事が進めているという認識があるのでしょう。そうでありましたら、予想外の事実を起こしてやれば中から崩れるのではないかと思いましてな」

「確かにそうじゃのう。そのために、真田の忍びが必要であるということだな?」

「はい。それがしの者ではなく、兄上の手下の者を使うというのは気が引けるところではございますが…」

「気にするな。最上の件は、わしはもちろん、多くの徳川大名家が気にしているところである。首尾よく解決してくれればわしにとっても有難いというものよ」

「ははっ。ありがとうございます」

「指示を出している間はここにおるということだろう。息子達にも戦場の経験を伝えるなどしてくれ」

「…もちろんでございます」

 幸村は満足そうに笑った。


 数日後。

 山形では、新しい噂が農民達の間に伝わっていた。

「徳川家は山野辺様を処分したかったのだが、どうも山野辺様が上層部に賄賂を贈り、上野山様が処分を受けることになるらしいとか」

「いやいや、実は上野山様がお殿様を殺害したらしく、その証拠も十分に挙がっているのだとか」

「上野山様が切腹して、今回の件は解決するらしい」

 と領内の広い範囲において、最上義光の五男上野山義直が主犯であるかのような言説が流されていたのである。

「じ、冗談ではない!」

 上野山義直が憤慨して叫ぶ。

「私は何もしておらぬ。どうして、私が主犯であるかのような話になっておるのだ?」

「恐らくは徳川家が山野辺様を疑っていたのに、殿が山野辺様や義俊様と同意していることから、怪しいと疑ったのでしょう」

「そ、そんな馬鹿なことがあるか? 此度のことはやはり山野辺家が主導したものであろう!」

 上野山義直は流言が広まるや否や、方針を切り替えてしまったのである。


 沼田城で報告を受けた真田幸村は満足そうに頷いた。

「…結束を崩すには、自分は安全だと思っている者を一番矢面に立たせてしまえ、ということか」

 近くで聞いていた真田信之も頷く。

「はい。元々が四分五裂していた最上家でございます。結束していたのは一部の者が最前線に立つ覚悟をしていて、それ以外の者が自分達は安全であると思っていたからに過ぎないことでしょう。それならば、最前線に立つつもりのない者を最前線に押し出させれば結束は崩れます」

「こうなると、山野辺義忠としては庇護してくれる家に逃げ込んで、何とか穏当な処分を求めるしかないのう。そして、最上家自体は家内の統一がなされていなかったということで改易か、ほぼ没収のいずれかというわけか」

「左様でございます。もう少し突いてやれば、うまくいくでしょう。江戸の立花殿と伊達殿にも伝えておかなければ…」

 幸村は会心の笑みをたたえて、近くの者を呼び出し、連絡事項を伝えるのであった。

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