第6話 北九州の事情
駿府まで赴き、徳川家光に拝謁してきた大名達は、6月15日前後に四国から九州へと渡り、府内までたどりついた。
府内まで来た彼らは予想以上に酷い戦況に茫然となる。
「これは厳しいのう」
細川忠興が呻くように言う。島津が領有している薩摩・大隅を除いたうち、日向・肥後・肥前が戦線となっており、しかも旗色が非常に悪い。
「支援をしたくても毛利がいるし、それ以上に領内の隠れ切支丹が動く危険性もあるしのう」
「加藤はどうする?」
黒田長政が一同に問いかける。
「救援には行きたいが…」
出す余裕がないというのが正直なところであった。軍役による負担もあるのでそれほど多くの兵は出せない。
「熊本城は清正公の造った城じゃ。他はともかく、あの城は簡単には落ちぬじゃろう。とにかく、向こう三か月くらいで領内に目途をつけるしかない。現状では秋になり、兵糧などの準備ができてからかかるしかないだろう」
黒田長政の提案に、一同も頷く。
「ただ、もちろん、外部から攻撃を受けた場合には、我ら相互に助け合わなければならん。そのための誓紙はここで交わそう」
「柳河の田中はどうする?」
「田中か…」
柳河城の田中忠政もまた、大坂の陣には参戦していない。そして、ここまでのところ一揆に対しても島津に対しても全く動きを見せていない。
それが不気味である。何より、田中忠政は禁教令が出た後も切支丹保護を実行している例外的な大名であった。仮に田中忠政が一揆軍側に加わった場合、筑後の過半も反徳川方で占めることになる。
「とはいえ、現状、敵対行動を取っていない以上、無理にこちらから敵方に押し出すことはない。まずは共同で考えを確認するべきではないか?」
鍋島勝茂の案に一同が参加し、共同体制を組むという誓紙の他、田中忠政に対しても参加を要請する書状を送ることとした。
「さて、当分の間、誰が取り次ぐ?」
取り次ぐというのは、例えば田中忠政とのやりとりにしてもそうであるし、徳川家とのやりとりにしてもそうである。一々、全大名に派遣するとなると人数も増えるし不便であった。
また、誰かしら代表がいてくれた方が色々と動きやすい面もある。
「さしあたり、一番身代の高い黒田殿が良いのではないか?」
「うむ。そのうち徳川家からも大目付のような役割が送られてくるのではないかとも思うし」
こうして、北九州の諸大名の立ち位置は固まったが、そうは言っても、とりうる選択肢は少なく、まずは領内の整備に時間を費やすこととなったのである。
さて、柳河の田中忠政はどうしていたかというと。
事態の推移にただ顔を青くしているだけであった。
忠政は大坂の陣には参戦していなかったが、全く動いていなかったわけではなく、家内の対立や財政難などの問題から出発が遅れて、間に合わなかったのである。途中、家康と秀忠が戦死したという報告を聞いて、とても行くべきではないと考えて柳河まで戻ってきていた。
その後、徳川家に対しては経緯を記した書状を送っていたが、この書状は混乱の最中に届けられ、徳川家光や井伊直孝、伊達政宗らの目に触れることもなく放置されていた。そのため、田中忠政の独立した行動が九州の諸大名にはより浮彫になったのである。
ただし、書状を送ったことからも明らかなように田中忠政の意向は徳川家との共同であった。そもそも忠政の妻は家康の養女であり、裏切るような理由もない。切支丹を積極的に保護してはいたものの、一揆を是とするほどまでではない。
当然、領内の切支丹が一揆に参加することを極度に恐れており、町人達を集めて何度も交渉をしていた。
柳河の切支丹もまた、難しい立場に置かれていた。同じ切支丹として一揆を起こしている者達には同情しているものの、柳河自体は切支丹が保護されている。変に参加して失敗した場合死ぬ恐れもあるし、領主からは度々交渉の機会も与えてもらっており、そこには恩も感じていた。結果、彼らがとった選択は動かないということであった。領内の切支丹に意見の相違があるとして、天草・島原の一揆の様子を見ることにしたのである。
そうした経緯もまた、田中忠政には伝わっていた。ひとまず領内の切支丹が一揆に参加しないことは救いではあったが、「様子を見る」ということは一揆が更に勢力を広げるとそちらに傾く恐れがある。
そうした中で、府内からの北九州大名連合からの書状が届いた。
田中忠政は中身を見て、更に青くなり、書状を兄の吉興に渡して福岡へと派遣した。
吉興は福岡に急ぎ、黒田長政に対して状況を弁明する。
「そういうことならば仕方なかろう。いや、仕方ないで済ませていいのかどうかは分からぬが、今の状況下で一々責めるだけの理由は我々にはない」
これ以上敵を増やしたくない。そういう理由で黒田長政は田中忠政に対して不問とする方針を固めて、小倉、佐賀などに書状を送った。
田中吉興もまた、福岡だけでなく、小倉、佐賀にも回って状況を説明する。
細川忠興も鍋島勝茂も黒田家と同じ理由でさしあたり不問にすることとした。
6月の後半になると、切支丹優勢という情報に動かされたか、佐賀近辺の切支丹も不穏な動きを見せ始めた。鍋島勝茂はこれの対処にあたり、場合によってはと福岡の黒田長政にも救援要請を出す。もっとも、福岡の領内でもそうした動きが散見されており、気が休まることもない。
結局のところ、防戦一方となってしまい、彼らにできることは徳川家に対して早く救援を寄越してほしい旨の連絡を出すことだけとなっていた。
6月28日午前。宇土から逃れてきた加藤美作守らが熊本へと戻ってきた。
宇土が一揆軍に占領されたという情報は、それより早く熊本城にもたらされ、当然、城は騒然となる。加藤正方や下川元真らが美作守の責任論を唱えたが、これは清浄院によって阻止された。
「昨日の飯田殿の申す通り、失敗したという理由で処罰していては守る者がいなくなります。まして、これから敵が迫ってこようという時に仲たがいをしてどうするのですか」
この言葉により、加藤美作守は処分なしということになった。そのうえで熊本での籠城準備を開始する。
「清浄院様、少し、よろしいでしょうか?」
そうした中、清浄院に飯田角兵衛が面会を求める。
「これは誰かの話というのではなく、あくまでそれがしの考えであるのですが…」
面通しが許されると、角兵衛は平伏したまま話を始める。
「清浄院様と忠廣様は早めに佐賀、もしくは福岡まで逃げられた方がよろしいかもしれません」
「…熊本城も落ちるということですか」
清浄院の言葉は落ち着いていた。
「…そうならないよう、全力をあげて守りますが、最悪の事態になる可能性も十分にあると思われます。万に一ではなく、十に三くらいは」
「…そうですか」
「忠廣様に万一のことがあられては、加藤家は断絶となってしまいます。また、今後加藤家が小身であれ存続を許されるためには清浄院様もなくてはならない存在。どうにか先に安全なところへと避難いただければ…」
「飯田殿、私達にご配慮いただきありがとうございます。ただ、私も武家の女でありますれば、安易に家から逃げるような真似はしたくはありません。それに忠廣殿も若いとはいえ清正公の子息。配下が籠城するのに自分だけ敵に背を向けられるようなことを清正公が良いとされるでしょうか」
「…愚かなことを申し上げました。お許しください」
「いいえ、飯田殿のような方がいてこそ、熊本城は守られるのだと考えております。何卒、頼みます」
「ははっ」
角兵衛は再度深々と平伏した。
(仮にここが死に場所となるにしても、悪くはなかろう)
その覚悟も固まった瞬間であった。
7月1日、宇土に島津軍が到達した。
「一揆軍が武士の防塁を落とすとはのう」
樺山久高が驚いた様子で土塁を眺めている。
「一揆とは申せど、指揮官は小西家にいた武士が多数おりますからな」
後醍院宗重が答える。
「大砲はどうなっておる?」
「早馬を坊津に走らせ、届き次第船を出すように申し伝えております。明日には八代に到達するのではないかと」
「八代からここまで持ってくるとなると、およそ二日か。となると、まずは熊本城の周辺を包囲せぬことにはな」
「包囲には一揆軍も加わるとのことです」
「それは構わぬが兵糧の方は大丈夫なのか?」
「武器以外の物資に関しては我々よりも豊富ではないかと」
「そうなのか?」
「はい。既に占領した天草の港から食糧を大量に運んでおりますれば。また、一揆軍ですのである程度までは地元の農民も支援しておりますし」
「そうか。それなら問題ないな」
樺山久高は頷いて、全軍に宇土周辺で一日休養をとるように命令した。
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