第2話

 右近衛権少将・前田利常は豊臣秀吉の五大老であり、徳川家康のライバルでもあった前田利家の四男である。男子のいなかった兄・利長の養子となり、前年に加賀・能登・越中を承継したばかりであった。

 利常の正妻は、徳川秀忠の娘・珠。すなわち、前田利常にとって徳川秀忠は義父にあたる。政宗が感じた「この戦いで裏切っただけの価値を前田利常はどこに見出したのか」という疑問は実は、義理の父親を裏切ったという意味でより大きなものになる。

 では、何故裏切ったのか。

「と、殿…」

 不安そうに横山長知が見上げている。前年、正式に家督を継いだばかりにしてはあまりにも大それた行為、分不相応の大藩を背負った若年大名の乱心だったのであろうか。

「これで良かったのでしょうか?」

 横山長知は大きな溜息をつく。この行為がどれだけの代償を背負うか、その計算を今更ながらしているようであった。

「知らん。わしは乱心してしまったのかもしれん」

「そ、そんな…」

 堂々と「乱心」と口にしたものだから、横山は泣きそうな顔になる。その家臣の情けない顔は、逆に利常を冷静にさせた。いや、元々冷静ではあった。

(わしは狂いすぎて、静かになったのかもしれん)

 そう考えるほどに、冷静であった。

「大膳、この戦い、徳川が九分九厘勝つ戦であったろう? 大御所が戦死することなど万に一つもなかったであろう?」

「は? それはもちろん、その通りでございましたが…」

 しかし、現実は家康が戦死し、大坂方の勝利に終わろうとしている。

「それが崩れたのだ。何もかもがひっくり返った状況だ。何が正しくて何が間違っているのかなど判断のつけようもないわ。ならば」

 利常は最後の「ならば」に力を込める。

「ならば、前田家にとって最もよい展開とは何かを考えるのみであろう。全てがひっくり返ったにもかかわらず、昨日までの考え方をなすはうつけよ」

「そ、それはそうでございますが…」

「家康も秀忠もおらぬとあれば、前田が天下を目指して何が悪い? 家康にしても元々天下人であったわけではない。利家公の死をうまく使って天下を取る寸前まで行っただけではないか」



 加賀百二十万石という大藩の領主でありながら、前田利常は安心という言葉を感じたことがなかった。

 いや、物心がつく以前の頃にはそうしたものはあったかもしれない。父利家が豊臣秀吉の下で最大の実力者として君臨していた時代だ。だが、それはごくごくほんのわずかな期間だけである。秀吉の死以降は、続く父利家の死、そこから続く義父利長と家康の対立。利長の体調悪化に伴う自らと徳川家との対立。

 利常はそんな緊張をずっと身近に感じながら成長してきた。そのため、「家を残さなければならない」という意識は誰よりも強いが、一方で徳川家への反抗心も並々ならぬものを抱えていた。

「何故、前田ではいけなかったのだ?」

 そういう思いがあったのである。

 珠の件も「有難くも正妻を徳川家からいただいた」というような意識ではない。「前田家のため、仕方なく徳川家から正妻をいただいてやっている」という意識なのであった。珠との関係は個人的には良好ではあるが、それで帳消しになるようなものではない。

 そうした鬱屈した思いは前田家宗主だけでなく、家臣団も有している。父・利長の治世から前田家は家臣団の対立に悩まされた。それは、関ケ原以降の武断主義から文治主義への流れに影響されるものも大きかったが、前田家自体が頭打ちになり、その閉塞感による個人間の対立も大きいものがある。利常はそう感じていた。



 前田利常の下には、冬の陣の頃から大坂方より内応の誘いがあった。その全てを断っていたし、全て焼却していた。

 しかし、三日前に届いた明石全登からの書状だけは、何故か捨て去る気にはなれなかった。

「万一の時には、豊臣も徳川も踏みつぶし、天下を狙いなされ」

 利常の考えは再び家臣団の対立に及んだ。

 自分に家臣団の争いを制することができるか。

 自信がない。

 何故か。時代が徳川を選び、前田の立場は決まっていまっているからだ。安定はしているがそこに上昇はない。

 上昇がない中で、若い自分に老練な家臣を制することは至難である。

 そんな中、家康が戦死するという事態が発生した。

 大変なことになった。ほとんどの者はそう思った。

 利常は違った。

(前田に、再び上昇の機会が訪れた)

 そう考えたのである。

 上昇があるならば、家臣団の争いは少なくなる。全く変動のない少ない利益を争うより、他の場所で大きな利益を目指した方が賢いからだ。

 だからこそ、賭けに出た。

(もし、首尾よくいかねば、わしがうつけとして名を遺すのみ。戦さ場に屍を晒すとしてもそれも悪くはない)

 それは父利家が有し、あるいは有名な前田慶次こと利益が有していた、傾き者としての生き方を愛するという前田家の家風であったかもしれない。



 しばらくして秀忠が自害したという報告を受けても、利常は平然としていた。

「…確かなものか?」

 短い時間に何度も伝令が来るが、その度に短く尋ねて、より詳細な情報を探るべく再度派遣させる。しばらくして、どうやら本当のことらしいと確信できると。

「ならば、城の方へと進軍せよ」

「し、城の方でございますか?」

 横山が驚いて尋ねてくる。

「城側の部隊と合流せずにどうするのだ。我々で松平勢や伊達勢を食い止めるのか?」

 確かに前田軍は敵軍に孤立している形である。この場にとどまっていたら、袋叩きにされるのが目に見えている。といって、本拠・金沢から遠く離れた大坂で、他に陣を取る場所もない。結局、大坂城へ進むしかなかった。

「さ、左様でございますな」

「大膳、しっかりしてもらわねば困るぞ」

 利常は半ば呆れたように言った。



「前田勢、北上します」

 政宗の下にも前田利常の移動の様子が伝えられる。

「今からなら攻撃もできますが…」

「たわけが。今は態勢を整えるが先決よ。我々が個別に前田勢と交戦して何とする」

「ははっ」

 政宗に一喝され、伝令は頭を下げて戻っていった。

 片倉重長は少し不満そうである。

「殿、それがしも前田勢を叩いても構わないのではないかと存じますが」

「そう思うか?」

「前田も突然の寝返りでございましたし、部下の全員が納得しているとは思えません。今なら叩くことができるのではないかと…」

「そうかもしれんな」

 政宗は否定しない。

「それならば何故?」

「重長。昨日までの日本と今日の日本は全く変わったのだ。今、伊達が前田を撃滅したとしても利はない。伊達にとっての利益がどこにあるか、わしが考えているのはそれだけだ」

「…左様でございますか」

 片倉重長の表情はどこか煙に巻かれたようなものであった。



「何ともはや…、信じられぬ」

 真田信繁にとっても、家康を討ち取ってからの展開はあまりにも劇的なものであった。

「関ケ原に続きまして、またも有力大名の裏切りが勝負を決しましたな…」

 腹心の穴山安治が感慨深げに戦況を眺める。

「のう小助。これは夢なのであろうか?」

 信じられない。

 それが信繁の正直な気持ちであった。

「わしらは、本当に、生き残ったのであろうか?」

「殿、生き残ったのでございますよ」

「信じられぬな」

 信繁は「信じられない」という言葉を繰り返した。もっとも、それは今の段階で初めて出てきた言葉ではない。何ともすれば、この日の開戦直後、いきなり相手先陣を壊滅させて敵陣に侵入した頃から繰り返し続けている言葉であった。

 そのため、傍らにいる穴山安治にとってはある種ご利益をも感じさせる言葉であった。

「小助。わしは今日、死ぬつもりでおった」

「奇遇ですな、殿。それがしもそのつもりでおりました」

 主従は顔を見合わせて笑う。二人だけではなく、周りにいる者達も同じであった。「信繫と最期を共にしたい」。その気持ちだったのである。

「いや、小助。わしは死んだぞ」

「…はあ?」

 信繁の言葉に、穴山安治がすっとんきょうな声をあげた。

「わしは今日死んだのだ。明日があるとすれば、明日からは違う人間として生きるのだ」

「それは、中々面白うござるな」

「名も捨てよう。明日からは、そうだな。真田家の当主が代々入れている幸に、真田家の村を作りたいということで村。幸村。明日からは真田幸村。どうじゃ?」

「ははは、それはようございます。私もあやかって名前を変えますかな。村治とでもしましょうか」

「ははは、勝手にするがよい。どうせわしがお主を呼ぶは、これからも小助じゃ」

「それを言うならば、それがしが呼ぶ際も、今後も殿でございます」

 二人はまた大笑いをする。つられて、他の者達も笑い声をあげた。



 初夏ということもあり、夕刻になっても空はまだ明るさを残している。

 その頃までには、伊達政宗らの主導で東軍は堺方面へと撤退した。

 一方、城方は大坂城へと入っていったが、前田勢は城の中には入らず、城外に陣を構えて待機した。

 その前田勢の部隊に明石全登が姿を現した。

「通してよいぞ」

 来訪者を告げられた利常は、全登が来ることを許す。簡易な陣立ての中に入ってきた全登はこれみよがしに十字架を首からぶらさげていた。

「誠におめでとうございます」

 明石はその場に平伏し、何がめでたいのか触れずに話を切り出した。利常もその意図は分かっているのであろう、薄い笑みを浮かべる。

「まだ終わったわけではないわ。少なくとも、金沢に帰るまでは勝ちとは言えぬ」

「はい。真田殿が家康公の首を持ち帰っておりますゆえ、それを交渉材料として一時的な停戦を勝ち取るつもりでございます」

「なるべく早くそうなってほしいものだ」

「東軍も早く動かねばと焦っているものもいるでしょうし、早ければ明日にでも」

「うむ」

「あと、念のために申し上げますると…」

 明石は思い出したかのように言う。

「城から、前田様をお迎えするようにも言われておりましたが…」

「行かぬ。おまえの口で好きなように言うがいい」

「承知いたしました」

 明石はその返事を予想していたかのように頭を下げた。

 前田利常はこの日の朝まで三番目であった。一位は徳川家、二位は豊臣家である。三位の前田が一位の徳川家を倒し、上を目指す以上、二位の豊臣家の機嫌を取る必要もない。

「そもそもあれがもう少しまともであれば、この戦い、もっと簡単に勝てたであろうに、な」

 利常の言葉は秀頼に向けられた。彼が出馬すれば、大坂城にいる豊臣恩顧の浪人は意気上がったであろうし、徳川家にいる豊臣恩顧の者は戦意を削がれたはずである。

 それなのに彼は一度も戦場に立たなかった。

(そんな奴など、相手ではないわ)

 利常は内心、そう見下していたのである。



 東軍の残軍も、大和路方面に集結していた。

 当然ながら、主将二人を失ってしまっているだけに空気は暗い。

 そんな中、主だった将が善後策を語り合う。その中心にいるのはもちろん伊達政宗であった。

「大御所様に上様亡き今、戦いを続けるのは現実的ではない。特に大御所様の首は城方にあるゆえ、これを何とか取り戻して、江戸で葬儀を執り行い、徳川家の今後の体制を整えるのが先ではないか」

 政宗の演説に異を唱えるものはいない。政宗が主導権を握っていることに不快感を覚えるものはいるが、彼の言うことは誰の目にも明らかだからである。次の将軍が誰になるかも分からないのに、大坂で戦い続けても全く意味がない。彼らにとっての勝利は大坂城を奪うことでも豊臣秀頼を倒すことでもない。あくまで自家がこの戦いを通じて安泰を確保することなのである。

「大坂方もいったんの休戦は望んでおると思う。今晩使いを出し、明日にはわしが条件を取りまとめたいと思うが、異論はございますかな?」

 これについても表立った異論はない。

(ここは伊達に好きにさせておいて、もし条件に問題があれば、後でそのことを蒸し返して問い詰めるという手もあるのではなかろうか)

 と政宗にまとめさせた方が得だろうと考える者も少なくない。

「異論はなさそうなので、早速それがしの方で執り行うことにいたします」

 政宗もそうした空気を読み取っていないわけではないが、気にすることはない。

(後々細かいことを言われるより、今、ここで東軍名代としてわしが交渉をするという事実自体が効いてくるのだからな)

 政宗は既成事実を作ることに重きを置いていた。

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