第3話
夕刻、大坂城内では、豊臣秀頼と母・淀の方が満面の笑みで引き上げてくる軍を迎えていた。
「皆の衆、豊臣家のためによくやってくれました」
夏の陣が始まって以降、いや、大坂の陣が始まってから一年余りというものほとんどの時間金切り声をあげていた淀の方が急に優しい声を出しているものだから、諸将は感激というより不気味なものを見聞きしたかのような困惑した顔をしている。
そんな中でひときわ大きな歓声が上がった。毛利勝永が戻ってきたのである。
「おお、毛利殿。本日は素晴らしい戦をしてのけましたな」
勝永も突然淀の方に優しい声をかけられ、困惑を隠さない。
「は、はぁ…」
「そなたと真田殿のお蔭で、憎き家康と秀忠を討つことがかないました。礼を申しますぞ」
「いえ、当然のことでございます」
「頼もしきことじゃ。真田殿と毛利殿がいれば、今後も徳川家など恐れるに足りぬ」
と、頼りにされる勝永。しかし、その頼りにされた側の脳裏には数日前に「どうして揃いも揃って役立たずなのじゃ」と怒鳴り散らされていた情景が思い出され、知らず苦笑いが浮かんだ。
勝永が他の将と話をしているうちに、更に大きな歓声があがった。真田幸村が戻ってきたのである。赤備えの猛者はさすがに午前の半分超にまで数を減らしていたが、全員が充実した顔をしている。その先頭に、漆塗りの箱を持つ幸村の姿があった。
幸村は秀頼と淀の方の姿を見据えると、馬から降りて、箱を丁重に地面に置く。
「大御所・徳川家康公の御首にございます」
「おう、おう、真田殿。此度の戦、誠に見事にございました」
「ははっ、運がそれがしの方にございました」
幸村は一礼をすると、懐から書状を取り出した。
「伊達陸奥守より停戦の申し出を受けております。それがしもこの機に停戦することが望ましいと思いますゆえ、その許可をいただきとう存じます。許可をいただき次第、伊達と停戦交渉をしてまいります」
「停戦と、な?」
「ははっ。本日の戦こそ勝利しましたが、それでも我が方は兵力的に大きく負けております。一旦停戦をし、改めて準備をする方がよろしいかと」
「ふうむ…」
淀の方は半信半疑という顔をした。
「しかし、停戦をしても結局事態は変わらぬのではなかろうか? 前回、停戦をしたら堀を埋められてしまったが、そのようなことがまた起きるのではないか?」
「その心配はございません」
幸村は力強く答える。
「今回は、停戦をすることで確実に豊臣方が有利になります。すなわち、今朝まで徳川家は天下をほぼ手中にしておりましたが、それはあくまで前将軍家康と、将軍秀忠という二人がいたからこそでございます。この二人がいなくなれば、徳川家が揺らぐのは必至。前田殿のように転向を考える者も増えてまいりましょう。こちらは一旦体制を整えて、徳川家に揺さぶりをかけることもできるようになります。今、戦を急ぐ必要はございませぬ」
「母上、真田殿がここまで言うのですから、認めてよろしいのではないでしょうか?」
秀頼が母に進言した。淀の方はそれでも少し迷っているようであったが。
「そう、じゃのう。真田殿が自信をもって勧めることであれば…」
完全に納得した顔ではないが、幸村の方針を認めた。
「ありがたき幸せ。それでは、早速伊達殿と交渉してまいります」
幸村はそう言って、すぐに退出し、大坂城外へと向かう。毛利勝永がその後を追った。
「真田殿!」
「おお、毛利殿。いかがした?」
「それがしもついて行きましょうか?」
「いえ、それには及びませぬ。伊達陸奥守の家老にはそれがしの娘が嫁いでいますゆえ」
「左様ですか」
「それに伊達殿は伊達殿で野心を抱いております。ここで大御所の恨みを晴らそうなどというようなことはしませぬ」
「なるほど…確かにそうですな」
勝永は伊達政宗と面識はないが、どういう人物であるかは聞いている。徳川家康の仇討ちを狙おうなどというような殊勝な男ではない。今この時も、この状況を最大限に自分に有利に活かす方法を考えていることは容易に想像できた。
「もしかしたら、真田殿に部下になれ、などと申したりしませぬでしょうか?」
「うむ、その可能性はあるかもしれませぬ、な」
幸村は否定しない。
「とはいえ、今この時点ではそれがしは豊臣方の武将。いきなり伊達家に仕えるなどということはしませぬ、よ。もちろん、半年後に同じことがあればどうなるかは分かりませぬが」
「そうですな。それはそれがしも同じでござる」
「しかし」
幸村が感慨深げに言う。
「しかし、ここに来て一年。ようやく淀様にわしの言葉がそのまま受け入れられたと思うと、感慨深いものがありますわい」
勝永は思わず笑った。確かに、幸村の言がまともに容れられたことはこれまでなかった。家康を討ち取るという快挙をもって、ようやく受け入れられたのである。
勝永が大坂城内に戻ると、広間で宴席の準備がなされていた。
(真田殿が不在だというのに、宴席を開くのか)
勝永は若干不満を覚えたが、とはいえ、諸将も全員疲労の極みにあることも事実である。ここまで長い間劣勢を耐えてきた末の勝利を祝うことは間違いではないと思い、用意された自分の席へと移動した。
「おお、毛利殿も戻ってこられたか。それでは、本日の勝利を祝って、祝杯を」
秀頼の音頭で諸将が盃を手にし、乾杯をかわす。
たちまち、場は盛り上がり、諸将は酒食を楽しみ始める。
幸村に悪いと思ってはいたが、自身も空腹なのは間違いない。始まると勝永も食事に手を付け始める。
「おやおや、毛利殿。何やらのんびりとされているようで」
一人で食べているところに秀頼の旗本の一人、速水守久が徳利を持って近づいてきた。
「このような機会、滅多にないことゆえ楽しまねば損でござるぞ」
「ははは…。楽しんでいないわけではござらぬよ。ただ、今、この時も我が方のために交渉に向かっている真田殿のことを考えると、羽目を外すこともできないと思っているだけのこと」
「む…」
守久もそれはその通りと感じたのか。少し姿勢を直す。
「いやいや、別に速水殿がどうということはござらぬ。楽しんでくだされ」
「いえいえ、それがしも節度を守らなければ…」
「む、何やらそれがしの言のせいで、申し訳ござらぬ。まあまあ、それがしから一つ」
勝永は詫びて、守久の徳利を手にして酒を注ぐ。
「おう、おう。申し訳ない。ところで毛利殿」
「何でござる?」
「それがし、先程からあちこち回っているのだが、どうも人数が少ないように感じる」
「人数が少ない? これは異なことを…」
勝永は注ぎ終わると立ち上がって周囲を見渡した。
(確かに、少ない…)
「どうでござる?」
「少のうはござるな。ただ、恐らくは木村殿、塙殿、後藤殿らが討死したゆえではなかろうか」
木村重成、後藤基次、塙直政といった大坂方の名のある武将は、この日以前に戦死していた。他にも昨日までの戦いで戦死していった者も多い。そういう者たちがいなくなったために人数が少ないように見えるのではないか。勝永はそう考えることにしたが。
(明石殿がいないな…)
尚も見回しているうちに、明石全登の姿がないことに気づく。
(明石殿に関しては前田殿のところに行ったのだろう)
他に誰かいない者はいないか。そう見回していくが、はっきりしない。
(いかぬな…。わしも少し酒が回ってきたか…)
今この場に誰がいて、誰がいないかを確認するには、厳しい酔いが回ってきたのであった。
秀頼の座っている床の間には、家康の首が入っている箱が置かれてあった。これがあるがこその祝宴である。
宴が始まり、既に一刻あまり。
「おお、この中に家康の首があるのかぁ」
酒に酔った大男が家康の首の近くに近づいてきた。
ほとんどの者は気づくこともなく酔いを楽しんでいる。
「…どうされた?」
唯一、毛利勝永は男の雰囲気に異変を感じ、近づいて声をかけたが、それより早く大男は箱を足蹴にした。横になった箱の蓋が開き、首がごろんと転がる。
「どうだぁ! 我が恨み、思い知れ!」
酒に酔った勢いのまま、呂律の回らない声で叫び、外に転がった首をも蹴ろうとした。
「おい、何をするのだ!」
勝永が怒りのあまり、大男に飛び掛かり、そのまま突き飛ばす。
「長宗我部殿、気は確かか!?」
突き飛ばした男、長宗我部盛親に対して苛立ちを隠さずに怒鳴る。ここに及んで、周りの者の二人に視線も集まった。
「毛利、貴様、小身のくせに!」
盛親は立ち上がって、勝永に詰め寄ろうとするが、そこに大野治房が割って入る。
「長宗我部殿、落ち着きなされ!」
一方、治長が毛利勝永を押しとめる。
「毛利殿も冷静に、な」
「某は冷静でござる。血迷っているのは首を足蹴にした長宗我部殿でござろう」
勝永はそう言って治長をふりほどこうとする。治長が「助けてくれ」と周りに声をかけ、何人かがかりで勝永をおさえつけた。その間に、長宗我部盛親もはがいじめにされており、数人がかりで毛利勝永と長宗我部盛親を何とか引き離された。
「まあまあ、落ち着いてくだされ」
それぞれが押さえつけた勝永と盛親をなだめに入るが、お互いまだ鼻息が荒い。
長宗我部盛親は四国の雄であった長宗我部元親の四男であった。元親の長男信親が豊臣秀吉の九州征伐の途上で戦死したことから後継者と定められたが、関ヶ原で西軍についたこともあり改易処分を受けていたのである。その後、京都で寺子屋の講師などをして生活をしていたが、大坂の陣が始まると再起を賭けて僅かな人数を引き連れて城入りした。盛親自身勇猛な将であったし、また、盛親の大坂入りを聞いた長宗我部家の旧臣も集まってきており、城の中では有力な勢力であった。この日の戦いには参加していないが、前日の道明寺方面の戦いには参加し、東軍に少なくない被害を与えている。
改易されたという事実があることから、盛親の徳川家に対する憎しみが相当強いことは誰もが知っている。勝永も知っている。とはいえ。
(いくら憎い相手とはいえ、既に死んでいる者の首を足蹴にしようなど、正気の沙汰とは思えぬ)
勝永の怒りはおさまらない。それが分かるのだろう、大野治長が尚もなだめにかかる。
「毛利殿、長宗我部殿は悪酔いをされたのじゃ。それで鬱積したものが出てしまったのであろう、明日謝罪させるゆえ、何とかここは押さえてくれぬか」
「大野殿、それは筋違いというものでござろう。それがしは長宗我部殿と喧嘩をしたいのではござらぬ。長宗我部殿があまりにも人の道に外れた行為を行ったゆえ、怒りを表したに過ぎぬ。それにこのような行為をまかり通らせていては、秀頼公の威信にもかかわってくるとお思いではないのか?」
「毛利殿の言う通りでござる。しかし、今日だけは酒の席ということで…。以後、わしが責任をもってこのようなことがなきようにするゆえ」
「…分かり申した」
長宗我部盛親に対する怒りは収まらないが、大野治長がここまで言う以上、その顔を潰すことも本意ではない。
「それがしも少々熱くなったゆえ、外で頭を冷やしてくる」
勝永はそう言って広間を出て、中庭へと出た。そこまで歩くと、ふと、天守の外の様子も見たくなり、更に足を延ばす。
「これは毛利様」
門番の兵士が勝永に気づいて声をかけてきた。
「おう、お役目ご苦労であるな」
いつもそうしているように、門番に声をかける。
「ありがとうございます。あの…」
門番は、近くにいる別の門番と顔を見合わせた。何か言いたいことがあるらしい。
「いかがした?」
「先程、佐野様が城から出て行ったのですが、伝えたものかどうかと思いまして」
「佐野殿?」
名前には聞き覚えがあったが、顔は思い浮かばない。
「はい。中で宴会が始まったのに出て行ったので不思議に思っていたのですが…」
「佐野殿がどういう人物か分かるか?」
「いえ、名前のみ分かっているだけでございまして」
「ふむ…」
勝永は不安になった。
(もしかしたら、徳川の密偵だろうか? 宴会中に城を攻められたら一たまりもない)
しかし、外の様子を見るとまるで異変がない。城から少し離れた場所に陣取っている前田勢の明かりが見えるが、何か物々しい気配を感じることはない。
「少しばかり、わしもここにいる」
勝永はしばらく様子を見ることにした。何かあったら、自分達だけでも頑張らなければならないと思いながら。
様子を見ること四半刻。
外から馬のいななきが聞こえてきた。警戒を強めるが、近づいてくるのは一頭のようである。
「明石殿ではないか」
しかし、入ってきたのは敵でもなければ密偵でもない。前田隊のところに出かけたと思われた明石全登だった。
「これは毛利殿、いかがされた?」
「いや、佐野殿と申す者が城から抜け出したらしくて、密偵かもしれぬと警戒していたのだ」
「警戒していた、という割に、酒の臭いがするようであるが」
明石の言葉に勝永は苦笑する。
「うむ。途中までは宴を楽しんでおった」
「左様でござるか。さて、佐野殿…」
明石が名前をつぶやき、首を傾げる。
「そうした者がいたようには思うが、ちと誰かは思い出せぬ」
「明石殿も、か」
「ここにいる牢人は一癖二癖ある者ばかり。全員の素性を知ることなど無理であろうし、語っている素性にしてもどこまで本当か分からぬ。毛利殿のような有名な将ならともかくとして、そうでないなら何者か突き止めるのも至難の業ではなかろうか」
「そうではござるが、密偵であっては困る」
「密偵であるならば、もっと早くに徳川方に戻っていてよさそうなものであるが…。家康、秀忠が討たれてから舞い戻ってくる密偵に価値があるとも思えぬ」
「確かに。そうでござるな」
勝永も頷いた。明石の言う通りだからである。
「それがしのように単独行動をとるものもおるのだし、一々詮索していても仕方ないのではないか?」
明石は全く警戒している様子はない。ただ、明石が何事もなく城に戻ってきたということは城外の近いところに徳川勢がいる可能性がないということでもある。
(考えすぎか…。酒も回っているようだし、明日改めて考えよう)
勝永はそう考え、床へ向かうことにした。
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