第5話
翌11日。
吉川広家は萩を発ち、岩国に戻る。その頃には既に下松の付近に毛利軍の陣立てが整いつつあり、広家は最小限の編成をするだけで済んだ。
広家が突然、輝元の下で広島を攻撃すると言い出した時、当然ながら吉川家の重臣は驚愕した。
「殿、本気でございますか?」
「何が、だ?」
「広島を攻撃するという話でございます」
「うむ。わしと輝元殿の間で決まったことだ。それに攻撃するとはいかがなものか。広島は元々先祖発祥の土地である。取り返しに行くだけのことではないか」
尚も不満そうな諸将に広家が諭すように言う。
「良いか。わしは確かに宗家のために徳川家と誼を通じた。しかし、それはあくまで徳川家康公に対してのものである。仮に秀忠公が徳川の総帥であれば、わしは関ケ原で西軍の先鋒を務めて豊臣家の勝利のために邁進しておった。今、徳川家の総帥は秀忠公ですらないではないか」
一度息をついて、険しい顔で睨みつける。
「この15年で身も心も徳川家の家僕となってしまったのであれば無理強いはせぬゆえ、残るがいい。故郷への未練も当然捨ててもらうことになるが、な」
故郷、という言葉に多くの者が揺れ動く。
そう、毛利家・吉川家とも元来は安芸国に住んでいたのである。しかも、関ケ原の後での移転は120万石から30万国への減封を伴うものであったため、全ての者を連れていくことは無理であったため、安芸に残った者も多い。親戚や友人が安芸に残っている者も多いのである。
もう一押しだと睨んだ広家は、片足を大きく踏み込んで扇子を開く。
「良いか。今は願ってもない好機なのだ。このような状況で、元就様ならどのようなことをなされるか、考えてみよ」
しばらくの沈黙。やがて。
「殿がそこまでのお覚悟ならば、ついていきます」
吉川家の家臣一同が広家に平伏した。
12日には現在の毛利家の重臣である清水景治が岩国へとやってきた。
広家にとって、清水景治は複雑な思いを抱かせる男であった。というのも、内藤元盛が大坂城に入っていると判明した後、猛反発した広家と福原広俊が一線を退き、その後毛利家の中枢に入っていたのがこの男だったからである。
「吉川様、按配はいかがでごさるか?」
そうは言っても、清水景治は自分と同じく朝鮮にも渡った歴戦の将である。合戦の場においては他の者よりは頼りになることは間違いないので、大人げない態度を取って無用な対立を招くわけにもいかない。
「明日には出立できるよう進めておる」
「おお、そんなに早いとは」
景治が素直に驚いた様子は、広家を少し愉快にさせる。
「当然であろう、安芸では内藤が活動しているという。今は一刻が千金に値する」
輝元の天下への野心を実現するためには、とにかく豊臣家、徳川家の指針がはっきりするまでにできるだけ勢力を広げておく必要がある。
「なるべくなら5月のうちに広島城を落としてしまいたい」
広家の言葉に景治は更に驚く。
「それほど早く落とせますかな?」
「落とせる」
広家は自信をもっていった。
一見するとおかしな話である。毛利家は周防長門に36万石、一方、広島に拠る福島家は50万石。福島家の方が大身である。一応、毛利家の領国は実質的には52万石程度のものがあるとされており、幕府から「徳川家に楯突いた毛利が50万石を名乗るのはならぬ」と36万石にしておくよう命じられた経緯があるので劣勢ということはないが、あくまで互角であり鎧袖一触というわけにはいかない。
「そんなことを説明しなければいけないほど、清水殿は戦に疎かったかな?」
広家がニヤリと笑いながら尋ねると、景治は自らの額を叩いた。
「失礼をいたしました。吉川様がしばらくの隠居で冴えが鈍っているのではないかと不安でしたゆえ」
一方、広島城ではどのような状況であったか。
藩主福島正則は、豊臣秀吉の股肱の臣と言える存在であり、関ケ原以降恭順を誓っているとはいっても、徳川家康にとって心許せる存在ではなかった。そのため、大坂の陣では冬、夏ともに江戸城の留守を任されていた。
かわって、正則の嫡男忠勝が大坂へ出陣しており、忠勝はそのまま駿府に滞在していた。
結果として、広島にいるのは正則の次男正利と尾関正勝らの重臣であった。
福島正利は関ケ原以降に生まれたため、当然ながら関ケ原以前の大名同士の激しい対立や戦闘というものを理解していない。
一方、尾関正勝は正則の家臣団の中でも勇猛をもって知られていた。福島家にとってみても彼がいれば不測の事態が起こったとしても城を守れるという計算はあったのだが、誤算であったのは、領民の非協力であった。
そうでなくても家康・秀忠の戦死で右往左往していたところに、内藤元盛らが領民を抱き込んでしまっていた。このため、領土の西から進軍してきた毛利軍に対する情報が遮断されてしまい、結果福島家は全く無防備だったのである。もちろん、「毛利家が安芸に攻めてくるはずがない」という思い込みも大きかったのであるが。
結果として城方が「毛利軍来たる」の報告を受けたのは17日、実に広島城の数里まで近づいてきてからのことであった。これではまともに軍備を整えることもままならないし、領民の非協力的な態度もあって、兵站も整わない。
しかし、何故、安芸の領民は福島家に対して非協力的だったのか。
福島正則は政務をおろそかにしたわけではない。治水工事や町の建設などを進めてきていた。広島を大きな町として完成させたのは正則である。
領民も福島家に恨みを抱いていたわけではない。もちろん、小早川水軍のあった三原近辺では、福島氏が徳川家に遠慮して水軍衆を帰農させるなどしており、全く不満がないわけではなかったが、総じて福島家の統治に問題はなかった。
しかし、それ以上に毛利家への哀愁があった。毛利家は120万石以上あった領地を36万石に減らされるとあって、家中の人間の多くがそのまま安芸や備後に残ることになった。それからまだ15年。意識の中に毛利家中の人間という者も多い。
更に福島家は決して覇者ではない。50万石に迫る大身であるとはいえあくまで徳川家の一大名に過ぎない。
かつて中国地方全土を支配した拠点地の領民として、それは小さくない屈辱なのであった。
そのような状態であるから、尾関正勝にできることといえば、広島城に籠城することくらいである。何とか揃えた2000あまりの兵で広島城に籠城をした。
もっとも、籠城とはいっても広島城は堅牢な城ではない。長期の籠城は到底無理で事態を察したどこかの家が救援に来てくれることを期待するしかない。
しかし、その唯一の事態を期待しづらいのもまた現実であった。徳川・豊臣ともまだ今後の方針すら整わぬ中で、わざわざ他大名を助けにくる者がいないことは正勝も承知している。江戸にいる正則や、大坂に向かった忠勝(この時点では駿府にいる)が戻ってくることを期待することはもっと期待薄であった。来ないだろう援軍を待つしかないという困難極まりない状況である。
そうした状況を理解していることもあり、城を包囲した毛利軍は、直接攻撃することなくまずは心理的に揺さぶってきた。
「救援が来ると思っているのか? 当主すら決まっておらん徳川家が救援を出す余裕があると思うか?」
西からこんな声が飛んだかと思えば。
「左近衛権少将(正則の官職)殿は豊臣を名乗るほどの方でありながら、江戸で家康の虜となり、今また、家康と秀忠が死んだにもかかわらず、無暗に籠城するとは。貴殿らは一体誰のために戦うのであるか?」
東からはこんな言葉が飛んでくるし。
「領民は我々の味方だ。お前たちは孤立無援で、そのうえでなお大義もない戦いをするつもりなのか?」
南からも飛び交う。
正勝は何とか「頑張れ」と声をかけるが、毛利軍の言葉は事実も含んでいる。兵士達の戦意は目に見えて落ちていたし、地元の兵士の中には毛利家の人間だった者もいる。彼らがいつ変心するかも分からない。
「むぅぅ…」
城を包囲する毛利軍を見て、正勝は歯噛みした。かつて戦場で片目を失っている正勝の隻眼は、包囲網の中に吉川家の旗を見つけて更に気落ちする。親徳川方であるはずの吉川広家まで加わっている以上、毛利家が全力をあげて広島城を攻撃しにきていることが明らかであった。
(勝ち目はない。では、どうするか?)
正勝は敗北を受け入れた。しかし、今後を見据えてどう行動したらいいのかが重要である。
(降伏は論外だ。江戸にいる殿まで斬られてしまう可能性がある。とすると、東に落ち延びることか…。大坂に頼りたいところであるが、これも殿のことを考えると…)
江戸にいる正則のことをどうしても考えなければならず、それが更に選択肢を狭める。
(現状では、岡山に逃げるのが最善か…)
もっとも、その最善の策をどう実現するかという問題もある。
(ひとまず向こうに要求してみるか…)
正勝は包囲方に、開城する旨を伝え、そのための条件を送った。
『一、正利の安全。二、領民の安全。三、福島家の兵士が東へ移動すること』
以上が保証されるのであれば、自らが腹を切る旨を述べる。
すぐに返事が城に投げ返された。広家の花押も入っている。
『一と二は了承。三は否。正勝の切腹の必要なし、正利についていくことを許すが、三は否』
というものであった。
正勝は尚も考えて、条件を修正して送り返す。
『安芸・備後出身の兵士は広島に残す。福島家元来の兵士については安芸退出を認めてほしい』
(これも受けられぬというのなら、全員討ち死にしかないわ)
正勝はそう覚悟を決めた。
正勝からの修正案を受け取った広家は、景治にも確認させる。
「どう思う?」
「…特に問題はないように思いますが」
「わしも同感だ。福島家の兵士を置いていかれても我々も困るだけよ」
広家はすぐに承諾の書状を書いて、城に送るよう指示を出した。そのうえで日付を確認する。
「明日は20日か。退出に2日ほど経っても22日。まずまずの首尾であるな」
5月中に広島城を落とすという目標を達成し、満足気に笑うのであった。
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