第6話

 徳川家康が死んで最も動転した家、それは紛れもなく肥後・加藤家であった。

 とはいっても、藩主加藤忠廣は熊本にあり、家臣団も大坂には赴いていない。加藤家は四年前の清正の死から忠廣の相続の後、家臣団の統制に苦労しており、大坂に出陣できるような状況でなかったのである。

 そのため、戦場での被害という点では加藤家の被害はゼロであった。

 にもかかわらず、加藤家が最も動揺したのは何故か。

 彼らが豊臣恩顧の家の中でももっとも徳川家に接近していたからである。



 加藤家と徳川家の接近は朝鮮の役に遡る。この時、清正は小西行長や石田三成と対立し、讒言を受けてしまった。結果、不始末ありということで、秀吉により伏見に蟄居させられてしまったのである。

 程なく伏見大地震が発生し、清正が一番にかけつけたことから秀吉の勘気が収まったとされているが、実際には徳川家康のとりなしによって助けられた部分も大きく、それがなければ最悪切腹まで至った可能性すらある。

 以来、加藤清正は徳川家康への接近を強め、自らが家康の娘(養女)を妻として迎えることになっただけでなく、家康の孫娘の琴を忠廣に嫁がせることも取り決めた。その琴は四月に熊本へと下向していた。更には清正の娘八十と家康の十男頼宣の婚約も決まっていた。豊臣家股肱の臣という立場から、徳川の一族大名という方向に転向していたのである。

 そこまで立場を固めてからの徳川家康・秀忠戦死の報である。加藤家にとっては致命傷と言っても過言でないほどの事態であった。

 大坂からの報告を受けた加藤家は当初は「そんな馬鹿なことがあるものか」と全く取り合わない態度を取っていた。しかし、程なくそれが事実であると分かり、熊本城内は連日、蜂の巣をつついたような騒ぎとなったのである。

「とにもかくにも、早急に薩摩国境を固めなければ」

 と主張したのは加藤美作守である。この美作守は現在の加藤家においては数少ない親豊臣派の家臣であり、実際、彼の一派は大坂城内への物資輸送・支援を密かにとりおこなっていた。

「だが、しかし、城を作らぬは、徳川家との決め事であるに…」

 加藤正方ら徳川派の家臣はこう主張する。

 城を作らぬとは、関ヶ原以降の徳川家による文治政治への移行を受けてのもので、国内の城の幾つかを破却し、仮に島津家などの侵入があったとしても勝手に迎撃するのではなく幕府の指示を待てというものであった。大名同士のもめごとは自主解決をしてはいけない、幕府の裁定を待てということである。

 徳川家と接近しつづけている加藤家にとっては、幕府の権威というものは何よりも重要である。従って、それを曲げるわけにはいかない。徳川派の家臣にとってそれは絶対のことであった。

「貴殿らは正気なのか?」

 美作守が主張するのも無理はない。

 もちろん、平時であれば幕府の裁定を待つのは正しい。しかし、家康・秀忠が戦死し、後継者すら決まっていない状態を平時と考えるのは至難であった。

「貴殿らの骨折りによって、幕府との関係が強化されたことは違いないが、次の当主もそのことを考えてくれるのか?」

 という指摘も、徳川派にとっては耳が痛い。

 加藤家は大坂に軍を派遣していない。それは戦力が温存できたという一方で後継者決定に至るまでに何の意見表面もできず、何らの外交政策も打てないことも意味していた。この後、新当主の決定に伴い、多くの外交政策や縁談などがまとまることが予想されるが、加藤家はそこから完全に置いてきぼりにされてしまったのである。大坂の陣に参加できなかったこととも相まって、徳川家内部における加藤家の序列が大幅に下がることは明らかであった。

「少なくとも、島津の侵略に備えるくらいのことはすべきだと思うが」

 美作守が再び防備の話を切り出す。

「今や我々は幕府の最優先ではなくなったであろうし、そうだとすると裁定するまでに島津が福岡や小倉まで占領している可能性もあるのだからな」

「その場合は清浄院様(家康の養女で、清正の継室)にお願いして」

 話は一行に進む気配を見せないが、この間、加藤正方も美作守も両方とも忠廣に意見を聞くということはない。


 加藤忠廣は元々、後継者として予定された存在ではなかった。兄の忠正がいたためである。慶長12年に忠正が齢7つにして没したため、清正の子供の中では最年長となったが、正式に後継者として立てられることはなかったし、そのための教育を受けることもなかった。資質もさることながら、清浄院との間に男子が生まれることを期待していた可能性もある。

 いずれにしても、後継者が決められることのないまま、慶長16年に清正が急逝した。清正は熊本に戻る途中の船中で発病し、口が利けないまま死んでしまったため、後継者の決まりはない。そこでやむなく家臣達が幕府に対して末期養子として忠廣を立てていたことを願い立て、それが何とか受け入れられたのである。こうした経緯もあり、後継者としての資質不足は顕著であったし、年齢も若いということもあって、ほぼすべての家臣が忠廣を軽く見ていた。


 それこそが実は加藤家の最大の問題なのであるが、当事者はどちらもそのことを考えてはいなかった。



 さて、加藤家が熊本で小田原評定を繰り返している間、島津家はどうであったか。

 島津家も加藤家と同様に、長らく深刻な家臣団の対立を抱えていた。

 既に関ケ原の戦い以前から、島津家には当主が誰であるかという問題があった。天正年間に九州統一寸前まで持ち込んだのは義久であるが、その義久は秀吉の九州進攻を受けて降伏した。この時、秀吉は義久に薩摩一国を安堵したが、弟の義弘に大隅を与えた他、島津家臣の伊集院家にも領地を与えた。更には義弘の息子久保に日向国の一部を分け与えた。すなわち、島津家は義久、義弘、久保、伊集院家の四つに分かれることになったのである。久保は朝鮮の役で戦死し、弟の家久がその後を継いだ。

 こうした家内の主導権争いから庄内の乱が発生し、島津家久と家老格であった伊集院家が交戦することになった。これにより島津家は関ヶ原にはわずかな軍しか派遣することができず、その大胆な撤退戦で名をあげたが戦果を得ることはなかった。

 その後、義久の死、伊集院家の滅亡もあって家内の対立はようやくおさまってきたが、対立による損失を埋め合わせるために今度は藩政改革を行わなければならず、とても大坂まで出兵できる状況ではなかったのである。

 それでも夏の陣には遅まきながら出陣しようとしていたが、結局間に合うことなく途上で報告を受けることになった。

 当然、徳川ではなく豊臣が勝ったという報告に島津家久も青くなる。

「さてはて、さても真田、天下一の兵よ…」

 絶句するように漏らした後、家久は今後のことを考える。

(家康も秀忠も死んだとなると、当分九州には手を出せないだろう。ということは)

 伝令に尋ねる。

「黒田長政はどうしておる?」

「黒田様…ですか? ほとんどの東軍大名は、葬儀のために東上しております」

「東上…。ふ、ふはははは!」

 家久は突然大笑いをした。

「そうか。東上していったのか」

「あ、あの…、黒田様が何か?」

「よい。おまえが気にすることではない。そうだな…」

 家久は一転して、浮かない顔になる。

「久しぶりにあの男に会いに行くか…」



 大隅国・加治木。

 鹿児島へと戻る途中、島津家久は僅かな供回りを連れて、この地を訪れた。

「お前たちは残っておれ」

 供の者に命じて、一人で先へと進む。しばらく進むと、小さな屋敷が見えてきた。屋敷の家人が家久に気づき、仰天してひれ伏してくる。

「いるか?」

 家久が短く尋ねると、家人は頷いた。

 屋敷に上げられ、居間へと向かう。

「む…」

 軒先から庭をぼんやりと眺めている老人がいた。その目には力がなく、何を見ようとしているのかも分からない。

(随分と老いたものだ…かつて鬼島津とも恐れられた男が…)

 その老人こそ、家久の父義弘であった。現在は剃髪して維新入道を名乗ってはいるが、その後、手入れはしていないようで白い髪がうっすらと生えている。

「……」

 家久は無言のまま隣に座った。義弘はその様子にも気づかないのか、視線を向けてくることはない。

(その方が有難いが、な…)

 家久はこの父親が苦手であった。

 いや、より正確に言うならば、家久は自分より目上、あるいは自分と同格の全ての人間が嫌いであった。既に亡くなった伯父の義久もそうであるし、その義久の娘で正室となっている亀寿もそうである。父の義弘も当然自分より目上である。

 目上であっても、例えば徳川家や朝廷の人間については何年に一度かでしか顔を合わせないのでそれほど苦労はないが、毎日のように顔を合わせるような人物については本当に嫌いなのであった。

 そうは言っても、今はこの父親に聞きたいことがある。

(今日一日の辛抱よ)

 そう思い、父に向き直った。

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