北陸と江戸と
第1話
加賀・金沢城。
城主にして加賀能登120万石の主前田筑前守利常の正室珠姫は5月以降、毎日のように悲嘆の涙に暮れる日々を送っていた。
珠姫の父親は江戸幕府第2代将軍徳川秀忠である。
その徳川秀忠が大坂で戦死したというのも彼女にとっての不幸だが、それを決定づけたのが夫の利常であったということは更に彼女を悲しみの淵に叩き落していた。
ただ、彼女にとって最も悲しいというのは父親が死んだということではない。もちろん、それも悲しいのであるが何より不安なのはこのことによって自分が放逐されてしまうのではないかということであった。
3歳の時に政略結婚で金沢に来た珠であるが、利常との相性は良く、仲むつまじく過ごしており、16歳にして既に母親となっており、現在も妊娠中である。
そもそも3歳で金沢に来ているのであるから、江戸に対する記憶もほとんどなく、思い入れなどはない。彼女は金沢が気に行っていて、申し分のない夫に恵まれたと思っている。
であるから、余計に夫が父を討ったという事態は恐ろしいものであった。徳川家との決別を表明した以上、珠は利常にとって政治的には不要な存在である。直ちに処刑されるということはないにしても、出家を強要されるかもしれないし、江戸に送り返されるかもしれない。仮に残ることができたとしても、敵対勢力の女を正室にしておくのは通常ありえない。となると、誰か別の女を迎えて正室にする可能性もある。正室の座を取られるのは仕方がないにしても、寵愛が奪われるのは耐えられないことであった。
そうした恐怖から、珠は利常が戻ってくるのを極度に恐れていた。もちろん、夫に会えない寂しさは募るのであるが、帰ってこない限りは送り返されたり、最悪の事態に至ったりする可能性はない。
5月13日。
前田利常は金沢に戻ってきた。珠も現実に戻らなければいけない日である。
しかし、現実と直面する勇気がない。
「妾は病気です。会えませぬと伝えてください」
実際、気力がない。毎日のように夢で離縁を宣告されており、寝るのも辛いから無理に起きている。当然、それは心身の不調を招いていた。
「奥方様、殿は不調でもいいから、一目見たいと」
「嫌でございます」
こんな子供じみた拒否は金沢に来た直後にしかしていない。本来なら、「お腹の子のためにも、しばらく放っておいてください」と言いたいのであるが、自分の立場を考えるとそれも強弁できない。「どうせお前との子はもういらないのだ」と放逐されてしまいかねないからである。
「お願いでございます。私を殿の妻の一人と重んじていただけるのであれば、どうか、私の我儘を聞いてくださいませ」
取るに足らない従者相手に、珠はすがるように願う。
珠の立場は誰もが知っているし、誰もが珠を愛している。
ここまで言われてしまえば、誰も「殿のご指示ですから従ってください」とは言えなかった。
付き人から珠の状況を聞いた利常は、大坂での強気な態度がまるで嘘であったかのようにしおれている。
「…薬を用意してくれ。わしが持っていく」
利常はそう言って、薬師らに薬を作らせた。渡されると、溜息をつきつつ渡り廊下を奥の部屋に向かう。
「珠、いるか」
中に入ると、珠は入口に背中を向けていた。それが利常にはあたかも自分を拒絶しているように見える。
仕方ない、とは理解している。
自分の行動について結果がどうあれ、それが前田家のためになしたものであることは疑いない。しかし、他所から、というより自分が討ち取った徳川秀忠の娘である珠にそんなことを言うことは到底できない。
前田家と珠のどちらが大切かと言われれば、前田家である。それは珠を軽んじているわけでは、決してないが、それを珠に押し付けることは利常にはできない。
「珠…」
利常は付近の侍女や乳母を一睨みにして隣室に下がらせ、その場で座り込む。
「済まぬ、珠」
「殿…」
利常はその場で平伏したが、珠はそれでも振り向かない。
「わしはお前の父を討った」
「…存じております」
震える声で返事が返ってくる。
「わしは義父様が憎かったわけではない。だが、このようなことも戦国の習い。前田が天下を取るためにそうせざるをえなかったのじゃ。許してくれ」
「……」
利常は正室の無言を拒絶と受取り、溜息をついた。
「…わしはそなたと離れたくはない。だが、そなたがわしを許せぬ、もういたくないというのなら詮無きこと。徳川家に戻るというのなら手配の準備をいたす。好きなように申してくれい」
「…江戸には、戻りたくありませぬ」
珠が振り返り、利常のそばに歩み寄る。その目は涙で一杯であった。
「私は、金沢に、殿のそばにいとうござります」
「だが、わしはそなたの父を討ったのだぞ?」
「分かっておりまする。ですが、私は金沢に来た時から前田家の女になったと思っておりまする。前田家の繁栄のために、殿がなされたことであれば私は何も申しません」
「珠…」
利常は涙を流して、珠を抱き締める。
「どうか、どうかおそばに置いてくださいませ」
珠も涙を流しながら、利常の背中へと手を回した。
奥の間から出てきた利常に家老の本多政重が近づいてきた。
「殿、奥に会われていたのですか?」
「ああ」
「それでいかに?」
「珠は許すと申してくれた…」
「左様でございますか。それで…」
「何だ?」
「殿と奥方様の仲の良さは存じておりますが、この先はいかがなされますか?」
「何もせん。珠が望むならともかく、わしの方から珠を離縁したりすることは断じてない」
「ただ、今後のことを考えると…」
政重は尚も何か言おうとするが、利常はそれを遮るように言う。
「大和。お主の言いたいことは分かる。それが正しいことも分かる。だがわしにとって珠以上の妻はおらぬのじゃ。もちろん、今後、どうしても前田家のために決断せざるをえなくなるかもしれぬことは分かっておる。だが、今はそうでないであろう。そうである以上、離縁はできぬ。正室から下ろすこともできぬ…。こればかりはわしの我儘じゃ。何を言われてもやむをえぬ。ただ、今のわしの偽らざる思いなのじゃ…」
政重は溜息をついた。ここまで主君に言われてしまえば、もはや何も言い返せない。
「そうまで言われるのなら仕方ありませぬ。殿の御言葉を他の者にも伝えて参りましょう」
「済まぬ」
利常は、この件に関しては本当に気に病んでいるのか、政重に深々と頭を下げる。
「殿、それがしも奥方様のことは良く存じておりまする。余程のことがない限り、奥方様の不利になるようなことは、しとうございませぬ」
これもまた、政重の率直な気持ちであった。また、他の者もほぼ全員そうであると思っていた。
珠は徳川家の女ではない、前田家の正室なのである。
利常は本田政重としばらく今後の方針について話をする。その間は活き活きとした顔をしていたが、一点政重と別れるとまた珠に会いに行く前の浮かない顔になった。また会いに行きたくない人物と会いに行かなければならないという態度がみえみえで、このあたりはまだ22歳という前田利常の若さを示しているとも言える。
利常は溜息をつきながら、城内を歩く。
その行き着いた先は藩祖ともいえる父前田利家が生前利用していた部屋であった。
中には従者以外に2人の女性がいた。1人は既に老境にさしかかっており、もう1人も若いとはいえない。
「これは殿…」
老境に差し掛かった利家の正室まつであった。現在は芳春院と号している。
「金沢に戻っておられたのですか」
話している内容は普通であるが、言葉の節々に毒というか嫌味が入っているのを利常は感じた。
(まあ、無理もなかろうか)
まつは利家亡き後の前田・徳川の間を必死につないできた人物である。利長に謀反の疑いがあったときには率先して江戸に赴き自ら人質になり、そこで交渉役を務めるなど非凡な能力を見せている。彼女がいたから前田家が120万石を保てているといっても過言ではない。
その彼女が必死でつなぎとめていた前田・徳川間を利常がひっくり返したのであるから、面白いはずはない。
加えて、まつは利家の正室であるが、利常の母親ではない。また、利常の母親である千代保(おちょぼ)とは険悪な仲であり、これもまた利常にとっては頭が痛いところである。
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