第7話
越前・北ノ庄城では松平忠直不在の間、弟の松平忠昌が名目上の指揮をとっていた。忠直より二つ年下でこの年、18歳。
もちろん、この年齢の忠昌に越前の政務をとりしきることは難しく、実際には本多富正らの家老が行っているのであるが。
忠昌は武芸に対する愛着が誰よりも強く、時間さえあれば槍や刀の修練を積んでいる。この日も城の中庭で素振りを行っていた。
「おう、忠昌。元気にしておったか?」
素振り中に突然かけられた声に、忠昌は驚いて振り向き、「おっ」と声をあげる。
「兄上! 戻られていたのですか」
「ああ、とは言ってもすぐに九州に出立しなければならないが」
「聞いております。九州の鎮圧を任されたとか?」
「うむ。わしにそんなことができるのかどうか心もとないが」
「それなら、それがしが代わりに行きましょうか?」
「忠昌では、のう」
忠直は意地の悪い笑みを浮かべる。
「九州には大坂よりももっと剛の者がおる。今度は討ち取られてしまうのではないか?」
忠昌が顔を真っ赤にして反論する。
「あ、あのようなことは二度とありませぬ!」
二人の話は、大坂城での戦いにおける左太夫という名の念流の剣士との戦いを指していた。作戦中にたまたまその男に出くわした忠昌であったが、一瞬にして供の者を三人も失い、忠昌自身も取っ組み合いで負けてしまい、あわや討ち取られる寸前まで行ってしまったのである。他の護衛が後ろから槍で刺すなどして数人がかりで討ち取ってどうにか生き延びたが、一歩間違えれば他の多くの者と同様、帰らぬ人となっていたかもしれない。
忠昌は余程このことが悔しかったらしく、本来なら隠しておきたい秘密であるにもかかわらず、敢えて記録として残すことにした。兄の忠直が「もう少し自分を良く見せてもよいのではないか?」と言ったほどであり、失態を公にすることで発奮しようという忠昌なりの考えがあった。
「勝の具合はどうだ?」
「いたって健康なようです。呼んで参りましょうか?」
「いや、いい」
「あと、兄上に江戸から使節が参っております」
「使節?」
忠直は首を傾げながら、弟に案内されて大広間へと向かった。
「おお、お主、源七郎ではないか」
忠直は現れた使節を見て相好を崩す。
そこにいたのは井伊家の侍大将の一人余吾源七郎であった。直孝の剣術師範も務めていた男であり、寡黙だが剛勇で知られていた。過日の大坂での殿の際にも目を見張る活躍を見せており、武芸好きの多い越前松平家兄弟には軒並み好感を抱かれている男である。
「越前様、お久しぶりにございます」
「良い、良い。掃部は堅苦しいだろうが、わしの前でそのような真似はせずともよい」
「いえ、これがそれがしのやり方でございますから」
「そうか。それならよいが…」
源七郎は頑固さでも知られている。忠直も無理強いはしない。
「殿様からの伝言を預かってまいりました」
「何だ?」
「上総介様が、高田にて病になられ、四国には行けないとのことでございます」
「何? 上総介が病じゃと?」
「はい。高田に戻った後…」
「そうか…。全く、世話の焼ける奴じゃのう」
「代わりを見つけるまで、越前で準備をしていてほしいと伝えてほしいとのことでございました」
「いや、それをしては時間がかかるであろう。源七郎、掃部に申し伝えてくれ。わしの方で心当たりが一人いる。今すぐに次を派遣するは無用、とな」
「……」
「源七郎、聞こえたか?」
「ははっ。確かに承りました」
「わしの方でその人に断られたら、改めて彦根に連絡する。急ぎ掃部に伝えてくれい」
「承知いたしました!」
源七郎は行動を決めると早い。素早く一礼をし、そのまま小走りに外へと向かっていった。
「兄上、心当たりというと、私のことですか?」
源七郎がいなくなると、忠昌が尋ねる。
「たわけが。お主を連れていったら誰が越前を守るのじゃ」
「それはまあ、直政が」
「あっ!」
「ど、どうしました?」
「すっかり忘れておった。伊達政宗殿から、直政に縁談の申し込みがあったのじゃ」
「何と、伊達殿から?」
「うむ。長女の五郎八姫は上総介忠輝に嫁いでおり、次女の牟生姫を嫁がせたいと言っていた」
「ほう、直政が伊達家と…」
「わしは九州に向かうゆえ、お主から伝えておいてくれ」
「ええっ!? それを伝えるのは当主の役目では?」
「わしは駿府に行ったり、江戸に行ったり、今度は九州とへとへとなのじゃ。お主はずっと越前におるのだし、うまく説明しておいてくれ」
「いや、いや、兄上、単にやりたくないだけですよね!」
「くどいぞ。わしは疲れたから寝る。後は任せた」
忠直はそう言って、奥へと入っていった。
「いや、奥方様はどうなさるのですか? あぁ、もう行ってしまわれた。全く、身勝手なのだから…」
忠昌は溜息をつき、仕方ないとばかりに弟の屋敷へと向かうことにする。
後には、ぽかんとした顔の福島正則、松平信綱がいるだけであった。
翌日、気乗りしない足取りで忠直は奥の間へと向かった。
「戻った」
そう言って部屋に入る。
「これは殿」
と答えたのは正室の勝である。
「体の具合はどうだ? 大丈夫か?」
「はい。今年のうちには生まれると思います」
「そうか…」
二人にとっては最初の子供である。家に対して無頓着なところがある忠直も、自分の子供が生まれるということは感慨深い。しかし。
「聞いておるとは思うが、わしは九州に行かなければならなくなった。江戸に呼んだと思ったら、九州と、忙しないことよ」
「おめでとうございます」
「めでたいかのう?」
「はい。殿が徳川の重鎮としての地位を占めておられますので」
忠直は苦笑する。
「義母様と同じことを言うのう。わしなんぞを有難がるようになっては徳川家も末じゃぞ」
城の外を指さす。
「越前の者に聞いてみるがいい。家臣と喧嘩ばかりしている馬鹿殿という返事がほとんどではないか?」
家臣と喧嘩をしているというのは事実ではある。
父の死後、年少で家督を継承したことから、家臣団の統制に苦労し、幕府に強訴されるような事件を度々起こしていた。結果として、幕府から統治の体制を改めるよう指示を出されるなどしており、統治者としての忠直には高い評価は与えられていない。
「わしは考えたことをすぐ口にしてしまうから、外にいると意外と役に立つのかもしれぬが、越前では軽率過ぎるとの誹りも受けるからのう」
「であれば、ますます九州に行くのは良いことではありませんか。殿にとっても、越前の人達にとっても」
「…まあ、そう言われると否定はできぬ。わしは戦場でしか役に立たん男かもしれん」
「そのようなことはないと思いますが、殿がそう思うのなら、戦場ではしっかり働いてくださいませ」
「厳しいのう」
忠直は苦笑する。
「当然でございます。私は千や珠には負けたくありませぬので。殿にはせめて副将軍くらいにはなっていただかないと」
「はは、副将軍か…」
「そのためにも九州で頑張ってきてくださいませ」
「うむ。まあ、できることはやってくる」
どうやら心配が必要な妻ではなかったらしい。
頼もしいようで、怖いようで、忠直は複雑な思いを抱いた。
三日ほどの滞在の後、忠直一行は京都に向かって出立した。
その頃には、余吾源七郎の急ぎの飛脚が江戸にいる井伊直孝のもとに遣わされる。
「代わりはいる、だと?」
「はい。九州郡代様はそのように」
「一体誰を…?」
井伊直孝には予測がつかない。
(立花殿を四国に置くというのは難しいし、いくら越前様がいい加減と言っても引き連れたばかりの福島殿を置くということもないだろうし、信綱ということもないはずだ。越前から忠昌殿も連れていくつもりだろうか? しかし、前田への押さえを考えると忠昌殿を連れられれば我々が困ることになる)
分からないが、忠直が「いらぬ」と言う以上、それを信用するしかないとは思った。
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