第6話 本多正信①
井伊直孝の口から、本多正信が久しぶりに江戸に来るらしいという話が伝えられると、たちまち江戸城は色めきだった。
「本多殿の言うことであれば…」
家康と正信の関係は誰もが知っている。井伊直孝や伊達政宗に信用できない面々も、正信の言うことなら聞くしかない。
もっとも、これは井伊直孝にとって必ずしも有難いこととも言えない。仮に正信が直孝達すなわち松平忠直の考えに反することを言った場合には、完全にその目がなくなってしまう。
(そうなった場合に、越前様はどうするのか。我々はどうすればいいのか)
いきなり最後の決断を迫られることにもなりかねない。
時機を同じくして、宇喜多秀家の件で、松平忠輝も江戸に現れることになった。前田利常が珠を連れてきたのと同様に、こちらも正室の五郎八も揃って来ている。
その五郎八、伊達屋敷を訪ねて久しぶりに父・政宗と面会することになった。とは言っても、特に忠輝から言われていることもない。「久しぶりに親子水入らず過ごしてくればいい」というだけである。
「高田はどうだ?」
「はい。非常に過ごしやすいところでございます」
政宗の問いかけに、五郎八も当たり障りのない答えを返す。
「上総殿の目のことは残念であった」
「はい。ただ、武士であればそのようなことはやむを得ない。殿はそう申しております」
「前田家との間にやりとりがあるという噂も聞いたのだが…?」
政宗は少し鎌をかけてみることにした。
「はい。殿が病気になられたという噂を聞きつけたのか、金沢御前様が気遣うような手紙を何通か送ってくれ、殿もそれに対して返信しております」
金沢御前こと珠は忠輝とは伯父・姪の関係にあたる。何の不思議もないではないか。五郎八の言葉はそう言わんばかりである。
「そうか…」
「中身が欲しければ、仙台か江戸にお送りしましょうか?」
「いや、それはいい。他に何かあるか?」
「何かと申されましても、あ、そうですね。殿は最近、父上のことが分かるようになったと申しております」
「わしの気持ち?」
「はい。目が一つになり、見え方が一つになったので迷うことがなくなった。そう申されております」
「…!」
「他には、特に変わるところはございません。もちろん、北の方では最上家がいなくなり両酒井家や上杉家が入ってきましたので、付き合い方を変えなければならないということはございますが、それは仙台の方でも同じではないでしょうか?」
「そうだな。うむ、ご苦労だった。今日はゆっくり休むといい」
「はい。ありがとうございます」
五郎八は父に平伏した後、しずしずと出て行った。
政宗はぼんやりと天井を見た。
(迷うところがなくなったというのは、前田と共に進むという決意なのだろうな。そして五郎八もわしより、忠輝を選ぶつもりということか…)
知らず、笑みが浮かんだ。
(まあ良い。あやつが本心から忠輝を選んだのであれば、それはそれで、どう転ぼうと伊達家が天下に残れる、少なくとも副将軍に近い地位は掴み続けるということなのだからな)
一方、忠輝は井伊直孝と面会をしていた。
「ということで、徳川家とマニラとの方で同盟を結んで、切支丹関係を最終的に確定させようというのが越前様の考えでございます」
気乗りしない顔で直孝が説明している。
怪しい存在ではあるが、松平忠輝は確定的に敵方に回ったわけではない以上、上役として説明しなければならない。しかし、前田家にとって喜ばしいものでない以上、松平忠輝が賛成する見込みはない。
と思っていたのであるが。
「なるほど。越前殿も中々面白いことを考えられる」
忠輝は予想以上に前向きな様子を見せた。
「それがしは御台所様にも嫌われているかと思いますので、どこまで支援できるか分かりませんが、この忠輝も越前殿の考えがかなうよう努力しましょう」
「…真でございますか?」
直孝には意外な展開であった。
「当然でございます。この忠輝、徳川家のためになることしか考えておりませぬゆえ」
(嘘くさいのう…)
と思ったが、もちろん、そんなことを口にしたりはしない。
「これはありがたい。上総殿の助けがあれば、鬼に金棒にございます」
「ところで、それがしが提案した宇喜多殿の件についてはいかがでございましょうか?」
「はい。こちらは家光様も前向きに検討しておりますので、次の話し合いで決まるのではないかと思います」
「なるほど。次の話し合いはいつでございますか?」
「いや、それがまだ決まっていなくて…」
直孝の返答に、忠輝が「うん?」と不思議そうな顔をした。
「話し合いの日取りが決まっていないというのは不思議でござるな」
「いや、実は、玉縄から本多佐渡守殿が来るという話がありまして、佐渡守の意見を聞いたうえでということになっております」
「本多佐渡が来るのですか。なるほど…」
忠輝は頷いて溜息をついた。
「それがしの苦手な御仁でござるのう」
「…それはそれがしも同じでございます」
この点では一致する二人であった。
その本多正信、さすがに老齢ということもあり、体調を整えてのこととなったため、江戸に入ったのは5月であった。それでも江戸に入ってくると、その足で江戸城へと向かい、家光への面会を求める。
家光とお江与、お福も本多正信の面会はすぐに認めるところであった。
「越前殿の考えを容れるのは現実的ではありませんが、とはいえ、つっぱねてしまうと元々いい加減な御仁、九州で我々から独立してしまう恐れもあります。本多殿のような宿老の意見があれば、少しは風向きが変わるかもしれませんが…」
松平忠直が「本多正信がこう言う以上従うしかない」となる見込みは低い。しかし、仮にそうなった時に江戸や他の地域の大名達に「本多正信が言ったのだから、それは家康が言うも同じ」という説得力を与えることはできる。
(とはいえ、もし、本多殿が越前殿と同じことを言うのであれば…)
逆に忠直の方針を認めるしかなくなる。ただ、それはそれで「他ならぬ正信が言うのだから」という諦めがつくのも事実である。
であるので、登城してきた正信にお福が尋ねる。
「それで、本多殿のお考えは…」
正信はゆったりとした動きで右手を出した。お福を制止するような動きである。
「それがしも江戸に来たばかりで、他にも顔を見せたいところがあります。急いてはことを仕損じるとも申しますし、二、三日ほど時間をいただきたく存じます」
「…分かりました」
城を出ると、その日のうちに松平忠輝、井伊直孝、土井正勝らと顔を会わせる。老齢とは思えない精力的な動きに、一同舌を巻いた。
翌日には井伊直孝も面会した。
「…ということでございます」
直孝は正信に対して、家光達にも話してきた忠直の路線を説明した。
「ふむ…」
正信は小さく頷いただけである。
「ただ、それは禁教令には真っ向から反することになるのう」
「はい。それはもう無理だというのが越前様のお考えです」
「ほう。大御所様や前将軍の意向はもう無理だと」
「九州では切支丹が堰を切ったかのように蜂起しました。そのような現実がございます。全面的に押さえつけるのではなく、管理すべきというのが越前様のお考えでございます」
「ふむ。まあ、良かろう。ところで」
「はい?」
「お主のところに切支丹が一人おるだろう。今度の会議の時、連れてきてくれぬか?」
「それは…、構いませんが」
どういうことだろうか、直孝は正信の考えが読めない。
切支丹を会合に呼ぶということは、一見すると切支丹を認めることのようにも思える。しかし、切支丹に対する毅然とした態度を示すべく、その場で斬り捨てるということも否定できない。本多正信という人間の胆力ならば、そうしたこともありうる。
「分かりました。本人の同意を得て、連れてまいります」
とはいえ、ここまで来れば引き下がるわけにはいかない。
「うむ。それでは、わしはこの辺で退出するよ」
「他にも会われる方が?」
「うむ。これから酒井 (忠世)と青山 (忠俊)に会う。夜には沼田から来る真田と会う」
「…真田?」
前の二者は老中であるから分かるが、真田信之は予想外であった。
とはいえ、正信の真意を問いただすことはできそうにないし、真田信之も強かであるから聞き出せるとも思えない。
不思議な思いをしつつも、直孝は正信を見送った。
本多正信が退出していくと、直孝はすぐに益田好次を呼び出した。
「…ということで、本多殿が来てほしいと言っている。ひょっとすると、斬られることになるかもしれないが、どうする? 来たくないというのなら、構わない」
「いえ、行きます」
好次は即答した。
「私は今まで、多くの友人や仲間を死地に送ってまいりました。仮に死すのだとしても、今度は私の番というまでのこと。当然のことでございます」
「…分かった」
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