第2話 下交渉
夕刻。
井伊直孝は井伊家の上屋敷に、松平信綱と益田好次を呼び寄せた。
既に松平信綱から、概要については知らされているが、その確認も含めてである。
「徳川家はマニラから100万両を借りて、後々それを返還する。代わりに対馬と長崎においては切支丹の信仰を認める…ということであると」
「はい。ただ、実際に100万両来ることはなく、無事に届いたとしても15万両でありますが」
「100万両が来るぞと言った方が前田家と毛利家には効果があると」
「左様でございます。今の徳川が一番苦しいのは資金と兵糧。これが十分にあれば、兵力では圧倒しております」
信綱が根拠を滔々と語る。そうした話は信綱から聞くまでもなく、直孝自身よく知るところであった。
「そして、100万と言いつつも15万ということになれば、天下統一後、マニラも強く出ることはできません。もちろん、切支丹について認める必要はありますが、大きな譲歩をしなければならないということはないでしょう」
「うむ。越前様はこういうところで、条件を引くのではなく足すのだから凄いのう」
本人がいないこともあってか、賞賛の言葉が素直に出た。
「九州にいない以上、わしが越前様の判断にあれこれ言うことはない。切支丹の禁教は大御所様や前将軍様の方針ではあったが、今となってはそれをしっかり守っておれないというのもある。前田も切支丹と話をしているらしいし、毛利もいずれはそうするだろうから、我らが認めないとしても、この二家が認めてしまってはおしまいだからのう。問題は、だ」
直孝は腕組みをした。
「この条件、果たして家光様とお江与様が了承するかじゃのう」
「切支丹にも流派がございますので、対馬と長崎にそれぞれを入れることによって、行き過ぎた切支丹の信仰は制限できると思います」
「いや、そういうことではなく、もっと単純に切支丹を受け入れることを認めるかどうかということじゃが。まあ、頼めば何とかなるかのう…」
直孝の楽観的な認識は、翌日早くも崩れ去る。
「切支丹と同盟をするというのは、さすがにやりすぎではないでしょうか?」
反対しているのは家光でもお江与でもなく、お福であった。
とはいえ、お福が言うことには二人とも従うし、三人の中で一番信頼できるという点ではもっともやりづらい相手である。
「まして100万両など借りてしまった場合、我々が後々支配されることもあるのではないでしょうか?」
「いえ、越前様が言うには、マニラには100万両を揃える能力はありません。これは信綱に同道している切支丹からも聞いております」
「今はそうかもしれませんが、仮に100万両を用意したらどうなるのですか?」
「むっ…」
それは全く考えていなかったことである。
「ただ、それは現実的なことではないと思われます」
と反論するが、協定文に『100万両』とあるのに、「これを揃えるのは現実的でない」と主張するのも無理な話である。
「これだけ借りれば、確かに毛利も前田も従うかもしれませんが、心の裏では舌を出すようなことになるかもしれません」
「むう…」
井伊直孝は小さく呻いた。
(この部分は、そもそも越前様と根本的に考えが違うからのう…)
端的に松平忠直は「形だけ従っていれば是」と考えている。どうせ本心から従うことはないのだし、内心に反発の意識があるだけで叩くというなら、今後島津とも切支丹とも再戦しなければいけない。島津家久のような立場の者が従っているのなら、毛利や前田も似たような心理でいいだろう、忠直はおそらくそう考えている。
しかし、家光達はそうした現場にいるわけではないので、どうしても完全な服従を求めてしまう。毛利や前田から何か国か取り上げて屈服させて終わり、という形は望んでいない。
「また、従う形にいるということは、前田利常を赦してしまうことになりかねないのでは?」
「……」
その指摘は直孝の痛いところを突く。
徳川秀忠が死ぬことになった原因は、前田利常の裏切りにある。家光とお江与にとっては前田利常の首はどうしても欲しいところであったが、忠直は当然そうしたことは考えていない。従う旨を申し出さえすれば、前田利常も豊臣秀頼と同じように受け入れる可能性が高い。
(権限の問題や活躍の妬みであれば、何とか説得ができるのであるが…)
反対している原因は、統治に関する根本的な認識の相違である。これを埋めるのは相当なことであった。
「九州は遠いですが、もう一度、忠直殿にそうしたことを考えてもらいたいと思います」
こう言われて、直孝は従うしかなかった。
引き下がった直孝は午後、再度二人を呼んだ。
「根本的な考え方の相違にあるからのう…。これを埋めるは容易ではない」
「なるほど…。私も江戸に居続けていればそうであったかもしれません。越前様についていれば、『なるほど、こういうことをするのか』と何となく受け入れてしまいますが、家光様や御台所様に越前様についていけというわけには参りませんからなぁ」
「この点について」
益田好次が口を開いた。
「越前様は、仮に断られれば内藤様や我々が広島や加賀に行って同じことを提案するだろうと考えております。おそらくその通りになると思いますし、そこで『松平越前は100万両を提案した』という事実が前田や毛利の戦略を揺るがすことになると思います。ですので、越前様にとっては断られることも想定内ではあるわけですが」
そこまで言って、姿勢を直す。
「しかし、それでは我々は困るのです」
「困ると言うと?」
「我々…と申しましても、天草や島原で蜂起した切支丹幹部共ということになりますが、我々としては越前様以外の者に従うつもりはないからです」
「ほう…?」
「私は筑後川で越前様と戦い、完敗いたしました。武士であれば一揆に勝ったとあれば徹底的に弾圧するものでございます。しかし、越前様や伊豆守様は我々を認めてくださいましたし、多くの者が一揆をせずに済むにはどうしたらいいかを考えてくださいました」
「うむ」
「誰も、死ぬかもしれないのに一揆などしたくはないのです。しかし、生きるためにせざるをえない時があるのでございます」
そこまで言って、好次は苦笑を浮かべた。
「まあ、もちろん、それを利用する者共がおりまして、私もそうした人間であることは否定いたしませぬが。とにかく」
好次は再度姿勢を正した。
「うまくいかなければ仕方ない、というのは越前様もそうでございますし、我々も、恐らく江戸の方々もそうだと思います。しかし、考えていただきたいのは九州には、いえ、日ノ本には代わりの選択肢などない者が大勢いるということです。もし、彼らが再度立ち上がらなければならないと考えた場合、今度は降伏という選択肢はありませぬ。最後の一人になるまで戦い抜くことでしょう、自らの命のために」
「おいおい、わしを脅しても何もでぬぞ」
直孝が苦笑して、溜息をついた。
「だが、まあ、好次の申すことも分かる。越前様はああいうお人だから、今回の破談以外でもあれこれ江戸から言われれば、『もうやめた』となる可能性だってあるからのう。うむ、やはり、現実的には何とかするしかないが…、どうしたものかのう」
苦慮しているところに、余吾源七郎が入ってきた。
「お取込み中、失礼いたします」
「どうした?」
「近江より大久保様がいらしております」
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