第2話 猿楽場にて

 慶長21年(1616年)。

 年が明けた江戸城は前年と同じく、伊達・井伊の両名が主導する体制が動いていた。お互い、この1年は全く領国に戻っておらず、江戸において家光の補佐役として多忙を極めていた。

 もっとも、松の内にあたる正月の7日間はさすがに二人とも休みをとっており、二人の姿はそれぞれの屋敷の中にあった。


 1月7日、井伊直孝は江戸に出てきていた家老の奥山朝忠を伴い、猿楽見物に出かけていた。

「山陰の状況はどうなっておる?」

 直孝の耳にも、但馬から若狭にかけて毛利が攻め込む可能性があること、その場合に京極家の動向が不確定であることなどは届いていた。

「今のところはまだ…」

「山陰が攻め込まれるとなると、越前は動けないだろうし、我々も動くしかない」

「はい」

 お互い、猿楽を見物しながらも小声で自国の話題などをしてしまう。

「…もう少し余裕のある時に見物したいものじゃのう」

 井伊直孝は猿楽が元来好きというわけではなかったが、徳川家康・秀忠が愛好していたため付き従うことも少なくなかった。そうして付き合っているうちに次第に演目も覚えてきて、一端の愛好家にはなってきている。

「左様でございますな…」

 そんな話題をしながら、猿楽見物をしばらく楽しんでいるうち…。

「室も江戸に連れてくるかのう…」

「その方がいいかもしれませんな。殿は当分、江戸から動け無さそうではありますし…うん?」

 朝忠が眉根をひそめて、後ろの方に視線を移した。目上の者に対する態度としては不適当だが、先ほどから後ろの方から変な声があがっていることは直孝も気になっている。その声が更に大きくなり、見物客の苛立ちを強めていた。

「…先ほどからうるさいのう。何をしているのじゃ?」

 と直孝も視線を移す。その視界にぐったりとした男を支えようとしている数人の男がいて、彼らが「しっかりなされよ」と声をかけている様子が映る。

「急病ですかな?」

 朝忠が言うが、直孝はぐったりしている男にどことなく見覚えがあった。

「朝忠はここにいよ」

 指示を出して、後ろの方へと歩いていく。

「どうしたのじゃ?」

 近づいて声をかけた時、ぐったりしている男の正体に気づく。

「うん? 最上殿ではないか…」

 最上義光の次男である最上家親であった。改めて見ると口から泡を吹いており、尋常な状態ではない。

「おい、その方ら、のんびり声などかけておる場合か。早う医師を呼べ」

「さ、左様ですな」

 二人ほどが走って出ていく。

(だが、しかし、いかぬな…これは…)

 医師ではない直孝にも、家親の息が絶えていることは感じ取れた。

 と同時に違和感をもつ。

(周りにいるのは家臣共だろうが、ただ声をかけているだけで誰一人、医師も呼んでおらんではないか。そのような薄情な話があるのだろうか…)

 考えているうちに医師が着いた。脈を取ろうとして、首を左右に振る。

(やはり…)

「おお、殿…。何としたことだ…」

 配下の者達がそれぞれ動揺したり、泣いたりしている。もはやほとんどの客にとって猿楽どころではないが、それでも壇上では淡々と演目が進んでいる。

「お手数をお掛けいたしました。殿の遺体は我々の方で…」

「待たれよ。ここは江戸である。そなたら山形の者に任せるわけにはいかん」

 最上家親の遺体を引き取ろうとする配下達の行動を、直孝が止める。

「先ほどから様子を見ていたが、最上殿の死には奇怪なことが多々ある。故に、徳川家の方で検死する」

「いや、それは…」

 配下の者が明らかに拒絶反応を示すが。

「この井伊直孝がそうせよと申しておるのだ。何か文句があるか?」

 と強い口調で言うと、「井伊殿!?」と一様に驚いて押し黙った。


 猿楽が終わる。

「誰か一人だけ残り、他の者は屋敷へ戻るがよい」

 直孝はそう言うと、別の者に指示をし、奉行所に連絡を取らせる。

 最上家の家臣は、直孝の指示通りに一人を残して、帰って行った。

「楯岡光直と申します」

「うむ。一体何があったのだ?」

「は、はい。猿楽を見ていたところ、急に殿が苦悶の声をあげはじめまして、倒れた時にはもうどうすることもできず…」

「最上殿は病気でも患っていたのか?」

「いいえ、そのようなことは…」

「…口から泡を吹いておる。何かしらの急病か、あるいは…」

 その先は敢えて黙り込む。

 やがて、入口から騒々しい音が聞こえてきた。

「南町奉行所の島田利正でございます!」

「こっちへ来い」

 直孝は利正を呼び寄せる。

「この件、ここの直孝が調査にあたることとする。そなた達の管轄ではないが、死因についてはわしらには調べようがないので、検死を奉行所の方でしてもらいたい」

「ははっ」

「問題ないな? 楯岡殿」

 直孝が念を押すように言う。楯岡光直は「ははっ」と頷いたものの、その表情の奥底に不満がはっきりあることにも気づいていた。

「明日、江戸城に出仕するように」

 直孝はそう言うと、光直を帰らせた。

「死因が分かったら、すぐに伝えよ。あと、仮にも57万石の大大名であるゆえ、死因を調べる以外には粗相のないようにな」

「承知!」

「さて…」

 井伊直孝は後の処置を任せると、伊達屋敷へと向かうことにした。


「最上家親が!?」

 伊達屋敷にて、最上家親の死を伝えたところ、伊達政宗も当然驚愕する。

「色々不審なところがありますゆえ、奉行所に検死を任せておりますが…」

「毒殺の可能性が高いと」

「はい」

「それがしもそう思います」

 伊達政宗も頷いた。

「最上義光亡き後、最上家は混迷を極めております。家親は三弟の義親を殺害し、その弟の義忠も家督を狙っている等の状況。そのような中で、猿楽中の急死となれば、自然死と考えるのはあまりにも難しい。おそらくは内内に始末するつもりだったのでしょうが、偶々井伊殿が同じ場にいたのが運の尽きだったのでしょう」

「その場合、どうしたものでしょう」

 最上家と蒲生家については、大大名であるのに問題が多いことから削減から改易について検討されていた。実際にこれだけの問題が発生したとなると、改易ということになるが。

 とはいえ、わざわざ江戸で当主を変死させるとなると、仮に直孝がいたという誤算があったとしても、相当な覚悟である。

「山形の方でも既に家親派が攻撃されているかもしれませんな」

「うむ…」

 政宗の表情が曇る。

 山形で兵が動いているとなれば、当然懲罰のための兵をあげる必要がある。しかし、関八州の兵力が既に西に向かっている以上、山形を攻撃するための多数の兵力を用意しづらい。

「山野辺義忠はこの機会を狙っていたのかもしれませんね」

「うむ。ただ、だからといって、何もしないとなると徳川家の沽券にかかわる。山形での状況次第によっては、伊達家から派遣してでも何とかせねばいかん」

「…いずれにしても、証拠如何によっては行動せざるをえませんね。いやあ、頭が痛い話です」

 直孝は溜息をついた。

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