第9話

 5月28日。鹿児島。

 出陣の準備を整えている島津家久のところに喜入忠続が走りこんでくる。

「殿、天草と島原で切支丹が蜂起したとのことです」

「何?」

 島津家久は目を見張る。

「月が変わってからという話を聞いていたが…」

 天草の切支丹との交渉の経緯については後醍院宗重から聞いている。

 小西家にも仕えたこともあり、顔なじみでもある男の言うところである。それが嘘であるとは思えない。

「殿?」

「いや、何でもない。結構なことではないか。これで肥後の連中も我々に構っていられなくなるはずだ」

 家久は忠続を返して、城の廊下を歩く。

(まあ、蜂起が発覚しそうになって慌てて決起するということはよくあることだ。天草に島原と広範囲に渡っておるからのう)

 家久はそう考えて自分を納得させる。

 決起の準備を整えた切支丹側が島津の力など頼らずに蜂起する自信がある、という可能性について思いいたることはなかった。



 肥前国・唐津。

 寺沢広高もまた天草での蜂起の報告を早い段階で受けていた。

「だから!」

 広高は叫ぶ。

「だから、わしは強圧的なことはしたくなかったのじゃ!」

 寺沢広高は豊臣秀吉配下であり、戦場よりは後方で活躍をなす部類の男であった。事務処理能力を買われて秀吉旗下に入った後、関ヶ原では東軍について唐津に天草を領有することになった。

 広高は切支丹ではなかったが、当初、切支丹を弾圧するようなことはなかった。虎穴を突いて虎に暴れられる危険性を恐れたのである。しかし、二度に渡る禁教令を受けて、弾圧せざるをえなくなった。微温的な態度を取っていたら、徳川家に睨まれて改易などの処分を食らうかもしれなかったからである。

 そうして行った切支丹弾圧の結果が激しい一揆である。広高にしてみれば、「それ見たことか」と言いたいところであったが、それを言うべき家康・秀忠は既にこの世にいない。もっとも、天草の民の不満の源泉には、広高が行った検地で実際の倍以上の石高を計算され、それに基づいた過酷な徴収もあったのだが、そのことについて広高は都合よく見ないふりをしている。

「徳川家のことが決まらぬのに、天草のことにまで手が回らぬ。唐津領内をしっかり守ることとせよ」

 ほとんど考えることもなく、広高は天草を放棄する考えを示した。



 一方の島原。

 こちらは戦国時代を通じて有馬家が治めていたが、前年に日向に移転したことにより幕府直轄領となっていた。

 幕府にとって痛恨なことに、一揆がおきていた時はまさに家康・秀忠の死を受けて混乱の極みにあった時である。

 おまけに森宗意軒や蘆塚忠右衛門らの率いる切支丹一揆軍の数は天草で決起した益田・千束の手の者よりも多かった。幕府軍はこの攻撃をまともに受けることはできないと判断し、島原城の防御に専念し、周囲の大村藩や熊本藩、佐賀藩に要請を出すことになった。


 要請を受けた側はどうか。


「島原まで出兵している間に宇土から熊本を狙われるかもしれぬ…」

 と、熊本の加藤氏はこれまでと同様に二の足を踏んでいる。



 肥前の先にある大村藩では、この春、大村喜前が病気がちであったことから子の純頼に家督を譲り隠居しているなど、支配体制の転換期にもあった。

 このこともあって、大坂には出陣しておらず、領内に兵士が残っているという利点はあり、兵力という点では頼りにされていたし、純頼も鎮圧の意欲に満ちていた。ただちに数千の兵力を編成し、大村城を出陣し、島原に向かおうとした。

 しかし、大村もまた切支丹の多い地域であり、しかも家臣の中にも切支丹が多くいた。他ならぬ純頼自身、切支丹であったが禁教令を受けて改宗し、以降は切支丹の弾圧に励んでいたのである。

 また、純頼は大村藩の支配体制を確立するために遠縁の一門衆を追放するなどの強硬措置もとっており、多くの者の恨みを買っていた。

 その結果として出陣直後の5月31日、純頼は何者から毒を盛られてしまった。辛うじて一命はとりとめたものの出陣どころの状況ではなくなり、大村藩もまた自領の維持に努めるしかなくなったのである。



 結局、一揆鎮圧のために乗り出したのは佐賀の鍋島家のみであった。

 とはいえ、鍋島勝茂は大坂に出陣しており、佐賀にはいない。代わって、勝茂の父直茂が鎮圧のための音頭をとることになる。

 鍋島直茂はかつては肥前の熊と恐れられた龍造寺隆信の側近であり、隆信の死後、島津家と張り合い、豊臣・徳川家の下で家名を守ってきた歴戦の雄である。七八歳と高齢なこともあり、最前線に赴くことはできないかと思われたが。

「殿、お歳を考えくだされ。ご無理をなされては…」

 出陣準備をしている直茂を、家老の深堀茂賢が制止しようとする。

「茂賢。お主は知らぬであろうが、わしのかつての主・山城守家兼様は九〇歳を超えて尚、家のために出陣したのだ。それを考えれば七八のわしがどうして城で寝ていられようか」

 直茂は力強く反論し、自ら鎧を着こんで馬にもまたがる。

「わしは数倍の大友軍とも、鬼島津とも戦うてきたのじゃ。たかだか一揆軍に負けるようなことはないわ」

 老将直茂の言葉に、兵士達も大いに張り切る。こうして鍋島軍は佐賀から諫早へと渡り、島原へと向かった。



 島原の一揆の首謀者は芦塚忠右衛門という、小西行長の旧臣であった。また、参謀を務める森宗意軒もまた小西家の人物でもあった。もっとも、この宗意軒という男は朝鮮の役の際に船が難破し、南蛮船に助けられて南蛮の地まで向かったと主張しているなど、異色の経歴の持ち主でもあった。「更に明にも渡って火薬技術を学んだ」と語る経歴を全て信用しているわけではないが、忠右衛門は宗意軒の能力については信用していた。

「佐賀から来る鍋島軍はおよそ五〇〇〇」

 宗意軒の情報に、忠右衛門は渋い顔をする。

「どうすればよい?」

 忠右衛門は宗意軒と、もう一人参謀としてついてきてもらっている有家監物に尋ねる。この有家監物という男は、有馬氏の臣下であったが、主家の日向移転の際には島原に残ることを選択していた。当然、島原のことにも詳しく、切支丹ということもあって忠右衛門も頼りにしている存在であった。

「島原は隘路も多い地形ゆえ、うまく動けば包囲することも可能ではあるが」

「だが、相手は鍋島直茂だ。歴戦の将であるぞ。我らが包囲するつもりで、逆に包囲されてしまうかもしれぬ」

 忠右衛門の危惧に、監物も頷いた。一揆軍は数こそ多いが、戦に慣れているわけではない。忠右衛門と監物、宗意軒は戦の経験もあるが、鍋島直茂と比べて自分達が上だと考えることは決してなかった。

「正面から戦うのは避けて、うまく転進しつづけるのが最善であろう」

 監物の提案に二人も頷いた。

 一揆軍の強みは、島原全体の切支丹達の支援を受けられることである。逃げ回っていても食糧に困ることはない。また、戦い続けていれば九州の他の地域の切支丹も立ち上がる可能性もあり、そうなると鍋島軍もいつまでも島原にいるわけにもいかない。

 鍋島軍が疲れるか、補給に問題を抱えるまで決戦を避けて逃げ回ればいい。彼らはそう決定し、翌日からそのように行動したのである。



 そうした動きはすぐに鍋島直茂の知るところとなる。

「なるほどのう。一揆軍め、小憎らしいことを」

「いかがなさいましょうか?」

「兵の装備などの差があるから、日野江など要衝を守ることはできるが、鎮圧という点では鍋島家だけでは難しいだろう」

「そうすると、細川殿や黒田殿の力を借りるということになりますか」

「うむ。佐賀を出る前に要請を送ってはおるが…、問題は福岡も小倉も当主不在、しかもわしのような老練な代理がおらぬということじゃ。果たしてどうなるかは分からぬ。いずれにしても、迂闊に島原に進むことは難しい。諫早で待機し、日野江城に危急の場合のみ駆けつけることとしよう。ま、我々が日野江に向かう構えを見せれば、一揆軍は引くであろうが」

 かくして、鍋島軍は諫早で待機をし、北九州からの支援を待つこととなった。



 島原・天草の一揆によって、島津軍は日向進攻を容易くしたが、北九州諸藩が藩主不在の中で切支丹への防御態勢を強固しなければならないことは別の者をも助けることになった。

 玄界灘方面からの攻撃を心配することがなくなった毛利輝元に他ならない。

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