第2話
竹千代の乳母・お福は一足早く駿府に駆けつけていた。目的はもちろん、立花宗茂と会うことにある。
反逆者・明智光秀の縁者ということもあって、お福の行動は慎重を極める。部下にあらかじめ近くの茶などを取り寄せさせ、それを各屋敷に行商して回っていた。このような緊急事態に行商など、通常なら許される話ではないが、お福自身が幕府要人と密接なつながりがあることから許可は容易である。
各屋敷へ出入りする大半は偽装のための商売である。売れようが売れまいが関係ない。
目的は立花家であるが、立花家にだけ出入りしているとなると疑われる。従って、立花家を含めた全員に行商をし、警戒感を薄めようとしていたのである。
立花家の所在を掴むと、お福自身が変装をして部下とともに行商に出向く。
大大名家ではない立花家であるから、軒先で慎重に探っていれば本人が出てくることも多いだろうと思っていたが、事は想像したより簡単に運んだ。
「この辺りでもっとも安い茶の行商でございます」
元々利益をあげることが目的ではないので、価格は実際に安い。
玄関でそう呼びかけると、「分かった。入るがよい」と通されたうえ、「殿を呼んでくる」となった。お福としては願ったりかなったりである。
程なく、現れた男は、四〇くらいの壮年と見えた。
(立花殿は伊達殿と同じ年であるから、今年で四九のはず…。若きことよ)
「それがし、実は茶のことは全く分からんで、な」
前に座った男・立花宗茂は並べられた商品を眺めながら、独り言のように言う。
「ご存じかとは思うが、それがしは関ケ原の後、改易処分となり、方々を流浪することとなった。幸いにして支援してくれる者が多かったので今があるが、当時は世間知らず故、食べ物や身の回りの物のことで多くのものに迷惑をかけてしまって、な。直接見て取ってよろしいかな?」
「はい。お殿様に触れていただければ茶も喜びます」
「どうであろうなぁ。米を床にばらまいてしまったとか、雨浸しにしてしまったとか、そんなことばかりだ。食べ物にとって、それがしはありがたい存在ではないだろう。む…」
宗茂が取り上げた茶の下に、高級な装飾を施された封書が入っていた。
「…これもそれがしが見てよろしいのかな?」
「はい…」
「それでは」
宗茂は封書を取り、中を開いた。読んでいるうちに視線が険しくなる。
「…ふむ。目標はそれがしであったか」
「目標?」
「このような時勢に駿府にいる各大名のところに出入りする茶の商人などおるまい。いずれかの大名に対する何がしかの目的があるのだろうと思って、悪戯心をもって会ってみたわけだが、そうか。それがしが目的だったとは」
「竹千代様の乳母で、福と申します」
自己紹介をすると、宗茂もさすがに驚いた。
「何と、次の将軍様の乳母が直々に動いておられるとは」
「まだ、竹千代様が次の将軍と決まったわけでは…」
「決まりますとも。伊達陸奥守にとって、ここで争って徳川家の勢力を減じることは損にしかなりませぬ。竹千代様で決めてしまって、後見人として上総介様をつけるわけですからほとんど同じことでございます。その後、征夷大将軍位、豊臣家の問題を対処することで功績をあげればいいわけですから」
「なるほど…」
宗茂の推測にお福は感心した。
(やはり竹千代様を託すのはこの人をおいて他にない)
お福はそう決心し、改めて宗茂に頭を下げる。
「立花殿、どうか御台所様と竹千代様の支えとなっていただけませぬか?」
「お福殿、それがしは徳川家の一大名ですから、当然徳川家のために尽くす所存でございます。御台所様や竹千代様のために尽くすのもまた当然のことでございます」
「そうではなく、直接、竹千代様を支えてほしいのです」
「申し訳ござらぬが…」
宗茂の言葉に、お福は眼前が一瞬真っ暗になる。
「立花殿がついてくれねば、徳川家は…」
「勘違いされないでほしい。先ほど申しました通り、それがしは徳川家のために力を尽くすこと、これは間違いございません。ただ、それがしは既にこの人のために動くと決めておりますゆえ、二重に主を置くわけにはいきません」
「それは…上総介殿か?」
茫然と尋ねるお福に対して、宗茂は首を横に振る。
「竹千代君ほどではありませぬが、これからの徳川家を背負って立つ方だと、それがしは思っております」
「それは一体…」
徳川を背負って立つと言われても、お福には誰のことかさっぱり分からない。その後、しばらくそれが何者であるか聞こうとしたが、宗茂は答えることがなかった。
夕方、お福は立花家を後にした。その表情は暗く沈んでいた。
次の日。
「いやあ、少人数の旅は中々面白いものであったわ」
駿府に三人ほどの供をつれて、松平忠直がかけつけてきた。実際、あちこち難所も通ってきたのか七五万石の大大名とも思えないよれよれの服装をしており、知らぬ者が見たら傾き者か何かと勘違いしそうである。
「…来る途中に何かあったら、とか考えないのですか。越前様は」
井伊直孝が仏頂面で出迎えて、溜息をつきながら衣装を用意している。
「よろしいですか。越前様は事の次第によっては将軍様になるかもしれず、それがなくても副将軍、それに準ずる立場になることが想定されているのですぞ。そのような人が、どこかで野垂れ死になどということになっては、徳川家のいい恥さらしでございます」
「ハハハ、将軍やら副将軍になった日には隠居して、助次郎と角三郎でも引き連れて旅にでも出るわ。そんなものは忠昌がやればいい」
陽気に着替えてはいるが、いざ着替え終えると、外を歩きながら。
「それで、実際のところ、どういう様子なのだ?」
と状況を確認する。
「伊達政宗もおそらく竹千代様の擁立で動くだろうと、もっぱらの噂です」
「そうなるとお主は加増が見込まれて結構なことだな」
「井伊家のことなどどうでもいいのです」
直孝が強い剣幕で言い、忠直は肩をすくめる。
「越前様が徳川家のために働くのであれば、加増分をそのまま差し上げてもいいくらいです」
「それは困る。お主の恩義つき所領など、いただいたが最期死ぬまで祟られそうだ」
「越前様! うん…?」
いつもの口喧嘩になりそうなところで、直孝が下を向いた。足下にどこからやってきたか、猫が近づいてきて「食べ物をくれ」とばかりに直孝の足を叩いている。
「よう分からんが、お主はえらく猫に好かれておるな。大坂でも陣の中に五匹くらいおったし」
「…邪魔なことこの上ないのですが、祟られても困るので、ぞんざいに扱うわけにもいきませんしね」
忌々しいと毒づいているが、結局手慣れた手つきで猫を持ち上げ、近くの茂みに移すと駆け足で去っていくのであった。
「猫を連れ歩いておれば、面倒な時、あやつを追い払うことできるかもしれぬな。でも、猫は直孝よりも面倒か…」
期せずして直孝と離れてしまったので、一人で駿府の町を歩いていると、正面から見覚えのある顔が近づいてきていた。
(また面倒な奴が来た…)
土井利勝であった。家康の信任深い譜代の一人であり、直近は秀忠の側近となっていた。先の合戦でも、秀忠の本陣にいたはずである。
(一緒に死んでおればよかったのに)
会話をするのも面倒であるが、といって避けて通るのも癪であるからそのまま進む。
無視してくれよと思っていたが、向こうから声をかけてきた。
「これは越前様、国許に帰ったともお伺いしておりましたが」
「うむ。何せ隣国の前田が大坂方に寝返ったため、忠昌と打ち合わせをする必要があったのでな」
「左様でございましたか。葬儀にも欠席されるという噂も聞いておりまして心配しておりましたが、お姿をお見掛けしまして安心いたしました」
「そうか」
早く離れたいので、そのまま歩き去ろうとするが利勝が引き留める。
「ところで越前様、今後のことでございますが、越前様はどのようなお考えでございましょうか?」
「今後のことというと、何のことだ?」
「もちろん、徳川家の今後でござる」
「知らん」
「し、知らんとは…?」
「わしはおまえと違ってうつけだからな、そんなことは知らん。それにわしも父上も、遠い越前に押し込められていたから、江戸のことについて何も知らぬし」
「ぐっ…」
利勝は短く呻いた。「おまえたちのせいで、俺達父子は徳川本流から外されたのだ」という強烈な反発が込めたことを理解したらしい。
「わしは竹千代には恨みはないが、叔父上やおまえには恨みがある。それと比べて伊達や上総介には恨みがない。だから、伊達が勝とうがどうしようがわしの知ったところではない」
これまで再三主張していることを、改めて土井利勝にも主張する。
「しかし、わしの周囲の全てがそう思っているわけではないし、わしがこれだと思う人が違うことを考えているのなら、それには素直に従う。わしが言えるのはそれだけだ」
「これはと思う人物とは…?」
「そこまでおまえに言う必要もないだろう。そもそも、おまえは長らく徳川の重鎮面をしていたくせに、一つ戦に負けただけでわしのような小童にまであれこれ聞くようになって、己が情けないとは思わないのか? もういいだろう。わしもやることがあるのだ。おまえも暇ではないだろうし」
忠直は半ば無視するように、利勝を置いて前へと進む。目指す場所があるのかというと、最初はなかったが、歩いているうちに次第に駿府城に顔を出すかという気になった。あまり快く思ってはいないが、それでも祖父家康が終始愛した城である。
(わしがいきなり行くと忠輝らが不愉快に感じるかな)
聞いてはいないが、現時点で駿府城の主になっているのは松平忠輝であろうことは想像がつく。そこにいきなり対立候補の自分が乗り込んでいったら、余計なもめごとになるかもしれない。勝手気ままな忠直でもそのくらいのことは考える。
(うむ…、ただ、中に立ち入るくらいなら、あれこれ言われることもあるまい)
ただ、考える以上の配慮はせず、結局はいつものように、何も考えずに向かうのであった。
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