第5話 兄弟
越前・北ノ庄。
松平忠昌はこの日もいつものように日課の素振りを行っていた。
世情が色々流れていることは彼も分かっている。その中心に兄がいて、自分の運命もあるいは変わってしまうかもしれないということを。
しかし、彼が現状やらなければならないのは越前の経営である。
そのために出来ることをやるだけだ。忠昌はそう考えていた。
とはいえ、前田利常が再び越前を通過して、畿内へと向かったという情報。更には、利常正室の珠が、兄の正室・勝まで連れ出したという報告は、忠昌を動揺させていた。
「兄上、我々はもしかして、置いて行かれているのでしょうか?」
という直政の問いかけももっともである。
そもそも、越前を任されてからというもの、手紙の一通も届いていない。相談事を送っても返事すら届かない。幸いにして越前で大きな混乱はないものの、兄忠直は越前の領主としては失格なのではないかとすら、忠昌は思っている。
「まあ、越前にいた時からして失格でしたから」
これもまた直政の言う通りであるが…。
「しかし、徳川義直やらがずっと布陣していて、頼宣や頼房から今後は何かしらの役職を与えられるという。我々のみが蚊帳の外ではないか」
「あの松平忠輝ですら、会津に向かったというのにのう」
松平忠昌は「武士たるものは戦場での働きが全てである」と考えるような人物であり、だからこそ毎日倦むこともなく稽古をしている。そんな彼にとっては、周りの者が次々と戦陣に参加していき、自分だけが置いていかれているという事実は苦しいものがあった。
「兄上はもしかして、我々兄弟のことをいらないと思っているのではないか? 自分は頂点まで行けそうなので、むしろ越前に戻ることを恥とか考えているのではないだろうか」
遂には、そういう考えも抱くようになってきていた。
そんな折、義姉の勝が出て行くのと入れ替わるように大坂からの使者がやってきた。
「越前から、大坂まで来るように」
との書状を携えて。
もらったらもらったで、忠昌は首を傾げる。
「今にして、大坂まで来いとは何なのであろう?」
「あれではないですか。我々は兄上の臣下であるということを示すのでは?」
「…ああ、そういうことか。そういうことだろうなぁ」
忠昌は納得こそしたものの。
「それならば、どうしてわしらは戦に出してもらえなかったのだ」
とまた不満を口にする。
そうは言っても呼び出しを受けて行かないわけにもいかない。ましてや相手は兄とはいえ、今や日ノ本の西半分に影響を有している人物となったのであるから。
二人は、本多富正に後事を任せると、大坂へと向かっていった。
大坂につくと、二人は豊臣秀頼の屋敷へと案内された。断ろうとしたのであるが、義姉の勝が姉、千とともに滞在しているので、断り切れなかったのである。
「何か足りないものがあったら、誰にでも言ってくれ」
と言われたように、屋敷での待遇は非常にいい。
「兄上にはいつ会いに行けばいい?」
「明日は難しそうなので、明後日の午前ということでいかがでしょう?」
秀頼ではなく、傍らにいる大野治長が答えた。
「ということだ。それまでは寛いでくれ」
「寛いでくれと言われてものう…」
何のために呼ばれたのか分からないので落ち着かない。
二人で双六などをしているうちに、義姉の勝が戻ってきたのでその部屋を訪ねる。
「義姉上、いかがでございましたか?」
「いかがも何も…」
勝はその真面目そうな顔をひきつらせる。
「姉上が、前田のとりなしをお願いしますとか言っていたので申し上げたら、前田の件はもう終わっている、との一言じゃ。たまには酒食でも共にしましょうと申し上げたら、またそのうちになの一言。一年以上会っていない妻に言うことかえ? もしかしたら、九州で側女でも見つけたのかもしれぬ」
「越前のことについては何か申し上げておりましたか?」
「何も。ぬぅぅ、口惜しい…」
勝は袖口を噛んで悔しがっている。
これ以上何かを言うと、自分達にとばっちりが来るかもしれない。忠昌と直政はお互い目配せして、慎重に義姉の部屋を退室した。
二日後。
朝、秀頼と治長がやってきて、大坂城に向かう旨を告げられる。
二人で行こうとすると。
「出羽守殿は、こちらに残っていただけますか?」
と、直政は残るように告げられた。
忠昌の不安は募る。
(わしだけ呼び出しというのは一体何なのだ? もしや、兄上はわしを恐れて密かに切腹などを命じようとしているのであろうか?)
兄弟ではあるが、今や武芸では兄の上を行くという自負がある。それを忠直が感じて危険視されているのかもしれない。そんな疑心暗鬼が浮かんだ。
秀頼の方をちらりと見上げるが、特にそういう様子はない。
(もし、そうなったのであれば、潔く腹を切るしかないか…)
大坂城の廊下を歩きながら、何故か切腹の作法ばかりを考えるのであった。
進むこと四半刻程度、大広間へと案内された。
「それでは、入られよ」
秀頼に勧められて、忠昌は中に入る。
広間の中は無人であった。いや、一番奥の座布団に、久しぶりに見る兄の姿がある。
「おお忠昌。久しぶりだな」
「はい。随分と久しぶりにございます」
「元気そうで何よりだ。相変わらず毎朝素振りをしているのか?」
「はい。ですので、切腹の覚悟も…」
「切腹?」
「はい。もし命じられればいつ何時でもできる覚悟ができております」
忠直は怪訝な顔を向けた。
「…切腹のことはさっぱりだが、ここまで呼んだのには理由がある」
「何でございましょう?」
「ここでの話はわしとお主、二人だけの話だ。絶対に他言をするな」
そういう忠直の目つきは険しい。
「違反すれば切腹ということにございますか?」
「随分と切腹にこだわるのう。別にそこまでせよというつもりはないが、それくらいの覚悟をもって聞いてほしいのは事実じゃな。単刀直入に聞こう。お主は将軍になりたいか?」
「はい? 将軍ですか? それはまあ、なれるものでしたら…」
安易に答えて、一瞬考えて、目を丸くする。
「兄上、将軍というのは、征夷大将軍のことでございますか?」
「当然だ。他の将軍などないわ」
「私が征夷大将軍に? いや、そういうことは…」
忠昌は冷や汗が流れるのを感じた。
(これだ。私がなりたいと言えば、自分を脅かすものということで切腹を命じる気だ)
「なりたくないのか? 正直に申せ」
「…もちろん、なれる見込みがあるのでしたら」
「…ならば努力せよ」
「努力ですか?」
「どうやら、わしは征夷大将軍になることになりそうだ」
「おめでとうございます」
「めでたいものか。今でさえ窮屈すぎて仕方ないのに、このうえ将軍などになったら息が詰まって死んでしまいそうだ。そのうち乱心して、大広間で剣を振り回すかもしれぬ」
「…御冗談を」
「冗談ではないわ。そこで考えた。将軍になるのはやむを得ないが、祖父・家康に倣い、二年で譲るものとする」
「は? 二年で?」
「二年後には家光も十六だ。その時点で一番ふさわしい者に譲ることにする。おまえと家光が候補だろうが、ひょっとしたら義直でもいいかもしれん」
「……」
「二年もすればある程度体制も固まろう。そうなると、わしみたいなものは一線を引いた方がいいだろうからな。正直、のんびり釣りでもしていたいわ」
「し、しかし、江戸の家光がそんなことを受け入れるのでしょうか?」
「受け入れてもらうつもりだ」
「…本当に二年でやめるのですか?」
「祖父は秀忠に譲って、二枚構えにしていたにもかかわらず、まとめて戦死などということになったのだぞ。わしが一人で将軍をしていたら、何か起きたらどうするのじゃ。本当を言うと、おまえに譲って、おまえも二年で隠居してもらって前将軍が二人いるくらいで構えていた方がいいのかもしれんが、弟とはいえ、そこまで縛ってしまうのも酷い話だからのう」
「…兄上はそこまで考えていたのですか」
「考えたというか、思いついたというのが正しいな。そういうことだ。武芸の稽古もいいが、将軍になるならその他の勉学も必要であろう。将軍になりたいのなら、しっかりやってくれい」
「わ、分かりました…」
忠昌は頭を下げた。その瞬間、今まで感じたことのないような重荷を背負ったような錯覚を感じた。
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