第6話 姉妹
江戸城内では疑心暗鬼が渦巻いていた。
北から届いた会津鎮圧の報告には多くの者が喜んだ。
しかし、西から届いた毛利降伏の話には、安堵はしたものの警戒を示すものが多い。
「越前様は毛利に周防・長門をそのまま認めてしまったというではないか」
「このままでは、前田も本領安堵ということになりかねないのではないか?」
「それよりも、越前様がこのまま家光様の支配下に入るのか?」
といった具合である。
更に江戸の者を暗澹たる気分にさせたのは、会津での戦いが終わったはずなのに、伊達政宗も松平忠輝も江戸に来ないことである。
もっとも、松平忠輝はかねてから江戸とは距離を置いている節があったので、それほどの大事ではない。しかし、伊達政宗が戻ってこないというのは大事であった。
「伊達政宗は何をしているのじゃ?」
お江与も苛立ちを隠さない。一年前に「伊達なんぞに江戸を切りまわされてたまるか」と息巻いていたことも忘れて、その不在に神経を尖らせている。
江戸城の広間で、井伊直孝と真田信之が話をしていた。
「先ほど源二郎からの使いが来て、最後まで抵抗していた姫路城も降伏したということです」
「ということは」
直孝の言葉に、信之が笑う。
「あとは前田だけですが、松平忠輝の調子を見るに、もはや敵対は諦めたということでしょう。恐らくは越前様の方に交渉をかけているものと思われます」
「つまり、越前様と家光様とで日ノ本を再統一できたわけですな」
「ええ、ただ、ここから分け前をどうするかという話になってくるでしょうね」
「…そうじゃのう」
前田が降伏したとなると、その処置をめぐって江戸の方で意見が出てくることは間違いない。
その後しばらく、江戸では西からの情報に神経を尖らせ、北から戻ってくる大名がいないことに苛立ちを募らせる。
そうこうしているうちに、更に江戸を驚愕させる情報が入ってきた。
朝廷が、松平忠直に征夷大将軍を打診したという話である。
「そんな馬鹿な話があるのかえ!?」
江戸城で叫んでいるのは、家光の母お江与である。
「家光を徳川当主とすることについては、越前も了承していたであろう! それなのに何故に将軍を拝命するのじゃ!? こんな裏切り行為があっていいものか」
居並ぶ群臣にひとしきり文句を言った後、もっとも言いたい相手を探す。
「直孝はどこにおるのじゃ!?」
「先程、来客があるということで迎えに行きました」
「…来客? 来客と言ったのか?」
お江与がけげんな顔をした。
江戸に来る来客などいないはずである。徳川家臣を客として扱うはずがないし、外様大名にしても客という認識はない。
「…外国からの客でも来たのか?」
「さて、そこまでは…」
土井利勝がなるべく機嫌を損ねないようにと恐る恐るといった様子で話をしている。
「客のことが終わったら、呼んでまいれ」
と言ったところで、廊下から足音が聞こえてきた。
程なく、井伊直孝が入ってきた。
「おお、直孝。ちょうどよいところに…」
お江与が話を切り出そうとするよりも早く。
「御台所様。来客が参っておりますので、お会いいただけますでしょうか?」
と直孝の方が先に用件を告げた。先ほどまでの不機嫌な状況に、更に部下の直孝から注文をつけられたことで、お江与の機嫌が更に悪くなる。
「冗談ではないわ! 妾はそんな気分にはなれぬ! どこの誰か知らぬが追い返せ!」
叫んだところ、外から笑い声が聞こえた。
「江、しばらく会わないうちに随分と我儘になったものですね」
入ってきた長身の女性に、お江与が唖然と口を開いた。
「姉、上…」
淀の方は、周りの群臣に向かって、艶然と微笑む。
「姉が妹に、娘が母に会いに来たのです。失礼ですが、下がってもらえませんか?」
穏やかな頼みであったが、天からの命令でも受けたかのように、供の者が一、二歩下がる。
その後ろには千の姿もあった。
四半刻後、姉妹と千の姿は奥にあった。
「どうぞ…」
お福が茶と菓子を差し出す。
「ありがとう。初にも声をかけたのだけれど、体調が悪いということで来られないって言われたわ。残念ね」
「…姉上、あれだけ大坂から出なかったのに、どうして今になって?」
「家光のことが心配になったのです」
淀の代わりに千が答える。淀は茶を半分ほど飲み干して。
「江。貴女が今考えていることは、妾にも良く分かります」
淡々とした様子で切り出した。
「いえ、妾の方がよく分かっています。同じ鬱屈した思いを15年、感じてきたのですから。内府が秀頼に約束したことと現実との違いというものを見続けてきたのですから」
「…秀頼殿は、結局、天下を諦めるのですか?」
「ええ。本人がそう決めました」
「そうですか。その割に姉上は随分と清々しい顔をされていますね…」
「ええ。秀頼は自分できちんと考えるようになって、決断を下したのだから、これ以上のことはありません。同じことを千も考えていると思いますが…」
義娘に視線を移すと、千も頷いた。
「江、貴女の気持ちが全部分かるとは言いませんが、家光殿も同じくなるのではないかしら。天下は回ってこないかもしれませんが、今、天下のために抗ったとしても、それが家光殿を助けることになるのかしら? 時間とともに状況も現実も変わるし、大半の者は現実についていく。こればかりはどうしようもないものなのでしょう」
「…なれば、当主としての地位も、江戸も退去せねばならぬのか?」
お江与はうなだれる。そこに千が口を開いた。
「母上様、秀頼様が言うには、家光が江戸を出る必要はないということです。越前様は引き続き、畿内か越前に根拠を置き、江戸に常在することはないそうです」
「…かつて秀頼殿が大坂城のみを与えられたように、この発展途上の江戸城のみが、家光に保証されたものであるということか…」
「そうなるわね。でも、江。妾には姉はいなかったのですよ。同じ状況で苦闘する姉は」
淀はそう言って笑う。自分と秀頼を参考にしろ、そう言っていることは明らかであった。
「…確かに、そうですね。家光が真に立派な武士となれば…」
お江与は姉に見て、弱々しく微笑んだ。
「姉上…、今後、何を失敗したか聞かせていただくことがあると思いますので、よろしくお願いします」
「何て酷いことを言う妹なのかしらねぇ」
淀は苦笑しながらも、お江与の頭を撫でた。
「ところで母上様…」
お江与がようやく納得した頃合いを見て、千が渋い顔で申し出る。
「一つ、悲しいお知らせがあるのですけれど、私の頼みもありますので聞いていただけますか?」
「…一体何じゃ?」
「幸松を私達の養子としていただきたいのですが…」
「幸松? 幸松とは誰じゃ?」
千は渋い顔で淀を見た。溜息をついて、淀が代わりに話す。
「実は、前将軍が別の女と作った子供が八王子にいるらしいのよ」
「…!?」
「今、秀頼様と私の間には子供がおりません。今後も生まれないことを見越して養子を貰うことを考えておりまして、珠にも話をしていたのですが、父上様と他の女との子供であれば、母上様にとっては見たくもない子でしょうし、あらかじめ私の方で引き取ってしまいたいと思っております」
「どうでしょう、江? 厄介払いというと言葉は悪いかもしれませんが、秀頼殿の養子ということで認めてもらえないでしょうか? 江?」
何の反応もないお江与に、二人がけげんな顔で覗き込む。
「驚きのあまり、気を失われてしまったようです」
お福が溜息をついた。
一刻後、気を取り戻し、改めて説明を受けたお江与のことを語る度、千は苦笑する。
「話を理解した後の母上様がどれだけ恐ろしかったかは私の知る言葉ではとても説明できません。ただ、あれで天下を失った悔しさを忘れてしまったようですし、父上様に対する思いも薄れてしまったようです…。正之のおかげで、無用な戦を行わずに済んだのかもしれません」
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