第9話 四面楚歌
熊本城の包囲から十日が経った。
島津軍と一揆軍は大きな攻撃はせず、城方も初日の夜襲以降は大きな動きはない。
そこに北と東から使いが届く。
北からの使いは柳河を出た益田好次。
東からの使いは依然として高鍋にいる島津家久のものであった。
樺山久高は北からの使いについては、そのまま熊本城にも知らせるような動きを取る。すなわち、柳河から4000の部隊が南下してきているというものである。
東からの使いについては、その書状を読み、久高は溜息をついた。
「殿は、本当に相手の希望を奪うようなことを考えるのは得意のようで…」
と言いつつも、家久の指示に従って準備を始めた。
熊本城内では、柳河からの軍についての話が広まる。
「柳河は切支丹を認めているところだから、きっと敵方の援軍ではないか」
「いや、しかし、切支丹を認めているところだからこそ一揆などに参加する必要もないのではないか。田中殿は徳川家の女を妻にしているのだし、徳川家に歯向かうことはしないだろう」
どちらの側の援軍なのかという情報はない。それがもどかしい。
飯田角兵衛は話を聞いて、「恐らく敵方だろう」と考えた。
「田中殿や柳河の状況というより、こちらの援軍が来るという情報が城内に簡単に伝わるのが不思議である」
というのが理由であった。
とはいえ、「援軍は敵であろう」と言ってしまうと城内の士気が下がるので、人のいる前では発言することはなく、加藤丹後守と二人の時に言ったきりであったが。
「島津軍はここ数日、大砲も全く打ってこない。大砲を撃つ機会を図っているはずで、援軍の到来に合わせるのではないか」
とも予想していた。ただ、これも公言するわけにはいかず、狙われそうな城門付近の耐久度を強化する程度であったが。
その夜。
「うん?」
見回りを行っている飯田角兵衛は、妙な歌を聞いたような気がして眉をひそめた。
「丹後守殿、何やら聞こえてこぬか?」
「聞こえてきます。唄のようですな」
「どこから聞こえてくる?」
「城の外からのようですが」
どこか物悲しい感じの唄が聞こえてきた。
「島津軍が唄っておるのか?」
「いや、角兵衛殿。これは…」
「何であろう?」
「肥後の唄のようです」
「肥後の唄?」
角兵衛にはピンと来なかった。角兵衛は山城の出身であるし、加藤清正に仕えてからは全国を転戦しており、肥後の唄などを知るような機会はない。
唄は段々と大きくなってくる。
「間違いありません」
「肥後の唄。肥後の唄など唄って何を…」
けげんな顔をしていた角兵衛は、ふと丹後守の顔を見てハッとなった。その頬にうっすらと涙が伝っていたからである。だが、丹後守自身は涙していることに気づいている様子はない。
(そうか! これは中国の四面楚歌か…)
角兵衛はようやく島津軍の意図を理解した。
加藤家の上層部には肥後出身者は少ない。しかし、兵卒や丹後守のような若い世代は幼少から肥後で暮らしている。そうした者にとって、城の外から聞こえてくる故郷の唄はどのように感じられるだろうか。
(しかし、島津軍は何故この唄を知っているのだ?)
角兵衛にはそこが分からない。薩摩や日向から来ている島津兵がこのような唄を知っているはずがない。そして、加藤家の兵士達にこれだけの数はいない。
包囲軍には南肥後を暮らしていた小西家の旧臣がいて、更には一揆勢に協力している農民達もいたのであるが、武士の世界を生きてきた角兵衛がそのことに思いを寄せることはなかった。
肥後の唄が唄われ続ける中、朝を迎えた。ふと北に視線を向けると、田中家の旗指物をもつ兵力が北から近づいてくる様子が見えた。
(柳河からの援軍か…)
柳河軍は包囲軍に近づいていくが、包囲軍が警戒をする様子はない。やがて、包囲軍に駆け寄る者が出てきて、両軍が握手をかわす様子が城内からも見える。いたるところから悲鳴のような声があがった。
(やはり敵方だったか…)
覚悟はしていたが、それでも落胆は大きい。
ほぼ同じくして、爆音が二発轟いた。
(大砲も撃ってきたか…)
柳河軍の援軍に合わせて、大砲を撃ちこむことによって城の動揺を誘うという角兵衛の予想は当たっていた。しかし、そこに肥後の唄を唄うことによって更に動揺を誘う三段構えの策であるということは、角兵衛の予想を超える出来事であった。
「丹後守殿、わしは見回りに行ってくる」
落胆している兵士達を少しでも勇気づけなければならない、角兵衛は本能的にそう感じて、城内の巡回を始めた。
天守にいる加藤忠廣もまた、肥後の唄を聞いていた。
「…ハァ」
大きな溜息をついた。
「どうしましたか?」
清浄院が尋ねる。
「義母上、この戦、負けでございます」
「何を言われます?」
「いえ、負けでございます。義母上は分かっていないと思いますが…」
忠廣は清正の庶子であり、清正の急死によってやむをえず当主となった少年であった。従って英才教育を受けていたわけではなく、熊本城の一角で地元の教育を受けて育ってきていた。地元で育った忠廣にとって、その地元の唄が敵方から流れてくるという事実は衝撃的であったし、それが自分だけではないだろうということも分かっていた。英才教育を受けていないからこそ、地元の兵士の心情が理解できたのである。
「私には分かります。自分の育った唄が敵から流れてくることほど、恐ろしいことはありません」
「……」
しばらくすると、飯田角兵衛が入ってきた。その後ろには落胆した様子の加藤正方、加藤美作守の姿もある。
「清浄院様、殿」
角兵衛が膝をつく。
「残念ながら、このまま戦っても、守れる見込みはございません」
「飯田殿…」
清浄院が目を見開いた。
「兵士達の士気喪失は甚だしく、このままの状態が続けば城から脱走する者が多数出てくると思われます。それを止めようとなると…」
角兵衛が唇を噛んだ。忠廣が頷く。
「
「殿のお言葉通りにございます。敵の唄を止めぬことにはどうにもなりませぬが、敵も我々が撃って出ることに対する準備はしておりましょうし、意気消沈した兵士ではどうにもなりませぬ」
「何とかなりませぬか?」
清浄院の声は涙声に変わっていた。
「なりませぬ。このままでは加藤家の軍同士で争いを始めてしまいかねません。それがしらは城を枕に討死する覚悟はできておりますが、味方同士で戦って死ぬということは、さすがに…」
角兵衛の声にも嗚咽が含まれていた。清浄院が大きく肩を落とす。
「私達は江戸や尾張の者であって、肥後の人達とは一つになれなかった、ということですね」
「はい…。このうえは、なるべく穏当な条件での降伏を願い出たく」
「…分かりました」
「角兵衛」
忠廣が口を開く。
「わしはどうなるのだ?」
「殿は年少ゆえ、さすがの島津も殺せとは言わぬでしょう。しばらくは薩摩などで暮らすことにはなるかもしれませぬが…」
「左様か…」
忠廣は力なく答える。
「だが、どの道、一人でいるのは変わらぬか」
この熊本城で誰かと考えを共にしたということはなかった。仮にこのような事態が起こらなかったとしても、誰かと運命を分かち合うと思える瞬間が来るのかどうか疑わしい。
それならば、薩摩に行くのも悪くないのではないか。
加藤忠廣はそう思った。
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