第3話 過

 

 ――君達の家に行こう


 真っ白な病室の中で、私はミイラ女だった。


 全身に包帯を巻いて点滴を打たれ、両足にはギプスが嵌められていたのを覚えている。


 手を取ってくれたのは無表情の柘榴先生だ。


 口を結んだ彼女は祈るように私の手を握り込み、細い声をくれ続けた。


 ――大丈夫。もう、痛い思いをさせはしない


 あの日の先生の顔を上手く思い出せない。人の顔を見るのが死ぬほど嫌いで、見れば痛いことが起きると頭が叫んでいたからだ。


 ――守ってあげる。こんなにボロボロになるまで気づかなくて……ごめんよ


 よくよく思い出せば、あの日の柘榴先生は泣いていたのかもしれない。鼻を啜る音や震えた声からの推測にはなるが。


 別室に入院していた流海の元には猫先生がいた筈だ。しかしその時の私は現実を知ることも無く、柘榴先生に答えたのだ。


 ――るかと、いっしょがいぃ、です


 一人は嫌だった。流海と一緒にいれば山ほど事故が降ってきたが、それでも私は弟の手を離したくなかったのだ。


 私に残った唯一の家族。私の片割れ。私以上に沢山の痛い思いをして、ボロボロになった大事な弟。


 あの子の手を離してはいけない。どれだけ他人に引き剥がされそうになっても、流海の指は私にすがっていたから。私はあの子の温もりを離したくなかったから。


 ――あぁ、いいよ、勿論だ。一緒に行こう。一緒に生きよう


 そう言って柘榴先生が私の頬を撫でてくれたのを覚えている。優しい手だった。壊れ物を扱うようにガーゼと絆創膏だらけの私の顔に触れてくれた。


 あの日から私達は共に生きている。


 猫先生を見て流海が泣き出したと看護師さんが病室に来たのは心配になった。柘榴先生は慌てて流海の所に走ったっけ。思い返せば笑い話だな。


「涙、なに思い出してるの?」


「馴れ初め」


「え、誰との」


「柘榴先生と猫先生」


「あぁ、なるほどね」


 流海が可笑しそうに笑う声を聞く。背中越しに感じる体温は揺れており、私は膝に乗せたパソコンを叩きまくっていた。


「さっきから凄い勢いだけど、何してるの?」


「先月保健室を利用した人数や何で利用したかの表作り。プラスで今度の全体委員会で提出する資料作り」


「それ涙の仕事?」


「委員長の仕事だけどしてなかったから養護教諭に頼まれた。次委員長に会ったら前歯砕く」


「停学になるから頭の中だけにしようね」


「既に脳内で爪を二十枚剥いだ」


「涙らしい」


 背後で流海は呆れたように笑う。その顔を想像できるが確認はできない。だから私は苛立ちながらエンターキーを叩いた。キーボードに恨みはないが力を込めて叩かずにはいられない。許せ。


「できた……」


「お疲れ様」


「うい、洗濯畳むの手伝うわ」


「大丈夫だよ、もう終わる。それよりそろそろ出ようか。検査の時間だ」


「……行きたくない」


「僕もだよ」


 流海の顔を見ないまま立ち上がる。


 私は笑って流海を見ればいいし流海は無表情で私を見ればいいのだが、それではお互いに傷つく。体は平気だが心が痛い。だから極力顔を見ないのが暗黙の了解だ。


 片割れが畳んだ服を各自室に運んで鞄を掴む。検査表と財布とスマホ。使う場面がないことを祈る応急手当セットも持って玄関に向かった。


 そこには帽子を目深に被った流海がいて、私は自分の口角を引き上げる。


「お待たせ、流海」


「待ってないよ、涙」


 お互いを呼び合って目が合う。


 真顔の流海と笑う私。そうしていれば事故は起こらない。ヤマイは発症しない。


 玄関を開ければ流海が立ち止まっていると気づき、私は右手を差し出した。


「傍に居るよ」


 笑顔で伝える。そうすれば流海は私の手を取り、固く握りしめてくれた。


 秋晴れの空を見上げた私達はパナケイアの支部へ向かう。柘榴先生と猫先生が送ると言ってくれたが、残念ながら二人の勤務時間と合わなかった。検査時間はパナケイア側が決める癖に融通が利かないものだ。


 吹いた木枯らしに身震いする。それもそうか、秋が深まるこの頃なのだから。


 これが過ぎたら私も高三。二年生も怠惰に貪ってるな。何も無い。進路の紙の提出って再来週だったっけ。


 流海と繋いだ手を揺らしながら歩道を進む。この街にあるのはパナケイアの第四十四支部だ。


 気分が死ぬほど重たい。足も鉛がついてるみたいに重い。嫌だなぁ。


「今日、柊とかバイトしてねぇかなぁ……」


「……涙の話題によく出てくるよね。その柊君って人」


「何かと言って話しやすい奴だから。いっつも眉間に皺が寄ってる」


「へぇ」


 流海が繋いだ手を大きく前後に振る。勢いが良いな。


 こういう時は少し悩む。普段家から出ない弟に外のことを話すかどうか。それでも流海の心が荒れないかどうか。


 以前心配して聞いた時は「色んな話が聞きたいな」って答えてくれたが、時折本心かどうか分からない時があるんだよ。


 双子だろうとゼロから百まで理解できるわけではない。きっと気づかないうちに傷つけていることだってあるし、怒らせていることだってあるのだろう。


 だから、間違えたか分からない時は聞くように心掛けている。


「流海、なんか嫌だった?」


 前だけ向いて確認する。流海は少しだけ黙った後、私の右手を握る力を強めていた。


「べーつにー。涙に彼氏が出来たら嫌だなーってだけ」


「なんだそれ」


「出来ちゃったら、涙は僕といる時間を減らすと思うから」


 ――流海の世界は狭い。


 私と、猫先生と、柘榴先生。時々通信制高校の先生とやりとりをするか、宅配の人と会うかって所だ。


 全員流海のヤマイを理解して対応できる相手。そうしないと事故が起きる。事故の連鎖が巻き起きる。


 だから流海は我慢をしないといけない。人との接触を、出歩く自由を。


 私は流海の手を握り直し、彼に合わせて前後に大きく手を揺らした。


「何があっても、流海を優先してやるさ」


言質げんち取ったよ」


「物騒だなおい」


 流海に勢いよく肩をぶつけたらせる音が返って来た。微笑んで見ると口角に力を入れた流海がいる。笑うのを堪えているらしい。良い子だ。


 ふと後方から駆ける足音を聞いて流海の腕を引く。弟は帽子のつばを下げてうつむき、私は走り去る少女を見るのだ。


 淡い灰色の髪が柔く揺れる。低い位置でおさげに結われた髪の奥の目には――包帯が巻かれていると直ぐに分かった。


 両目を包帯で隠した女の子。


 彼女は両手で学生鞄を抱えて急いでる様子だ。器用に人波を抜けて行く黒いセーラー服を見送り、私は彼女の左手を思い出した。


「涙、どうかした?」


「いいや、器用な子を見ただけさ」


 私は左手を見下ろす。その手には指ぬき手袋をつけており、それは弟も同様だ。


 そして、さっきの女の子も左手に包帯を巻いていた。目を隠す包帯と同じものを、左手の甲に巻いて隠していた。


 この世界は優しくない。


 世界はヤマイに不平等だ。


 この世界は誰の為の世界なのか。


 そんなの考えたって、空しく苛立つだけだった。


 * * *


 〈パナケイア 第四十四支部〉


 そんな看板が掲げられた純白の施設に足を踏み入れる。清潔さが空気に混ざり、周囲を高い柵で囲まれた研究施設へ。


 建物内では白衣を着た職員達が行きかっており、私は流海を背に受付に立った。片割れは私の首筋に顔を埋めている。大変可愛らしい行動だろうと柊がいれば自慢するのにな。いや、流海の可愛さは私が知っていれば十分か。


 流海の体温で平静を保つ私は、何度か顔を合わせたことがある受付の人に会釈した。


 事務的な挨拶がやってくる。


「いらっしゃいませ。印数いんすうとお名前、書類の提出をお願いします」


「印数五、空穂涙です」


「印数六、空穂流海です」


 二人分の書類を提出すれば直ぐに奥へと通される。


 心臓が嫌な音を立て始め、私と流海の手は離された。


 それぞれ更衣室に通されて検査着を着せられる。上から下まで白い服。ツナギのような作りのそれを着込めば、長く余った袖は背中に回されて職員の人に留められた。


 事務的な職員と言葉を交わすことはなく、隣の部屋に通される。


 壁沿いに勉強机や自転車、台所用品や家電製品など多種多様な物が無造作に置かれた違和感しかない部屋。意図的に空けられた中央には白と黒の簡素な椅子が向かい合わせで準備されている。


 私は黒い椅子に座るよう促され、下を向いて太ももを見つめた。


 足は椅子に留められる。


 検査着なんて言っておいて、これは拘束衣の間違いだろと思うのがいつものことだ。


 前の椅子に人が座ったと気づくが顔は上げない。


 これは検査だと分かっていても、本当に気が進まないのだ。


「……流海、今日の晩御飯なにがいい」


 前に座ったのが弟だと分かる。検査の形態からして今回はそういうことから始まる。


「……オムライスが食べたい」


「可愛いよな、そういう選択するところ」


「ハンバーグが好物の涙には言われたくないな」


「それもそうか」


 これは誰の為の検査だろう。


 どうして衣装は拘束衣なのだろう。


 どうして私達は向かい合わせで座らされるのだろう。


 そんなのは――酷く簡単な理由だよ。


「それでは、お願いします」


 放送機器から聞こえてきた職員の声。


 息を吐いた私は、一度だけ目を伏せた。


 私と流海に掛け声はいらない。何かを合わせる時のタイミングは、意図しなくても合うのだ。


 呼吸を整えて、整えて、整えて。


 拳を握り締めて、奥歯を噛んで。


 私達は同時に顔を上げて、お互いの表情を見る。


 私は笑わない。


 泣き出しそうな顔をして流海は笑う。


 あぁ、皮肉だな。


 こういう時しか、大好きな君の笑顔を見られないなんてさ。


 私は笑わないまま、壁際からした爆発音を聞いたのだ。


 * * *


 次に目覚めた時、外は夕暮れを超えて薄暗くなっていた。


 場所が病室だと分かり、隣のベッドには流海が眠っていると視界の端で察する。


 口角を上げて顔を向けると、ミイラ男になっている流海が穏やかに眠っていた。


 サイドテーブルに置かれた検査結果を見ようとしたが手が動かない。見れば右腕にギプスが嵌められて、目にも眼帯がつけられていると察した。


 ヤマイの検査は誰の為のものか。


 それは――ヘルスの為のものだ。


 ヤマイが発症した時、どれだけ周囲に害を振りまくかの確認。その範囲が変わっていないか、発症の条件に変化がないか。


 その確認が検査であり、拘束衣を着せられるのは私達が逃げないようにする為だ。


 誰だって自分のヤマイを発症させたくはない。だから検査を嫌がる声も時折聞くが、放棄することは義務違反だ。逃げてはいけない。


 検査の度に思う。私達ヤマイは「人」として扱われていないと。


 私達の扱いは――化け物に対するそれだ。


 嫌でも分かる。嫌でも伝わる。私達に世界は優しくないから。


 三か月に一度あるこの検査で、私と流海は入院する。必ず入院する。


 猫先生と柘榴先生が歯痒そうな顔をするのを知っているが仕方がない。そういうヤマイなのだから。


 それに、検査はただヤマイを発症させて怪我をするだけで終わる訳ではない。


 自分に繋がる点滴の袋を見上げる。


 目を凝らさないとそこにあることすら認識できない薬。透明度が高すぎるそれは「メディシン」と呼ばれる、ヤマイのだ。


 傷の治りを促進し、精神安定の効果もある薬。これを打っていれば少しの間ヤマイを発症させる程度を押さえられる。患者からすれば縋りたくなるような薬だ。


 稀な物であるため市場には出回っておらず、検査を受けに来たヤマイに試薬として適応される。


 メディシンを打ってさえいれば、私と流海に降りかかる事故の程度も緩和される。


 私は微笑ならば事故を起こさなくなるし、流海も笑顔以外の表情を数秒なら見られるようになる。


 それでいて、を抑制してくれる。


 だから誰もが嫌で嫌で仕方がない検査を受けて、メディシンを打ってもらうのだ。


「……るぃ」


「おはよう、るか」


 麻酔も効いているのか舌が上手く回らない。お互いに舌ったらずな声で呼び合い、私は目を伏せた。


「おはよ……おつかれ」


「ん……メディシン、しっかりきくといいな」


「だね……」


 お互いに脱力するのが分かる。


 私は流れ落ちる点滴を見つめ、流海の方を向くことは諦めた。


 緩和ではなく、ヤマイを消してくれたらいいのに。


 そんな幻想を抱きながら。


 ヤマイは完治しない。一生付き合わなければいけない事象であり、私達が努めるべきなのはどうすれば発症させないでいられるかだけだ。


 そう理解させる自分がいると同時に、流海の怪我をどうすれば減らすことが出来るかと考える自分もいる。


 ヤマイについて研究する癖に、その結果は全てヘルスの為なのだから。


 そのせいで流海は印数六を付けられているし、外に出られない。


 自由に笑えず、話せず、一人で過ごすのだ。


 そんな弟の生活を変えたいと思うのに、私には何も出来ない。


 笑顔を向けられれば骨を折り、火傷をし、害を振りまくしか能のない私では――流海を救えない。


「……おむらいすは、おあずけだな」


「はんばーぐもね」


 呟いた声に言葉が返ってくる。


 だから私は力なく笑ったのだ。


 この怪我から退院した後――日常が壊れるとも知らないで。

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