第96話 傷
猫先生の額には傷痕がある。それは何かに斬りつけられた痕で、いつもヘアバンドで隠していた。
柘榴先生の腹部にも傷がある。それは猫先生の傷と同じ、斬りつけられた痕だ。
そんな、二人が抱える傷痕の原因が、今になって分かった気がする。
柘榴先生を抱えて、一つの部屋から飛び出した猫先生。猫先生の肌には日本刀のような刃が幾重も並び、触れるだけで斬れてしまうと感覚が伝えていた。
「「……猫先生」」
流海と共に呟けば、先生の黒く染まった白目が動く。焦点の合っていない瞳は私を見て、荒い呼吸が耳についた。彼の腕には血だらけの柘榴先生がいる。
私の体はただただ硬直してしまった。
口が上手く動かない。拳を普通に握れない。呼吸の仕方も分からなくて、足の裏から地面に根でも張ってしまったようだ。
頭の中に夢が浮かんでくる。
血だらけで、骨の折れたお父さんが。
血だらけで、頭の割れたお母さんが。
私の目の前に浮かんだ。先生達と被ってしまった。
呼吸がどんどん早くなる。眩暈がしそうで、流海と繋いだ手が小刻みに震えた。
隣からも浅い呼吸が聞こえてくる。掌から伝わる振動は私だけの震えではなく、片割れも同じなのだと示していた。
助けないと、戻さないと。猫先生にはまだ小さな希望がある。私達の声が聞こえるかもしれない。周りに職員はいない。ここはパナケイアだからプラセボだってきっとある。まだ間に合う。間に合うかもしれない。間に合ってほしい。間に合わないなんて認めたくない。
柘榴先生を病院に連れて行かないと。このまま猫先生に任せてはいけない。パナケイアに置いていく案もなしだ。〈実験室〉と書かれたプレートが先生達の足元に転がっている以上、二人は治療ではなく実験を優先させられたのだから。
柘榴先生はきちんとした治療を受けねばならない。パナケイアにいたって柘榴先生は治されない。小さく胸が上下している。まだ間に合う。先生は生きてる、生きてる、また話せる。あぁ、だから急がないといけないのに。
願って、考えて、生唾を飲み込んだ時、私の体は後方へ引かれた。
「下がれ、流海、空穂」
伊吹が私と流海を先生達から遠ざける。前には朝凪と竜胆の背中が割り込み、猫先生の姿が隠されていった。
竜胆がサーベルを構えて体勢を低くする。朝凪が弓を構えて矢を引き絞る。二人からは肌がひりつく緊張感が流れ、しかしそれは敵意ではなかった。
「猫柳さん……意識は、ありますか」
「私達のこと、分かりますか」
竜胆は不安げに問いかけ、朝凪が顔を歪めたと分かる。
私の心臓は爆発するのではないかと思うほど激しく鼓動し、こめかみにじっとりと汗をかいた。
先生の答えが怖い。先生の反応が怖い。先生の口が動く事すら怖い。
鼻の付け根が痛くなって、時間が止まったような錯覚が生まれる。目の前が歪んでいく。
肩で息をする猫先生は、黒の薄れた白目を向けた。
「……り、んどうと……あさなぎ、か」
それは――希望の声。
願ってやまなかった、もしもの返答。
私の心臓は一瞬止まり、直ぐに全力疾走後のような鼓動を刻んだ。
猫先生に言葉が届いた。先生は私達を認識した。まだ、まだ、完全にマッキになってない。皇の小さな希望は本当だった!!
背中を丸めた猫先生に――私達の声は届いたのだ。
それが、どれほど私の視界を晴れさせてくれるか。どれだけ走る力に変わるか。先生は知っているのだろうか。
朝凪達の肩が揺れ、猫先生は音を立てて
「猫先生‼」
「柘榴先生‼」
弾かれるように、私と流海は駆けだした。猫先生は私達を見上げて、息も絶え絶えに喋り出す。
「るぃ、るか、きりさきを、きりさきを、たのむ。まだ、まにぁう、へるすの、ヘルスの病院に」
猫先生の手が流海の腕を掴み、荒く引き寄せる。片割れ君と私は揃って膝をつき、猫先生の目を見た。
白目が黒く染まったかと思えば、白に戻るを反復している。その度に、体から生える刃は小さくなったり大きくなったりを繰り返した。
背中を突き破った刃。頬から生えた刃。手の甲や足首からもそれらは生えて、猫先生は正しく全身凶器と化していた。
柘榴先生に猫先生の刃が触れる。そうすれば彼女は傷つくから、猫先生は泣きそうな声で懇願した。
「はやく、おれから、ぉれからきりさきを、はな、し、あぁ、あ゛、ぁ゛、たのむ、たのむ、たのむから」
「分かった、分かったから!」
「もう喋らないで、先生!」
「一緒に帰ろう」
「手当てしよう」
「「猫先生‼」」
柘榴先生を流海と一緒に抱える。頭を押さえる猫先生は、何度も自分の眉間を殴っていた。それは奇しくも、側頭部を叩く皇と被って見える。
「い、ぶき、りんどう、あさなぎ!」
「はい!」
「猫柳さん!」
「良かった、本当に、ど、どうされたんですか」
猫先生が額を押さえて三人を呼ぶ。直ぐに伊吹達は近づき、猫先生の白い目にじわりと黒が滲んだ。
猫先生の刃が、微かに大きくなる。
「すぐ、るいたちといっしょに、パナケイアをはなれなさい。もどってくるな、いぶきは小夜もつ、れて、二度とパナケイアにかかわるな」
「それは、マッキ誘発実験のせいですか」
伊吹がトンファーを握り締める。猫先生は堪えるように額を押さえ続け、荒く大きな呼吸を繰り返した。
「ぜんようは、俺もしらない。だが、やまいが、わいるどはんと、が、実験台にされることは分かる。だから、にげなさい、にげて、にげて、アテナにももう、いってはいけない」
猫先生の目が黒く染まりかける。彼はすぐさま自分の膝を殴り、喉を絞めるような動きをした。
先生の抗いが見える。今にも無くなりそうな理性をかき集めて、私達に話しているのだと嫌でも分かる。
私と流海は柘榴先生を抱き締めて、猫先生の刃を凝視した。
「「先生」」
「るい、流海、」
猫先生が親指の腹で私と流海の目尻を撫でる。不器用な先生は無表情のままで、流海が彼の顔を見ることは出来なかった。今の片割れは、誰の表情も見ることが出来なかった。
だから私が代わりに焼き付ける。猫先生の表情を、一挙手一投足を。
猫先生はなんとか呼吸を整えようとしている。ゆっくりとした呼吸に応えるように、先生の白目からは微かに黒が引き、体から生える刃も小さくなった。
大きく息を吐いた先生は眉間に険しい皺を刻む。その表情と相反するように、吐かれる言葉は凪いでいた。
「……ごめんな、いつも、いつも……傷つけてばかりで」
鼻が痛んで目頭に熱が滲む。私は思わず肩を揺らして、何度も瞬きを繰り返してしまった。
謝ってほしくなかった。先生達にだけは、猫先生にだけは、謝ってほしくなかったんだ。
「先生、謝らないでください。これ以上、喋らないでください」
「先生も一緒に行こう。まだ大丈夫だから。職員は僕らが倒すから」
「一緒に、柘榴先生と一緒に、治療してもらいましょうよ」
「病院行って、傷を治して、一緒に家に帰ろうよ」
「「ねぇ、猫先生」」
猫先生の手の甲に触れる。そうすれば彼の刃で掌が傷ついたけど、そんなものは歯牙にもかけなかった。
流海の呼吸が震えている。顔を俯かせている片割れからは、雫が流れ落ちていた。
朝凪が私の袖を小さく握る。竜胆は流海の肩に触れ、伊吹も黙って傍にいた。
猫先生の目から黒が引いていく。深い呼吸を意識している先生は、仕方がなさそうに目を伏せていた。
「帰りたい、帰りたいな。一緒に、みんなで……帰りたいな」
猫先生の指が後頭部にまで回ってくる。大きな掌は私と流海の顔を寄せて、猫先生の額が頭にくっついた。
じわりじわりと、猫先生の体温が移ってくる。雨に打たれ、たくさん血を流した先生は冷えている筈なのに、どうしてこんなにも温かいのか。
私の背中に伸し掛かっていた何かが、先生の体温で溶かされる気がした。
「……大好きだよ」
軋む。
揺れる。
波のように、寂しさが私の体を打ち付ける。
猫先生は静かに上体を戻し、私と流海を手放そうとした。
あぁ、嫌だ、いやだよ猫先生。
こんなの嫌だ。嫌いだ、嫌いだ、大嫌いだ。
――大好きだよ
柘榴先生と同じことを言わないで。同じように言わないで。
その大好きに込められた意味は、「さよなら」なんでしょ。
私達は猫先生の腕を掴み、掌を血が伝った。
「ぃやです、嫌いですよ、先生。そんな、別れの言葉みたいなの、大嫌いです」
だから、と喉の奥で言葉が潰れそうになる。
離れそうになった猫先生の手に縋り付いてしまう。
傷だらけの私と流海を見つけてくれた人。
苦手な笑顔を練習して、ぎこちない温かさで包んでくれた人。
不器用で、言葉足らずで、口よりも目で語る人。
私の下瞼から、流海の目尻から、熱い雫が零れ落ちた。
「だから先生、帰ろうよ。痛いの全部、治そうよ」
「るか、」
「治して、みんなで家に帰りましょう。晩ごはん、何がいいですか。明日の予定はなんですか。いま、どんな本を読んでいますか」
「涙、」
「僕、先生に背中を摩ってもらうの、好きなんだよ」
「私、先生に頭を撫でてもらうの、好きなんです」
「先生が教えてくれる勉強も」
「先生が淹れてくれる珈琲も」
「ただいまの笑顔も」
「おかえりの声も」
「「大好きだから」」
猫先生の指に力が入る。先生は再び、私と流海の頭に額を寄せてくれた。
応えるように、私達は猫先生の腕に縋って、目覚めない柘榴先生の手を握り締める。私は先生達を離さないよう指先に力を入れて、傷が微かに痛みを訴えた。
「帰ろうよ、先生。柘榴先生と一緒に。みんなで集まって、たくさん、たくさん、話がしたいよ」
「私も流海も、その時に聞きたいです。今まで話してないこと全部、ぜんぶ、話した最後に……」
「「大好きだって、言ってほしい」」
だから帰ろうよ、先生。一緒に帰ろう。話したいことが山ほどあるから。
アテナの戦闘員と繋がりました。勝手に本部にも行きました。パナケイアやアレスのこと、
離れないで欲しいと縋っておきながら、私は自分から温かさを捨てたんです。得られた優しさよりも、流海を優先したんです。
どうしようもない私を叱ってください。流海を巻き込んだ私を咎めてください。保護者らしく、先生という立場から。そのあと貴方が、私達を大好きだと言ってくれるかは分かりませんが。
言ってくれなくてもいいから、どうか薬を見て下さい。ヤマイをマッキにする薬を見つけました。アレスの毒を緩和する薬を見つけました。それは、流海と猫先生の希望になりませんか。
砂埃が落ちてくる。私は亀裂の入った壁を思い出し、朝凪の指先に力がこもったと感じた。
「猫先生、まずはここを離れましょう」
「僕達だけじゃない、猫先生だってパナケイアにいたら駄目だよ」
流海と一緒に猫先生の腕を引く。そうすれば、伊吹達も声をかけてくれた。
「歩けますか、猫柳さん」
「俺と朔夜君で肩を貸しますから。いばらちゃん、荷物頼んでもいい?」
「もちろん。涙さん、流海さん、平気ですか?」
「はい、ありがとうございます。流海、柘榴先生の右腕を」
「うん、猫先生、外はまだ雨が降ってるから……」
そこで、流海の言葉が止まる。
見れば猫先生は俯いたまま、伊吹や竜胆の声にも反応していなかった。
私達に触れていた指先が間隔を置いて揺れる。背中の刃は徐々に大きくなり、不意に両手で頭を抱えていた。
「猫柳さ、‼」
伊吹が竜胆の腕を引いて距離をとる。猫先生は床に向かって右手を叩きつけ、掌にある刃が地面を抉っていた。
肝が冷える。体温が一気に引く。
顔を上げた猫先生の目は、再び黒に浸食されていた。
「だ、ぁ、ダめだ、だ、あ゛、マモ、まもレ、ア、あ、きり、さ、あ゛、あ゛ぁ゛‼」
勢いよく立ち上がった猫先生の手がこちらに迫る。私と流海は柘榴先生を抱えて距離を取り、猫先生の拳が壁を抉った。
亀裂が深まる。天井から
「「猫先生‼」」
「っ、すんません」
私達の横を風が過ぎる。
見れば猫先生の背後に伊吹が回り込み、銀色のトンファーが叩き込まれた。
猫先生の背中の刃が砕かれる。
同時に、血飛沫が伊吹を染めた。
猫柳蓮先生のヤマイ――雨に当たった皮膚が刃に変わるヤマイ。
先生の刃とは硬質化された皮膚と同じ。研ぎ澄まされて、研ぎ澄まされて、何でも切れる刃のように皮膚が変化する。
だからそれが折れることは、皮膚が裂けることと一緒なのだと、こんな場面で気づいてしまった。
朝凪は竜胆にサーベルを渡し、伊吹からは一枚のIDカードが投げられた。
私は咄嗟にIDカードを掴み取る。
「走れ! 空穂、流海!」
伊吹の鋭い声に対して、私の足が動かない。柘榴先生を抱いてこの場を離れなければいけないのに、私は、苦痛に呻く猫先生から視線が外せなかったから。
「涙さん!」
「流海君!」
朝凪と竜胆に私達は腕を掴まれる。柘榴先生をなんとか抱え直したが、先生の呼吸は弱いままだった。
猫先生、なんで、なんで、どうして、駄目だ、だめだ、感情がぐちゃぐちゃで、想いが先走って、正しいが分からなくなる。
「ぃぶき」
だから私は、情けない声で灰色を呼んでしまった。
血に染まった灰色は、濡れたトンファーを握り直している。
「これは、お前達が背負っちゃ駄目だ」
視界が滲む。伊吹の言葉で、私の肺が痛くなる。
猫先生は顔を上げて、微かに白く戻った瞳がそこにはあった。
「にげなさぃ」
柘榴先生の腕と繋がった点滴が抜ける。血の付いた針が床に落ちる。
猫先生は掌から生えた刃を振り下ろし、自分の足の甲に突き刺した。
「「先生‼」」
「にげ、なさい‼」
灰色になった先生の目が、強く激しく訴えかける。
それが、引き金。
私と流海は柘榴先生を支え、朝凪達と共に床を蹴った。
歯を食いしばって、滲む視界を必死に堪える。
背後から猫先生の歪んだ咆哮と、刃とトンファーがぶつかり合う音がした。
振り返りそうになる。
私達が猫先生から逃げるなんて。
でも今は柘榴先生が危ないから。
どちらかを切り捨てて、選んで、走るしかない。
でも、先生は、先生は、さっきまで会話もできて、浸食が、マッキが、不完全だから。不完全だからあんなに苦しいの。先生はどんな気持ちで、どんな痛みを背負って、あぁ、感情が、感情が、感情が、潰れそうだ。
その時、床にヒビを入れた音がした。
激しく激しく、跳躍した音だ。
「後ろ!!」
伊吹の声がして、振り返れば刃の手が迫っていた。
私の間にサーベルが入り込み、甲高い音を立てて猫先生を止める。
竜胆の黒い短髪が靡き、距離を取った朝凪はすぐさま矢を放った。
猫先生の片腕は素早く矢を叩き落とし、竜胆のサーベルを弾き返す。
竜胆はすぐさま体勢を低くしてサーベルを回し、猫先生と刃をぶつけあった。
「行って! 今は、霧崎さん優先!!」
竜胆は猫先生の両手から目を逸らさず、朝凪も足を止める。少女は凛と弦を引き絞り、猫先生の手首を矢が貫通した。その隙に竜胆は猫先生の二の腕を斬りつけ、伊吹は背後から殴りかかる。
「戻ってきてください、猫柳さん!」
「俺達、貴方だけは、貴方だけは傷つけたくないんです!!」
「この人だって望んでない! 止めろ、絶対、ここで!!」
柘榴先生を抱えた腕が痛む。背中も痛んで、鳩尾も悲鳴を上げて、喉が絞められた。
背後から聞こえてくる声が、音が、私の内情を壊していく。
殴って、殴って、吠えて、殴って、少年二人を叩きつける。少女の矢を砕き折る。いつもの先生からは想像できない荒々しさが、その音だけで感じられた。
やめて、猫先生。やめて、やめよう、先生は誰かを傷つけたい訳ではないんだろ。
貴方が誰かを傷つける所なんて見たくない。暴れる姿なんて見たくない。
あぁ、先生、温かさを潰さないで、貴方の姿を壊さないで、思い出を砕かないでッ
「涙ッ」
流海の声が私の思考を繋ぎ止める。視線はすぐに、支え運ぶ柘榴先生に向かった。
まずは、柘榴先生。先生が治るように、連れて行って、治療して、沢山たくさん話をして。
猫先生だってまだ間に合う。希望は消えてない。だって言葉が届いたから。意思を見たから。先生はまだ抗ってる、頑張ってる、だから、だから、あぁだからッ!!
「ドけ」
歪んだ声がする。
聞きたくない音がする。
振り返ってしまった私は、猫先生が竜胆の鳩尾に膝蹴りを入れる瞬間を見てしまった。
それは一撃で致命傷になり得る威力だと傍目からでも分かり、私は息を詰めた。
朝凪の悲鳴が響く。
「永愛!!」
竜胆が背中から壁に激突する。冷や汗の浮かんだ彼の目は微かに回っており、朝凪が構えを解いた。
伊吹は容赦なく猫先生にトンファーを叩き込もうとする。先生は刃でトンファーを受け止め、金属音が木霊した。
「ジャマ、だ」
猫先生の歪んだ声が耳に入ってくる。
それは驚くほど近くから聞こえて、私の直ぐ近くの床が砕けた。
灰色の頭が猫先生に掴まれている。側頭部から床に叩きつけられた伊吹は、ギリギリの所で先生の刃を折ったようだった。
「は、~~っ!」
「伊吹!!」
「止まんなッ!!」
伊吹は猫先生の腕を真横から殴りつける。それでも先生は怯むことなく、血だらけの手をこちらに伸ばした。
柘榴先生を抱えた状態では速度が出せない。先生をあまりに荒々しく運ぶのは駄目だから。
私は流海と息を合わせて一歩を出し、背中を猫先生の指先が掠めた気がした。
「頭下げろよ暴力姉弟!!」
瞬間、私と流海は揃って頭を下げ、柘榴先生を庇って倒れ込む。頭上を勢いよく超えた武器――狼牙棒は、猫先生の腕を弾き飛ばした。
「樒!」
「よーぉ涙ちゃぁん、しっかり霧崎さん取り返してるじゃーん」
軽い調子で金髪が揺れる。樒は狼牙棒を両手で回し、猫先生は右手を押さえて膝を着いていた。
「とっとと走れよ傷だらけの双子。霧崎さん死なせたら殺すって樒が言ってるー」
「すめら、ぎ、さん……?」
「あぁ、ごめんね朔夜君。私、涙ちゃんには砕けた口調で話してるの」
伊吹は何度か深く噎せ、樒は猫先生に狼牙棒を向ける。
顔を上げた猫先生の目は、左目だけが白く戻っていた。
「すめらぎ!」
「はぁい猫柳さん」
「おれの、足をつぶせ!!」
樒の狼牙棒が揺れる。猫先生は白い目をこちらに向けると、目尻に皺を寄せた。
「おわないように、追えないように……たのむ」
「ねこ、」
「せんせ……」
先生の白い目を黒が侵食していく。猫先生は再び自分の足の甲を刃で貫いて、鋭く樒を見上げた。金髪の彼女は、顔から感情を削ぎ落とす。
「うっわ……」
硬直していた私の体が、走り出した伊吹に抱えられる。
竜胆は柘榴先生を抱え上げて、朝凪が流海の腕を取った。
いつかのアテナの林のように、私と流海の意思と反して景色が変わる。
私の目は狼牙棒を振り上げた樒を見て、彼女の声を拾ってしまった。
「……だから、嫌いなんだ」
猫先生の顔を見る。
先生は私と流海に視線を向けて、口角が震えていた。
あぁ、駄目だ、見るな自分。
伊吹の肩に顔を押し付けて、猫先生から視線を外す。
そうしなければ、私はヤマイを発症すると思って。ここにいる全員を巻き込むと分かって。笑顔の苦手な猫先生が――笑ってくれたと思ったから。
狼牙棒が叩き下ろされる音がする。
骨の砕ける音がする。
刃の割れる音がする。
何度も、何度も、何度も聞こえて。
それでも、猫先生の悲鳴だけは、聞こえなかった。
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