第89話 瞼

 

「行ってくるね、小夜ちゃん。突然お邪魔してごめんなさい」


「いいえ~、皆さんいってらっしゃいです。どうぞお気をつけて」


 いばらが出て行く姿を、伊吹いぶき小夜さよは見送った。彼女は目にアイマスクをつけているため正しくは見送っていないのだが、気持ち的には見送った。


 大人数で埋まっていた室内が急に静けさを取り戻す。小夜は一人、兄の言いつけを守ってソファに座り続けた。誰に意見をするわけでもなく、誰に対して指示を仰ぐわけでもなく、危ないことはせずに安穏と。


 小夜はアイマスクを触った後、慣れた動作で立ち上がった。彼女の視界は常に暗い。何も映さず、何も見ず、そうすることで全てを守っている。


 灰色の少女は、愛していた世界を見ない道を選んできた。


 * * *


 伊吹小夜――視界にあるものを瞬きの間に凍らせるヤマイ。


 最悪の数字である印数六を刻まれたヤマイの一人。その数字は周囲への悪影響が強い証であり、彼女の兄である伊吹朔夜も同様の数字を刻まれている。小夜は自分と兄以外の印数六の存在を、流海しか知らなかった。


 六は災厄の数字。


 自分にも他者にも影響を及ぼす、ヤマイの中でも嫌われ者。


 小夜が印数六を刻まれたのは小学三年生の時だった。


 体育の時間、友達と一緒に体育館に入った瞬間。無意識に瞬きをしたその時。


 小夜の目の前には凍り付いた世界が広がった。


 少女の視界に映る壁も床も窓も、同級生すらも凍った景色。


 驚愕に身を固めた小夜は目を閉じる。そしてもう一度開いた瞬間、視界に映るものがやはり凍ってしまった。


 凍っていた者の氷はより分厚くなり、凍っていなかった部分も新しく凍ってしまう。


 まだ幼い小夜には分からなかった。どうして周りがこんなに凍り付いていくのか、どうして見るもの全て冷たくなってしまうのか。


「小夜ちゃん!」


 分からない少女は、自分を呼ぶ担任を見た。教師はただ一心に、凍っていない生徒を守ろうと血相を変えている。


 担任は気づいていない。クラスメイトも気づいていない。小夜自身も気づいていない。この惨状がどうして起こっているのか、誰が引き起こしているのか。


 だから担任は、守る為に小夜も呼んだ。自分の方へ、他の子ども達と同じように。


 小夜は涙目になりながら、両手を前に出して駆け出した。


「せん、せぇッ」


 怯えた小夜の目から泪が零れる。少女は手を差し伸べてくれた担任やクラスメイトを見て、滲んだ視界に思わず瞼を下ろした。


 直ぐに少女の瞼は上がる。灰色の睫毛を濡らして、揺らして、冷気と共に少女は世界を見る。


 目の前にあったのは、凍り付いた担任とクラスメイト達の姿だとも思わずに。


「へ、ぇ、ぁ、ぁあ……ッ」


 小夜は思わず自分の両目を押さえる。掻き毟るように爪を立てて、前髪を必死に伸ばすようにして。


 思わず瞬きをすれば、少女の掌さえも凍り付いた。


 冷たい空気が小夜を包み込む。体育館に少女の泣き声だけが響き渡る。


 異変に気付いた教師陣と、他の生徒も体育館に駆け付け始めた。小夜の吐く息は大きく震え、耳には上擦った兄の声が届いた。


「小夜!!」


 灰色の少年が誰よりも早く体育館に飛び込む。小夜の兄、小学五年生の伊吹いぶき朔夜さくやは、泣きじゃくる妹の姿に顔を歪めた。


 冷たい空気の中で朔夜は小夜を抱き締める。長袖をいっぱいに伸ばして、手袋をつけた手で妹の体を包み込んで。


 少年は自分の胸で泣き叫ぶ妹に奥歯を噛み、周囲の視線が集まっていると気が付いた。


 彼が見たのは怯えた目。冷たい瞳。


 その日、小夜の左手には印数六が刻まれた。


 ――伊吹兄妹は捨て子である。


 二人は両親の名前も顔も知らず、物心ついた頃には孤児院にいた。名字は院長が与え、「朔夜」と「小夜」という名前は二人が持っていた白いハンカチに刺繍されていたそうだ。


 朔夜は孤児院で引き取られた頃からヤマイを患っている。その左手にはまだ印数がなかった為、院長はヤマイだから捨てられたのだろうと憐みと慈悲の視線を向けた。


 共に小夜も居たことから、院長は小夜もヤマイを患っているのではないかと判断した。しかし少女の症状は確認されないまま時は過ぎた。


 予想していた発症が小学三年生の時だっただけ。

 あまりにも強烈だっただけ。

 広範囲に影響を及ぼし、凍傷による傷者を出してしまった、だけ。


 世間は小夜をきちんと調べていなかった院長を連日責め立てた。


 週刊誌は最低の院長だと文字で叩き、孤児院には罵詈雑言が投げ入れられ、被害者家族からの感情も降り注いだ。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさぃ……」


「小夜は何も悪くないんだよ。悪くない、悪くないんだ」


 院長は初老の男であり、白髪の混じった黒髪と笑い皺が印象的な人物である。彼の目には慈愛の色が常に浮かび、ヤマイである朔夜も小夜もヘルスの子と同様に守り育ててきた。


 今も、院長は泣きじゃくる小夜を穏やかに宥めている。小夜は目に巻いた包帯をぐしゃぐしゃに濡らし、灰色の髪を院長に撫でられていた。


「朔夜、そこにいるね」


「……はい」


 院長に呼ばれて、朔夜が廊下から部屋に入ってくる。元々ヤマイとして肩身の狭かった朔夜は、小夜の事件をきっかけに学校に行かなくなった。他の孤児達は院長と繋がりのある別の孤児院へ移され、残ったのは疲弊しきった伊吹兄妹だけである。


 院長は泣き疲れて眠った小夜の頬を撫でて、朔夜の頭も撫でた。皮膚が触れ合ってしまわないよう、院長自身も手袋をつけて。


「いいかい朔夜、よく聞きなさい。この世界は、君達に優しくない。ヤマイに優しくないんだ」


「……はぃ」


「でもね、ヤマイに優しい人だってきっといる。少なくてもいるんだ。ただ優しくない人の声が大きすぎるだけでね」


「院長みたいな人が、いるんですか」


 朔夜は灰色の前髪の奥から院長を見上げる。院長は数度目を瞬かせると、笑い皺をより深く刻んだ。


「君達は、私が優しいと感じてくれていたのかい?」


「……すごく」


 朔夜の手が院長の服の裾を掴む。院長は朔夜の目元を指先で撫でると、目の縁を滲ませていた。外からは院長を責め立てる社会の声が続いている。


「それは良かった……良かったよ」


「院長?」


「優しくしたいと思ってもね、それが伝わっているか否かで雲泥の差があるんだ。だから、だからね、私の優しくしてあげたい気持ちが君達にきちんと伝わっていて……私は、嬉しいんだよ」


 大事に言葉を紡いだ院長は、朔夜に荷物をまとめさせる。朔夜は言われた通りリュックサックを背負い、院長に指示された別の孤児院を目指すことになった。お金を渡され、地図も持ち、どの電車に乗ればいいのか丁寧に教わって。


 起きた小夜は濡れた包帯を擦り、不安そうに兄と手を繋いだ。


「朔夜、小夜」


 孤児院の裏口で、ヘルスの院長は笑っている。声の小さな、優しい人が笑っている。


「君達は優しい子だ。でもね、出会う人すべてに優しくしようだなんて思わなくていい。自分の心を大事にしなさい。優しくしたいと思う人にだけ優しくして良いんだ。友達になりたいと思った人だけ大切にしたって、この世界では許される」


「いんちょう……」


 小夜の幼い手が院長の服を引いた。困ったように微笑んだ男は膝を折り、小夜の目から包帯を解く。濡れた包帯を握った彼は、新しい包帯を少女の伏せられた目に巻いてやった。


「覚えていなさい。これからきっと、君達にはつらいことが沢山ある。そのヤマイで自分も他人も傷つけてしまうかもしれない。それでも、例えヤマイが悪いものだと言われ続けても、君達自身が悪い人になった訳ではないんだよ」


 皺の浮かんだ手が兄妹の印数を撫でる。小夜は唇を噛み、朔夜は目元を強く摩った。


「さぁ、行きなさい。心無い言葉は全て私が受けるから」


「いんちょ、でも、わたし、私が、」


「小夜、君は悪くない。誰も悪くないんだ」


「でも、でも……」


「可愛い可愛い、私の子達。朔夜、小夜を頼むよ」


「っ……はい」


 ぐずる小夜は朔夜に手を引かれ、院長の手は兄妹の背中を押した。振り返ってはいけないと言い聞かせて、お互いの手だけは離してはいけないと助言して。


「みんなに好かれる人にならなくていい。分け隔てない温かさなど持たなくていい。ただ、共にいたいと想った人の隣に立てる人でありなさい。守りたいと想った人を傷つけない人でありなさい」


 それが、院長が兄妹に向けた最後の言葉。


 朔夜は泣きながら妹の手を握り、小夜は真っ暗な世界に嗚咽を響かせた。


 目を腫らした兄妹は遠い遠い、院長に言われた孤児院に辿り着く。大人は慌てながらも二人を迎え入れ、しかしヤマイの性質的に抱き締めることに戸惑ってしまった。


「ごめん、お兄ちゃん、ごめんね、ごめんね……」


「謝るなよ小夜。俺は大丈夫だから」


 小夜は新しい環境に泪する日々であり、朔夜は妹の傍を離れなかった。徐々に気持ちが落ち着いてきた頃には既に、兄妹は孤児院の中で浮いていた。


(あ……駄目だ、このままじゃ、駄目だよ)


 小夜は目を塞いでいても生活できるよう、周りの空気が読めるように練習を重ねた。手探りで物の形を察し、耳で周りの動きを感じ、肌で空気を掬い取れるように。


 朔夜は妹だけを見守り続けた。世界に二人ぼっちになったような心地を抱きながら、院長の元を離れてからは泣くこともなくなった。


 印数六の兄妹は院内でも学校でも気味悪がられる。孤児院の大人は優しく接してくれたが、共に生活する子ども達は違った。小夜の包帯が解ければ距離を取り、朔夜は妹以外に近づかない。そんな兄妹を引き取りたい大人が現れる筈もなく、気づけば朔夜は高校一年生に、小夜は中学二年生に進級した。


「お兄ちゃん、お兄ちゃん、高校生ってことは彼女できた?」


「いや、できねーよ」


「えー……それはお兄ちゃんが格好良くないから?」


「なんで急に俺の顔面をけなすんだ」


「触ったら分かるもん。お兄ちゃんの顔は普通だって!」


「普通って……」


「ね、ね、早く彼女作ってよ。もういっそ奥さんでも良いよ! 仕事して―、結婚してー、子ども作って! 私がお兄ちゃんの子ども抱っこするから!」


「急に訳分かんねぇこと言うのやめなさい」


 朔夜は手袋をつけた手で小夜の鼻をつまむ。灰色のおさげを揺らす妹は口を尖らせ、兄はため息を禁じえなかった。


「そしたらさー、家族だよ? 家族が出来るんだよ? 思いっきり自分のこと愛してくれて、いーっぱい愛したいって想う人と一緒になるのが家族だよ? 凄くない? 凄いよね。お兄ちゃんの家族ができたら私は嬉しいし、私はお姉ちゃんができて嬉しいし、ぽかぽかして良いと思うんだけど!」


 熱弁する小夜は体温が低い。それは兄の朔夜も同じであり、二人の周囲は常に肌寒かった。


 孤児院では誰も二人に近づかない。触らないように、互いが傷ついてしまわないように。


 小夜は兄の手を握ると、俯きながら本音を零してしまった。


「……ここは、寒いもん」


 朔夜は小夜を見下ろして、意味もなく後頭部を掻いてしまう。


 小夜は自分の未来を諦めて、兄に頼り切る自分は駄目な存在だと決めつけてしまっていた。


 自分で自分は駄目なのだと言い聞かせて、自分では誰の役にも立たないのだと、誰も選んでくれないと捻くれてしまった。変わらなければいけないと足掻く自分と、変われないと蔑む自分が常に小夜の中で喧嘩しているのだ。


 兄は間を取って考えると、軽く妹の頭を叩いておいた。


「なら、俺のことも好きで、小夜のことも好きになってくれることが彼女の第一条件だな」


「それは嬉しい条件だね!」


「おーおーそーだな」


 小夜は嬉しそうに飛び跳ねる。朔夜は軽く笑って流し、勝手に語り始めた妹の声に耳を傾け続けた。


「お兄ちゃんはどんな人が良いかな。ゆるふわ系の人とかは苦手でしょ? だからお嬢様タイプとかじゃなくて、あれだ、真面目な? 凛とした人の方が良さそう! あ、でもちょっと天然な人くらいが良いかな? お兄ちゃんは面倒見られるより見たい人だもんね!」


「……なんで俺は妹に好みを把握されてんだろうな」


「妹ですから! なんなら黒髪系統の人が好きだってことも知ってるよ!! 私達の髪って灰色で白黒はっきりしてないから、隣に格好いい黒髪の女の人が並んでたら絵になるよね~」


「完全な黒髪なんて珍しいだろ」


「探せばいるよ! きっといる! お兄ちゃんの好みドンピシャで条件クリアしてくれる人はきっといるんだー。それで猛アタックしてー、私も手伝ってー、目指せあったかハッピーライフ!」


「はいはい。ほら、もう出ないと遅刻するぞ」


「はぁい」


 朔夜は話半分に対応し、小夜の背中を押してやる。


 寒がりの兄妹は、温かさに憧れていた。


 かつて自分達の背中を押してくれた院長のような温かさ。時に街に出た時に見かける家族の温かさ。友人と他愛無い会話で笑っている温かさ。


 捻くれた小夜は、人の温かさを朔夜よりも顕著に求めていた。


 誰かに必要とされたい。兄に頼るだけの自分でありたくない。守られるばかりは嫌だ。迷惑をかけたくない。兄には兄の幸せを、自分には自分の幸せを見つけたい。二人ぼっちなんて寂しすぎるし、寒すぎる。


 ヤマイを患う自分を、認めてくれる他人が欲しい。


(……我儘だ、出来っこないよ)


 小夜は中学校からの帰り道、高望みする自分に呆れてしまう。自分には無いものが多すぎて、周りの空気に敏感になってしまったからこそ求めてしまう。


 小夜は、朔夜一人ならばもっと自由だったのではないかと思わずにはいられない。自分がいることで朔夜の交友関係まで制限しているのではないか。兄はもっと自由になって良いのではないか。重荷になりたいわけではないのに、面倒を見られるばかりなんて耐えられないのに。


「……強くなりたい」


 呟く小夜は、不穏な空気の揺れを知る。包帯で目を隠したからこそ気づけた変化がある。


 少女は背後から自分を見ている何かを見つけ、一気に駆け出した。


 見えない世界は恐ろしい。それでも、小夜の視覚以外の感覚全てが世界を映させた。


 何か分からないが、それはきっと怖いものだ。怖い物からは離れないといけない。


 そう思って駆けていた筈なのに、小夜は知らぬ間に路地裏へ誘導されていた。


「え、」


 少女の腕を斬りつける痛みがある。腹部に刺さった違和感がある。


 余りの激痛に声も上げられずに呻いた小夜は、生暖かい血液の中に倒れ込んだ。


「な、に、なに、ぇ……?」


 見えない小夜の体が震えてしまう。手は包帯にかかるが、外してはいけないと少女の記憶が悲鳴を上げた。


 その間も小夜に斬りかかる黒があり、刃に容赦はなかった。


 小夜から痛みも呻きも遠のいていく。全ての感覚が過敏になり、少女は命を守る為に意識を手放した。


 その後のことを小夜は余り覚えていない。


 微睡むような意識の中、沢山の人に声を掛けられながら運ばれた気がする。


 朔夜に泣きそうな声で呼ばれ続けた気がする。


 手も握られていた気がするのに覚えていない。


 ただ全身が痛くて、呼吸も絶え絶えとしか出来ず、気分も悪くて、恐ろしかった。


 小夜の脳内にフラッシュバックするのは、ヤマイを発症した日の光景。


 見える全てが凍り付き、誰の事も見られず、暗闇に降り注ぐ言葉に心までもが砕されるような恐怖。


 小夜は恐れた。全てを恐れ、泪した。


 少女は世界を見ることが好きだったのに。輝く太陽も、友達と遊ぶことも、先生の顔を見ながら勉強することも、兄と笑う事も大好きだったのに。


 彼女が見れば全て凍ってしまう。彼女の体も凍ってしまう。心も凍てついてしまう。


 どうしてこんなに寒いのか。どうして自分の大好きだったものが瞬き一つに奪われなければならなかったのか。


 凍てついて、凍てついて、守ろうと思って全てを見ないようにすれば兄以外がいなくなってしまった。


 なくなって冷えてしまうならば知りたくなかった。大好きなどという感情を抱いて生活したくなかった。彩られた日々を二度と見られないだなんて思いたくなかった。


 好きで凍らせている訳ではないのに。好きで見ないようにしている訳ではないのに。


 誰もそれを理解してくれない。小夜の努力を知りもしない。ヤマイの辛さを「危険だから」の一言で跳ねのけて。


 好きだった世界を嫌いになりたくなかった。大好きだった景色を汚したくなかった。


 それでも少女は凍らせるから。彼女の瞬きは厄災だから。


 こんなに心が寒くなるなら、楽しかった思い出さえも凍ってしまいそうになるならば。


 世界の全てが凍てついてしまえば、愛しさも一緒に無くなる気がした。


 願った小夜は、目を閉じていても凍り始めた。睫毛が凍り、瞼が凍り、彼女に接する全てが氷結していく。


 それは静かな侵食。氷に触れた者は連動するように凍り付き、彼女に刺さったメディシンの点滴針も、治療道具も、メディシンさえも凍り付き始める。


 彼女は凍った瞼を上げる。透き通るような双眼は凍てついた部屋を確認し、自分にナイフを振り下ろそうとしていた皇を凍らせた。


「ッ、クソ」


 関節が凍って皇は固まる。なんとか顔を守った少年の後ろからは、テレクを握った棗雲雀と椿鶯が飛び出した。しかし、小夜の視界に映った二人も凍ってしまう。


「ぅ、わ」


「ッ、雲雀」


「私は、へー、き!」


 実働部隊ワイルドハントの三人は奥歯を噛み、叫ばない化け物マッキになった小夜を見つめる。少女は虚ろな瞳で世界を見つめ、部屋の気温は下がり続けた。


 小夜は知らない。朔夜が泪を流していることも、彼を永愛が必死に止めていることも。


「さよ……小夜ッ!!」


「朔夜、君! 助ける、助けるから!! いばらちゃん!」


「いきます」


 小夜は体を起こそうと、凍った腕を動かそうとする。少女の行動に冷や汗を浮かべた朔夜は暴れかけ、隣に立ったいばらは矢を引き絞った。


 やじりにプラセボを塗り付けて、紫の少女は矢を放つ。


 一本では足りないと知っている彼女は素早く二射目、三射目を放ち、小夜の腕に薬が突き刺さった。


 小夜は何も反応せず、何も叫ばず、何も訴えないまま倒れ込む。傷口からは清らかな薬が流れ込み、再び少女の意識は混濁した。


 彼女の世界は凍り付いている。小夜の世界は白銀に染まっている。


 少女が明確に意識を覚醒させた時、隣に兄はいなかった。


「はじめまして、伊吹小夜ちゃん」


 小夜はいばらと永愛から聞かされる。朔夜が実働部隊ワイルドハントに入ったのだと。ヤマイを緩和させる薬を求めて、戦い始めたのだと。


「……お兄ちゃん」


 小夜は包帯を巻いた目を押さえて泣いた。自分のせいだ、自分のせいだと胸の中で責め立てて。


 いばらは何も言うことが出来ず、永愛は静かに目を伏せた。


 * * *


 小夜は迷惑をかけないよう、この一年を聞き分けの良い子として過ごしてきた。


 兄の重荷にこれ以上ならないように、迷惑をかけないように、補助員として最低限の範囲で頑張ってみた。


 そんな小夜が出会ったのは、二人ぼっちを望む双子だった。自分と兄が抜け出したいと思った、寒い世界を望む姉弟だった。


 人当りよく笑う流海と、誰にも弱さを見せない涙。


 マッキの涙を止める為に包帯を外した時、見えた黒髪の彼女は泣いていた。泣きながら笑っていた。


 涙の声を聞くたびに、小夜は傷ついた彼女の姿を思い出す。冷たい世界で暴れていた涙は、酷く温かい言葉をくれるのだと思いながら。


「あれ……涙さん、武器……持ってなかった?」


 一人残った小夜は気づいてしまう。努力して身に着けた感覚で思い出してしまう。


 部屋を出て行った涙は、いつもアテナから帰った時に持っている武器を所持している空気ではなかったと。


 小夜は良い子だ。兄の言いつけを守って、危ない事に首は突っ込まない。


 それでも、それでも、彼女にとって涙は、兄以外で初めて小夜の努力を見てくれた人だから。真剣に悩んで、言葉を大切に選ぼうとしてくれた人だから。


 ――人を罵るのは簡単なのに、人の努力を凄いと伝えるのはこんなにも難しい。下手をしたら嫌味に聞こえるし、軽視しているようにも伝わるでしょう。だから、うん、困ります


 膝を抱えた小夜は、静かに立ち上がる。


 目に包帯を巻きなおして、傘を持ち、兄が行ったと報告した空穂姉弟の家に向かう為に。


「……ごめんね、お兄ちゃん」


 世界を愛していた少女は、雨の中を駆け出した。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る