第88話 美

 

 人の心を縛り付け、行動を制限する事柄は様々だ。


 褒められる事を望んで良い行いをする。

 怒られる事が怖いから目立たないようにする。

 嫌われてしまう事に耐えられないから自分以外の嫌われ者を作る。


 空穂うつほるいの心を縛るのが家族を失う煩慮はんりょであるように。


 朝凪あさなぎいばらの心を縛っているのは、自分を消失する鬼胎きたいだ。


「いばらは良い子ね」


「いばらはよく出来た子だ」


 いばらの両親は褒めて育てる方式を取った。美しい物を愛し、美しい信仰をして、美しい存在であろうと努力する類の人間だった。美しくあれば認められ、他者に一目置かれる存在でいられるのだと信じているから。その考えは、勿論いばらにも与えられた。


 いばらは服を少しでも汚せば叱られる。

 髪が乱れるだけで目をすがめられる。

 言葉遣いが揺れると窘められる。


 いばらは何も疑わなかった。美しくしていれば怒られない、美しくあれば褒められる、美しい心でいれば認められる。


「……しっかりしなきゃ」


 朝凪いばらは、美しくなければ許されない子どもだった。


 それは彼女が生まれてから纏わりついた思想。植え付けられた重たい縛り。


 だからこそ、彼女はヤマイを発症させることを恐れるのだ。


 両親に言われ、厳粛な聖パルテノス学園に入学してからも少女は見目に気を遣い続けた。


 美しさを心掛けて、美しくあるように背筋を伸ばして。


 そうすれば許され続けると信じ切っていた。社会にも、学校にも、神にも、両親にも。


 彼女は自分の意味を、美しくあることだと決めつけた。


「三百g……減ってる」


 高校一年生のいばらは、表示された体重を見下ろして肩を落とす。細すぎず太すぎず、健康的であることこそが美しさに繋がるのだと教えられたから。


 いばらは体重が減りやすく、常に胃痛を感じていた。


「綺麗でいないと」


 いばらは鏡の前に座った自分を見つめる。


 頬を押さえて、息を吐いて。いばらは毎日自分に言い聞かせた。


 美しければ認められる。美しければ見捨てられない。美しければ許される。美しければ息が出来る。


「だから、美しくいなさい」


 そうしていれば、ある日。


 少女は自分の肌に変化を感じた。


 緩んだような、弾力が無くなったような。


 それはいばらの体に冷や汗をかかせ、彼女は己の指先を見た。


 微かに見えたのは緩み、溶けだしている自分の皮膚。


 学校に行く前の時間、いばらは息を呑み、家には悲鳴が響き渡った。


 それが彼女の始まりだ。


 彼女の縛りの、開幕だ。


 ――朝凪いばらは、見目を褒められないと溶けるヤマイである。


 美しいという言葉が少女の姿を保ち、可愛いという響きが彼女を人間として維持させる。


 褒められなければ少女の体は溶解する。ゆっくりとゆっくりと、氷が常温で溶けるように皮膚が緩み、血管が透け、徐々に筋肉や血管までもが露わになっていく。


 誰が何と言おうとも、ヤマイを発症したいばらの姿は美しくない。その姿は患った化け物の体現であり、人間として扱われることも無い。


 いばらはパナケイアの定期健診が嫌いだ。


 ヤマイを特定する際、いばらは絶望を垣間見た。


 自分の肌が溶け、血管が溶け、筋肉までもが溶けだす気味の悪い感覚。


 研究員が凍える瞳でいばらを見下ろす。いばらは自分が一体どうすれば人間に戻れるか、それこそ本能で知っていた。自分の症状がどうすれば治まるか、ヤマイを患った時に察したのだ。


「誉めて、ください」


 喉の皮膚が溶ける中、いばらは懇願した。


「ぉ、願いします。お願いします、おねがいします」


 溶けだしそうな白目から泪を零し、少女は自分を化け物とする相手に頭を垂れた。


 それでも研究員達はヘルスの為に観察した。溶けだしたいばらの皮膚に害は無いのか。彼女の意識はいつまで保たれるのか。彼女の生命活動はどこまで維持されるのか。


 いばらは知ってしまう。誰も自分を救ってくれないと。醜く患った自分は、人間でなくなってしまったのだと。


 顔を覆った少女は部屋の隅に固まり、こと切れそうな声で切願した。


「たすけて、助けて……ぃや、こわぃ、いや、いや、化け物になんて、なりたくないの……ッ」


 溶けて、流れて、嗚咽を零して。


 そんないばらを救ったのは、青い目の少年だった。


「――綺麗だ」


 たった一言で、少女の肌は美しい姿に戻る。魔女の呪いが解けた王女のように、眠りが覚めた姫のように。


 いばらは呼吸を乱しながら顔に触れ、腕に触れ、冷や汗の滲んだ顔を覆った。


 呼吸の浅い少女は自分の体を何度も確認する。腕も足も元通り形を整え、制服を綺麗に着こなしていた。


 しかし、いばらの目からは泪が止まらない。彼女の体は芯から震え、目の前には見知らぬ男が膝を着いた。


 見た目は二十歳の少年――ひいらぎ葉介ようすけだ。


 白い衣装を纏った葉介はいばらの紫がかった瞳を見つめた。


「はじめまして、俺は柊葉介。君は?」


「……ぃ、ばら、です。朝凪、いばら」


 萎みそうないばらの声に、葉介は青い双眼を細める。


 高校一年生となった葉介は、補助員として正式な立場を確立していた。


 高校進学を機に小梅が命令したのだ。自分の手足となるだけでなく、個の補助員として見識を広めろと。


 葉介は小梅の言葉を受けて「傍仕え」と名乗ることを封じられ、パナケイアの補助員となった。その日も彼はパナケイアの要請を受けていばらの前に現れたのだ。


 しかし、そんなことをいばらは知らない。


 彼女にとってみれば、葉介は自分の体を元に戻してくれた相手なのだから。


「私、わたし……生きて……?」


「あぁ、生きてるよ。大丈夫だ」


 いばらの手を取った葉介は、少女の左手に印数四を刻む。


 いばらは美しい自分の手に刻まれた印数に目を見開き、零れる泪が葉介の前で止まることはなかった。


「ヤマイだなんて、美しくない」


「醜いヤマイだ」


「ご、めんなさい。ごめんなさい、発症しないようにします、ごめんなさい、ごめんなさぃ……」


 印数を必死に隠して、いばらの呼吸が浅くなる。両親は娘がヤマイを発症させることを許さず、醜くなる子どもを認めなかったから。


 いばらはヤマイの発生を何よりも恐れた。


 ヤマイは自分を殺してしまう。

 ヤマイは自分を人でなくしてしまう。

 ヤマイは自分を、醜くしてしまう。


 いばらは恐ろしさのあまり、身動きが取れなくなった。


 呼吸が浅くて堪らない。


 毎日毎日酸欠で、美しくあれと、美しくあれと、美しくあれと、彼女の思考が呪詛となる。彼女の思いが足枷になる。


 いばらは自分の体を保とうと必死になり、しかし、褒められる言葉を素直に受け取ることは出来なかった。


「今日も綺麗よ、いばら」


「ありがとう……お母さん」


 毎朝、いばらの母は娘を褒めた。解れなく美しく、淀みなく整えて、完璧を求める娘の姿を言葉だけで肯定した。


 朝凪いばらは美しくなければ認められない。


 美しくなければ、朝凪いばらは生きることを認められない。


 それでもいばらは、自分のヤマイを口外することはしなかった。


 美しさを求めて育った心は、彼女が他者に迷惑をかけることを、「美しい」と言わせることを恐れてしまったから。


「今日もお美しいですわ」


 小梅の言葉に、いばらの心が軋んでいく。


「いばらちゃん! 今日も美人さんねー! ね、鶯!」


 雲雀の優しさに、いばらの感情が傾いていく。


「あぁ、綺麗だ」


 鶯の温かさに、いばらの気道が閉まっていく。


「今日も可愛いわ、いばらちゃん」


 樒の微笑に、いばらの頬が引き攣っていく。


「ありがとう、ございます」


 褒められる度に、いばらは自分のことを考慮してくれているのだと罪悪感を纏った。


 自然と口にされるべき言葉。強要されるべきではない感性。それを自分という存在が強要している。制限している。


 いばらは奥歯を噛み締めて、より一層見た目に気を遣い、誰もが自然と思えるような美しさを求めた。


 求めて、求めて、求め続けて。


 いばらはペストマスクを手に取る。白い衣装を身に纏う。少しでも他人の負担になりたくなくて、自分の気持ちを守りたくて。


 彼女がロング・ボウを取ったのは、誰かを傷つけたと強く感じることがないからだ。


 刀やハンマーのように直接手に響かない感覚。自分の手から離れた矢ならば、自分は悪者にならない気がした。自分が汚れない気がした。


 いばらはαの果樹園を取り囲む戦闘員に矢を向ける。弓を構えて弦を引く。


 震える内臓をどうにか落ち着かせようとして、そうしなければ自分は美しくあれないと、認められないと言い聞かせて。


 彼女は矢を離す。


 戦闘員の足を射る、腕を貫く。彼らが守る果樹園に駆け込んで、震える手で少女はαとβを掴み取った。


 自分は生きていて良いのだと思いたくて、誰にも迷惑をかけたくなくて。


 怯えながら、いばらはアテナを駆け抜けた。


 身を潜めて、息を殺し、震える腕で弓矢を構え続けた。


 誰かに無理やり褒めて欲しかった訳ではない。誰かに気を遣わせたかった訳ではない。


 朝凪いばらは、誰の重荷にもなりたくなかっただけだ。


「綺麗だな」


 弓矢の訓練をするいばらを見て、葉介は伝えた。


 いばらは目を見開いて、今の自分の姿を見る。


 制服でも運動着でもない、汚れた戦闘服。任務後ならば緊張感を纏って弓の練習が出来ると考えて、一人で訓練室にいた時のこと。


 美しくない筈の姿を、汚れた姿を、葉介は褒めたのだ。


「……ぁ、りがとう、ございます」


 いばらの腕が震えて、構えを解いてしまう。葉介は涼しげな顔でメディシンの投与日を伝え、訓練室を後にした。


 閉じた扉を見て、いばらは鳩尾辺りに生まれる感情を知る。


 首元から額までを熱くした少女は、息を止めながらその場に膝をついてしまった。


「……あぁ、あ、ぁあ……」


 言葉にならない感覚が背中を撫でる。赤くなった頬が戻らない。


 葉介は溶けたいばらの姿を知る数少ない相手だ。


 彼はいばらが醜くヤマイを発症した時と知っている。今だって決して褒められるような姿はしていない。戦闘服姿を褒める者など今までいなかった。


 それでも、彼は少女を褒めたから。


「……馬鹿だ、私は、ほんとうに……」


 いばらは自分を戒める。


 たった、二回。そのたったの間に、彼女は青い瞳に感情を抱いてしまった。


 醜い自分に綺麗だと言い、訓練する自分の立ち姿に言葉をくれた人。


 それでも少女は知っている。聡明な青い瞳が、いつも誰を見ているのか。


 青い瞳は桜色しか見ていない。それをいばらは知っている。いつもいつも桜色の傍に控えて、彼女の言葉を聞いて、彼女だけを見ているのだと、朝凪いばらは気づいている。


 彼が自分に言葉をくれたのは、そういうヤマイだと知っていたから。一度目は確かにそうだ。二度目にも他意なんて無い。


 いばらの理性はきちんと分別をつけている。自分が彼にとって、実働部隊ワイルドハントの一人としか認識されていないと知っている。


 知っている、知っているのに、分かっているのに。


 少年は、整っていない自分の姿を見て、確かに彼女のヤマイを止めたから。


「ぁ……ぅ、っ……ごめんなさぃ……」


 朝凪いばらは、易く脆い自分を嫌った。


 本音を仕舞って、気持ちを仕舞って、周りの事を考えて、ヤマイに怯えて。


 いばらは擦り切れていった。心を摩耗して、強迫観念に駆られて。


 そんな少女の前に蜂蜜色の目の少年が現れたのは、誰かの悪戯だったのかもしれない。


 いばらは見つけてしまった。


 パナケイアの廊下で、研究員に囲まれている少年の声を。


 自分でパナケイアに駆け込んで、まだ分からない自分のヤマイに怯える相手を。


 少女は彼――竜胆りんどう永愛とあに、怯えた自分を重ねてしまった。


 研究員達は永愛を何番の研究室に入れて検査するか等の話をしており、当人の恐怖など優先しない。彼らが優先するのはヘルスだけだ。


 いばらは白衣の向こうに蹲っている永愛を見る。彼の体に起こった変化を知る。少年の悲痛な叫びを拾いとる。


「――助けて」


 その言葉を聞くだけで、いばらの足は動いていた。


 研究員の間を縫って、いばらは永愛の前に跪く。


 ヤマイを発症している少年はいばらに縋りつき、泪ながらに訴えた。


「たすけて、お願い、俺に、おれに――」


 いばらは永愛の言葉に息を止める。


 自分を掴んだ少年の手を見る。


 そうして少女は、首を縦に振った。


 少年の本能に応えて、生きたいに応えて。


 その日、いばらは永愛を救った。


 自分の心を閉じ込めて、彼と自分のヤマイは一種の麻薬になるのだと気づいてしまって。


「いばらちゃんは綺麗だよ」


「ありがとう、永愛」


 それは互いの姿を守る為。生きたい互いを救う為。


 いばらは青い目を追う前に、蜂蜜色の瞳を探すようにした。永愛の優しさを利用する自分を嫌悪しながら。


「いつもごめんね」


「謝ることないよ。俺の方こそ、ごめん」


「永愛こそ謝らないで。謝られるのは嫌」


「なら、いばらちゃんも謝らないで。俺も謝られるのは嫌だよ」


 彼女の口から溢れるのは謝罪ばかりだ。永愛はいばらを見つめて、いばらだけを見て、彼女に本心だけを告げていたのに。繊細過ぎる少女には曲折して伝わるばかり。永愛が優しいと疑わない少女は、思いやりのある笑顔に苦悩した。


「俺を利用していいよ。俺はそれでいい。君が泣かなかったら、それでいいから」


「……永愛は、優しすぎると思うの」


「いばらちゃんにだけは言われたくないなぁ」


 向かい合ったいばらと永愛は互いの手を握り合う。永愛は華奢な少女の手を包み込み、溶けるように優しい瞳を向けていた。


 大事な言葉も伝えずに、互いに変わらぬ関係を維持し続けて。


「ごめんね」


「あ、ほら、また」


「ぁ、う、」


 直ぐに謝るいばらを永愛は笑ってしまう。いばらは口を噤み、少年の手を握り締めた。自分が不甲斐なくて、申し訳なくて。


 永愛だけでなく、実働部隊ワイルドハントのメンバーはヤマイに対して優しかった。理解があるからこそ温かかった。


 いばらは常に、口でも心でも謝罪していた。


「別に悪くないと思うので謝らないでください」


 だからこそ、いばらにとって涙は強烈だった。


「ごめんなさい。今詰め寄ったって朝凪にだけ負荷をかける話でした。私は貴方に怒っているわけではないのに」


 飾らない言葉が深く刺さった。


「朝凪はいつも綺麗ですね」


 素直な言葉に許された気がした。


「私の怪我と自分の怪我を比べて大丈夫だとか言わないでください。私は私、朝凪は朝凪だ。朝凪が痛いと感じたならばそれは痛いんですよ、馬鹿ですか」


 厳しい言葉は、確かに優しかった。


「いいんですよ。行動を誰かに合わせても、気持ちが合わなければ苦しいだけです。だから朝凪、貴方は貴方を好きでいられる選択を探して、見つけて、進めばいいんです」


 いばらは涙の姿を、言葉を思い出す。


「俺は、パナケイアを壊したいって思うかな」


 いばらは、本音を告げた永愛の目も思い出す。


 涙達が出て行った後、いばらは考え続けた。


 怯えるばかりの自分を、息の仕方が分からない自分を好きでいられる方法を。


 どうすれば自分は、自分らしくいられるのかと。


 自分は誰の為に美しくあろうとしていたのかと。


「……いばらちゃんは、どうする?」


 いばらは、自分を見る雲雀に目を向ける。


「……私は、」


 美しい唇を噛んで、抱えていた膝を解いて。


 朝凪いばらは、立ち上がった。


「私は、パナケイアに行きます」


 紫がかった瞳は凛々しく前を向く。


 雲雀達は少女の言葉に頷き、葉介の青い目はいばらを射抜いていた。


「決めたんだな」


「はい」


 いばらは一瞬だけ眉を下げ、美しく笑う。


 拳を握って、背筋を伸ばして。


「私は、涙さん達の力になりたいんです」


 葉介はいばらの言葉に頷き、直ぐに桜色に視線を戻す。


 微笑むいばらは、小梅、葉介、雲雀、鶯とは違う道を選び取った。

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